若槻明日香は分かってくれない
「先生、質問があります」
職員室を訪ねてくるなり、教え子である
「どうして私は、
これでもう3回目。初回こそコーヒーを気道に詰まらせ噎せ返ったものだが、さすがにこう何度も続くと喉も気道も思考回路も、彼女の奇行をすんなりと受け容れてくれるもので。
「ねえ、若槻さん。前に言ったと思うんだけど。私と若槻さんはどういう関係?」
「教師と生徒です。私がJK2で」
「私は3年目の高校教師ね」
それで説明を強制終了させたかったが、そうは若槻明日香が卸さない。
「3年目だからダメなんですか。じゃあ何年目から恋愛解禁ですか?」
「なるほど。今日はそうくるか」
先に二度質問に訪れたときとは異なる切り口で、《質問タイム》が始まった。
若槻明日香。
東京都中野区に存在する男女共学の私立蓮華ヶ丘高校に通う女子高生。全校生徒ざっくりふたつに分けたとき、優等生にギリギリ傾くくらいの学業成績。勉強はまあできるが、バリバリとまではいかない。平均点よりちょい上という、一言で言えばこれといった個性のない生徒だ。
実際、連日尋ねてくるようになるまで、私は彼女の名前すら知らなかった。
そんな平凡な生徒のイメージが崩壊したのは、ここ数日のこと。
「だっておかしいと思いませんか。生徒と教師が自由恋愛をしてはいけないなんて法律はないんですよ?」
「はいはい、大きな声出したら聞こえちゃうからねー」
「聞かれたら困る話なんですか?」
「さあ、冷や汗かいてる人も居るんじゃない?」
「つまり、実例があるなら問題なしということですね」
音楽教師である私の許に、勉強を尋ねにくる生徒はそこまで多くない。音大受験を目指している生徒の相談にはマジメだが、勉強とまるで関係ない質問ばかりしてくる連中相手には、ひどく適当で気の抜けた返答ばかりだ。
周囲の教員達の反応はさまざまだった。もはや恒例となった若槻明日香の質問タイムを明らかに楽しんでいるニヤついた顔。「俺が代わりに指導してやろうか?」とばかりに視線を送る体育教師。他には、それこそ冷や汗をかいて我関せずを決め込んでいるような者。
「前例あってもダメなものはダメだねー」
「だからその理由を教えてほしいんです。どうしてなんですか東海林先生! 私のこと嫌いだから教えてくれないんですか?」
彼女はつかみ所のない生徒だが、ここ最近のやりとりで分かったことがある。
一点目。彼女は、本気で尋ねてきていること。
二点目。彼女は、納得するまで絶対に質問をやめないこと。
そんな人間には、頭ごなしに指導したところで意味はない。
若槻明日香は、常識や倫理、社会通念のような非論理な理屈では分かってくれないのだ。
「そうねえ……」
だから《質問》には、きっちり《回答》を用意せねばならない。
子どもの質問を真正面から受け止めて答えを探してあげるのは、オトナであり教師である私の務め。
いわばこれは、年の差恋愛Q&Aだ。
「まず、若槻さんを嫌いだから教えない訳じゃないから。そこは勘違いしないでね」
「ほっとしましたぁー……。東海林先生も私のこと大好きなんだって分かってよかったぁ……」
「そこも勘違いしてほしくないんだけど。まあ、いいか」
安心したのだろう、彼女はほっと胸を撫で下ろしていた。前提条件がかなり歪んでいる気はしたが、それを指摘するとQ&Aが5分10分では済まなくなるのは目に見えている。
「本題に戻るわね。今日の質問は、3年目の教師は生徒と恋愛できないみたいな話よね?」
「そうです! 自由恋愛は免許取って5年目以降ですか?」
「なんで5年?」
「お姉ちゃんが言ってたんです。5年無事故無違反ならゴールドになるって」
「愉快なお姉さんねー。ところで、教員の無事故無違反ってなに?」
「間違ったこと教えたらダメとかでは? そういえば東海林先生このあいだ、鎌倉幕府の成立年間違えてましたね?」
「私、音楽の教員免許しか持ってないからなー」
「じゃあ歴史教えちゃダメですよ。音楽しか教えちゃダメなのに歴史教えてたんだー。無免許ティーチャーだー」
若槻明日香が一筋縄ではいかないのは、この妙な頭の回転の速さと口の減らなさ加減だ。こちらがわずかにでもスキを見せると、話を混ぜっ返したり詭弁をぶつけてくる。
「まあ、確かに
「責任取ってください。取りかた分かります?」
「教員5年目になったらね」
「再来年じゃ卒業しちゃうじゃないですか。私は今、東海林
2年経って若槻明日香が卒業すれば、今の関係は終わる。彼女が質問をぶつけてくることはなくなるし、進学でも就職でも留学でもすれば、私以上に相応しい人間が彼女の前に現れるはずだ。
生徒にとって教員は、人生という名の塔に掛けられた
未来ある者を、梯子のそばに留めてはいけない。
「先生を呼び捨てにしない」
「なら未玖ちゃんから始めさせてください。私のことは明日香と!」
「あと8歳若かったらね」
「ならタイムマシンで8年間に飛びます!」
「はい、がんばって」
「いいんですか? やると決めたらやりますよ?」
「おおいにやって。で、8年前の私に、借金してでもビットコイン買い漁れって伝えてくれたら結婚してあげる」
「むう……」
不満たらたらの彼女を見ると、ほんのり胸が痛む気持ちもある。一時の感情とは言えど、たかが梯子をここまで想ってくれているのは喜ばしい。
「もう少し条件を緩めてはいただけませんか。友達料金みたいな感じで」
「私と若槻さんは友達じゃないでしょ」
「友達じゃないなら、恋人未満ですか? それとも、実は告白とかしてないけど付き合ってると思ってたみたいなヤツですか?」
「いいえ。教師と生徒です」
「付き合っては?」
「いません」
「そんなーっ!」
オーバーリアクションでショックを隠さない彼女を見ていると、思わず笑ってしまった。彼女とのQ&Aが、息の詰まる職員室に存在する一種の清涼剤であるということだけは、否定しようのない真実だろう。
「ともかく。若槻さんは生徒で、私は教師。貴女の疑問に答えて、人間として一段高く登らせてあげるのが私の仕事なの」
彼女の頭を撫でてやる。さらりと伸びた黒髪は、大したケアなどしていなくても、若さという美容液のおかげか艶めいていた。
「貴女は才能あふれる原石なの。だから私や他の先生をうまく利用して、貴女だけの夢を叶えて」
「だけど私の夢は――」
「教え子が夢を叶えること、それが私の夢だから」
若槻明日香だけではない。
少なくとも蓮華ヶ丘に通う生徒たちのためになるのなら、職員室まで尋ねてきてほしい。こんなしょうもないQ&Aや答えのない禅問答でもいいから教師をうまく利用して、自らの中に眠る才能を磨き続けてほしい。
教員と生徒の関係なんてそれでいい。それで充分なのだ、本来は。
「うー……。今日のところはこの辺にしておいてあげます……」
観念したのかどうなのか、興奮冷めやらぬ顔を真っ赤に腫らして、彼女は捨て台詞とともに私の元を後にした。曲がった背中がいやに弱々しくて、心底落胆しているだろうことは想像に難くなかった。
あの丸まった背中を抱きしめたらどうなるのだろう。
そんな危険な考えの萌芽を冗談めいた渇いた笑いで摘み取って、授業で使うレジュメの作成に取りかかる。
その時だった。
「東海林先生、ひとつだけ私に質問してください」
「なんでおうちに帰らないの?」
「そうじゃなくて。どうして東海林未玖ひとすじなのか聞いてほしいんです」
「はいはい」
質問されるまで絶対に帰らない、とデスクの前で彼女は仁王立ちを見せていた。しれっとフルネームを口にしてひとり勝手にキャーキャー言っている彼女のため、口車に乗ってやることにする。そろそろ周りの教員の目も気になってきたところだ。
「若槻明日香さんは、どうして東海林未玖にこだわるの?」
若槻明日香は微笑んで、私に耳打ちした。
「……私の夢は、先生のお嫁さんですから」
決め台詞のつもりだったのだろう。
彼女はニヤニヤと表情筋を緩め、私の反応を窺っている。
「採点はどうですか?」
「……質問と回答が噛み合ってないね。30点」
「赤点ですかー……。だったら明日も来ます。補習しなきゃ」
「はいはい」
怒濤の質問タイムはこうして終わった。
明日もまた、若槻明日香は職員室を訪ねてくるだろう。
何故なら彼女は――いいや、理由は分かってはいけない。分かる訳にはいかないし、落ちてしまってはいけないもの。
ただ、どうして――
「どうして私は、若槻明日香と付き合っちゃいけないんだろうなー」
誰にも聞こえないほど小さくつぶやいた私の声は、どこか期待に胸膨らませる少女のようにふわふわ宙を舞っていたのだった。
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