低気圧ガール
低気圧ガール
その日もまた、雨は降っていた。
令和2年7月17日。神奈川県、川崎市。
テレワークにピークシフトが推進されていても武蔵小杉は今日もまた混雑していて、登り方面へ向かう湘南新宿ラインは三密回避どこ吹く風としか思えないほどの混雑具合だった。
流れゆく雨模様の車窓を見ながら、
そして――。
「道理でしんどいワケ……」
――天気予報アプリの気圧変化を調べて、杏里は原因不明の重怠さの正体に納得した。
気象病。
昨今認知されつつある、気圧や気温の急激な変化が原因となる病気の総称だ。病状は幅広く、たとえば「雨が降ると古傷が疼く」ようなものから、「気圧変化に伴い喘息が悪化する」など、十人十色千差万別に症状が見られる。
杏里の場合は、思考にもやがかかってスッキリせず身体が重怠くなる。月のものよりは軽く、気のせいだと思い込むには重いという、嫌がらせのような絶妙なしんどさを叩き込んでくる代物だった。
「あー、低気圧でつれえわー」
「お前それ言い訳にしてるだけじゃね?」
付近に立っていた男子高校生達の談笑が聞こえてくる。
気象病は近年までそれこそ、甘えの象徴だった。科学的なエビデンスに乏しく、症例も病状も自己申告とあっては、つらさを計る物差しが存在しないため。だから気象病を患ったことのない人、あるいは症状が軽い人には、どれだけ辛くても理解されず、価値観を押しつけられる。
――気合いが足りない! 校庭五周!
低気圧でつらいなどと言おうものなら、心がたるんでいる証と受け取られ叱責される。杏里も彼らと同じくらいの年頃、今からおよそ七年前に部活の顧問から手痛いご指導ご鞭撻を賜ったことを思い出した。
陸上部時代のあの顧問はどうしているだろうか。
今も母校で教鞭を振るい、気象病は心の甘えだと生徒達に根性論を押しつけているのだろうか。
電車は多摩川を越えた先、東京は西大井駅に停車した。
今日の運転手は新人なのだろう、加速も減速も急激だった。それにも似た急激な気圧低下、高湿度、マスクの蒸れ。そして学生時代のイヤな思い出。それらが相まって、杏里が感じる不快指数は非常に高い。
このまま海にでも行って水着に着替えて、ビールでも飲みたい。そんな現実逃避を脳内で繰り広げていると、背中に何かが当たった。
否、当たったというよりもたれかかってきた。
「……あ、すみま……」
消え入りそうな謝罪の声。ハリがあって若いがか細い、女性のもの。
杏里は咄嗟に振り返り、もたれてきた彼女を抱き留めた。色素がわずかに抜けた、光の具合で赤茶色に見える黒髪。若さ特有の、桃に混じった乳臭が鼻腔をくすぐる。
身につけているのはリボンタイ、ブラウス、チェックスカートにリュックサック。高校生だろうと杏里は少女の正体を結論づけた。
「大丈夫?」
ぼそぼそと喋る少女の声を聞き取れなくて、杏里は俯いたままの少女の顔色を窺うべく膝を折り曲げる。同じ目線の高さ、至近距離で彼女と目を合わせる。
どこにでもいそうな少女だ。化粧映えしそうな顔だと、杏里は気象病に続いて職業病を併発しかけてかぶりを振る。大抵の高校はメイクNGだ。
「……体調、悪くて……」
「座って休む?」
「…………」
こくりと頷いた少女の肩を抱いて、空いた座席を探した。ソーシャルディスタンスが徹底された車内では、空席はあれども座れない。杏里の意識は開け放たれたドアの向こう、西大井ホームのベンチへ吸い寄せられていた。
乗っていた湘南新宿ラインを見送り、杏里は少女を連れてホームのベンチに腰を下ろした。隣り合って座る訳にはいかず、二席分の距離。さらには梅雨寒で風が強かった。水飛沫が二人を濡らしている。
「あったかい飲み物とかどう?」
「…………」
少女は何の反応も返さなかった。マスク越しに伺える血色悪く青ざめた顔色からして、彼女の言うとおり体調はすこぶる悪いらしい。杏里は重怠い身体に鞭打って、自販機で買ったホットのゆずはちみつレモンを少女に渡す。
「え……」
「キツいよね、低気圧。あと寒暖差」
「あの、お金……」
「気にしないで。それでも悪いと思ったら、お姉さんにもちょっと頂戴?」
「……ありがとう、ございます」
申し訳なさそうな少女の声は、半分以上聞き取れなかった。重たい雨粒が屋根を叩く音と風鳴りにかき消されている。
何もかき消されるのは声だけではない。彼女の存在感もまたひどく薄かった。二席離れたベンチに座っていても、次の電車を待つ人の群れの中に溶け込んでしまう。
彼女の輪郭が見えない。雲か雨霞かのようにつかみ所がない。彼女の存在が、現実の景色の中に溶け込んでしまう。
それが生来の容姿のせいなのか、性格のせいなのか。はたまた病状のせいなのか。杏里には分からなかった。
「……雨、好きなんです」
彼女は必死に話題を探したのだろう。聞こえてきたのは、やはりつかみ所のない言葉だった。
「雨だと低気圧しんどくない?」
「……つらい、けど。全部消して、誰も私を意識しないでいてくれるから」
「変わってるね」
低気圧、その結果の雨で体調不良を起こしているというのに好きだと語る少女がおかしくて、杏里は思わず吹き出した。
「お姉さんはキミくらいの頃、モテたくて仕方なかったなー」
「……どうして、人ってモテたいんですか……?」
これまで一度も問われたことのない質問に、杏里はしばし考え込んだ。
経験した限りでは、モテたいと思った理由なんて漠然としたものだ。せいぜいモテないよりはモテたほうがいい、くらいのつかみ所のない雲のようなもの。
「チヤホヤされたほうが人生楽しくない?」
「…………」
「そっか、キミは違うかー」
「……やっぱり、ヘンですよね」
青白い顔をちらりとこちらへ向けて、彼女は語る。野暮ったい目元は、眉が整えられていないから。若さという天然モノの化粧を纏える年頃なのにもったいない。そんな感想が杏里の脳裏を掠めていく。
せめて野放図に生えた眉だけでも整えれば、彼女のあやふやな輪郭もハッキリするのではないか。そう思うと、居ても立ってもいられなくなる。目の前の素材をキャンバスに見立てて、美しさを描いてやりたくなる。
杏里の、メイクアップアーティストゆえの職業病だ。どうせ話題がないのなら、せめて自分が得意な話を振って間を繋ぎたい。
「キミはさ、メイクしたことある?」
「……ない、です。やりかた、分からない……」
「マジで? 友達とそういう話したりしない?」
「……いないから、友達」
「あー。そっかー」
こういったタイプの人間と絡むのは初めてで、何を考えているか知る尺度が見当たらなかった。
気象病と同じだ。
彼女のような人間を計る物差しを杏里は持っていない。
彼女と杏里は、おそらく正反対だ。男子からモテはしなかったが、女友達には恵まれていた杏里とは違い、彼女は真逆。他人に意識されたくない、それこそ雲や空気のようにつかみ所のない人間でありたいと祈っている、存在感が希薄な少女。
クラスにひとりやふたり、こんな子が居た。ただ杏里には、その子の名前も顔も思い出せない。眼中にない、意識を向けようとさえ思わない人達だったから。
「……お姉さんは、メイク好きなんですか?」
おっかなびっくり尋ねてくる彼女が、かつてクラスにいたアウトオブ眼中ガール達と重なった。言わずとも漂うクラス内のカースト、その下位に属す者はみんな、杏里に話しかける時はこうなる。
嫌われたら、ハブられる。そんな、目には見えない低俗な同調圧力に怯えているようで。
「仕事にするくらいには。してあげようか?」
「……したら、どうなりますか?」
真正面から彼女の顔を見た。印象が薄くパッとしないが、構成するパーツの位置は平均顔に近い。顔面の凹凸が少なく顔色も悪い上、猫背気味で髪型も切り飛ばしたようなものなので、輪郭がぼやけて景色に溶け込んでしまうのだろう。
これなら、描いてやれる。
「そだねー。パーツの配置はいいから可愛くなれるよ。あーでも、モテたくないんだっけ?」
「……モテたら、分かりますか?」
「何が?」
「……人がどうして、モテたいのか…………」
彼女はよく分からない。むしろ話しているとこちらの気分まで重怠くなってくる。雲のような子あらため、低気圧のような子なのかもしれない。
そのダウナーな性格が杏里の心に引っかかる。
せっかく若いのに、パーツも整っているのに、もったいない。
変えてしまいたくなる。
「知りたいかい? 低気圧ガール」
「……低気圧、ガール……?」
「キミのあだ名。昔、よく似たタイトルの曲があってね。あっちは高気圧だった気がするけど」
「…………」
「チヤホヤされたい人間の気持ちを知りたいなら、お姉さんが魔法を掛けてあげよう」
ふいに、学生時代の部活顧問の姿が杏里の脳裏をよぎった。
気象病を気象病と認めず、気合いを入れろと根性論と価値観を押しつけてくる人間。それと同じになっていないか、と自問自答する。
が、彼女の返答は拒絶ではなかった。
「……したいなら、してください」
肯定とも否定とも取れない、判断を杏里に委ねる投げやりな言葉。
こういったタイプとの付き合いがない杏里には、真意を図りかねるものだ。表情から読み解こうにも、マスク越しの青ざめた双眸からは何も読み取れない。さらにはまるで、自分の意思がないようにすら思えてくる。
「あー、冗談。迷惑なら迷惑だって言わなきゃ」
だから杏里は逃げた。距離感が掴めない。低気圧ガールの心に踏み込んでいないことを祈って、その場を去ろうとする。
折しも次の湘南新宿ラインがホームに迫っていた。逃げるならば今しかない。低気圧に気を取られながらも重たいメイクバッグを持ち上げたところ、普段よりも強く右肩を引かれた。
低気圧ガールが、バッグのストラップを掴んでいる。
「……好かれてみたい、です。誰か、から……」
消え入りそうなほどの小声が、確かに杏里の鼓膜を揺らした。ぼやけた低気圧ガールの輪郭がわずかに輝いたような気がして、杏里は息を呑む。
どこの学校に通う生徒なのか分からない。名前すらも知らない。人となりも性格も、どんな境遇に置かれているのかも分からない。それでも彼女が、知りたがっていることだけは理解できる。
――なぜ人はモテたいのか。
それは十人十色千差万別ありそうな、気象病の症例みたいなモノだ。低気圧ガールはそれを計る物差しを欲しがっている。
杏里は確認する。せめて彼女の意思だけでも、ハッキリさせておかないといけない。
「変わってみたい?」
「……私を、変えられるのなら」
ぼそぼそとした声ながら、ハッキリとした思いを感じた。
「変えられる、ときたかー。お姉さんに対する挑戦かな?」
「…………」
低気圧ガールは何も言わず、座したまま目を瞑った。杏里もすぐさま、メイクバックからペンシルとコーム、ハサミを取り出す。ひと目につく、公共の場でのメイクには抵抗もあったが、美しさを描きたい気持ちの前には、常識や良識は為す術なく敗れ去る。
先に理想の眉をペンシルで描き、コームで長さを調整。あとは形に合わない余計な部分をカットする。手慣れた仕事はおよそ数分のこと。
「ま、こんなものかな。出来上がりは、学校ついてからのお楽しみ」
「……ありがとう、ございます」
「そんじゃね。せっかく可愛いんだから、うじうじしてないで高気圧になりなよ、低気圧ガール」
「……あの。次は、いつ……会えますか……?」
重いバッグとのしかかる低気圧を持ち上げたところで、それよりも重たい言葉に足を取られた。ベンチにひとり佇む低気圧ガールは、置物のようにその場を動こうとしない。
「さあね。ひどい低気圧の日とか?」
「…………」
「ごめん、電車来るから行くね」
もう少し、そばに居てあげたほうがいいのだろうか。
そばに居たところで、何ができるという訳でもないのに。
眉だけ整えられた低気圧ガールを車窓から見ながら、杏里は小さく笑って手を振った。彼女の手はわずかに上がるも、振り返すことはない。
おそらくもう二度と逢うことのない、低気圧の日の彼女を残し、電車は一路、職場のある品川方面へ向けて轍を軋ませる。
西大井駅二階。品川方面行きプラットホーム。
このホームから、後戻りはできない。
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