琥珀色恋愛遊戯

 終電は目の前で発車した。

 午前1時過ぎ、六本木。


 黒須くろす美琴みことは、ダッシュで通り過ぎたばかりの改札口を、肩を落として後にした。


「最悪……」


 口にしたひとり言が、人気ひとけもまばらの地下道に響く。

 美琴にとって今日は厄日だった。

 昇進の期待をかけられ臨んだプレゼンでレジュメの印刷を忘れる初歩的ミスを犯した。その客先担当者からスケベオヤジ丸出しの熱視線を浴びた。気合いを入れようと履いたヒールで靴擦れを起こした。おまけに先の終電逃しである。

 やってられない。

 運の悪さを振り返ると腹が立ってくる。運命を決めている神様とやらがいるのなら言ってやりたい。不幸を偏らせるな。幸運と不運がプラスマイナスゼロの範囲に収まるよう、バランスよく悪運を与えてくれ、と。

 心の中で、天に唾を吐きかける。呪いじみた祈りはすぐさま神に聞き届けられて、暗渠の鉄格子にヒールを取られた。そして勢いそのままに転んで、アスファルトにストッキングを引っかけた。


「最悪……」


 本日何度目かなんて数えていられない呪詛を吐き、痛む腰をさすった。

 不運というのは不思議なものだと美琴は思う。一度不運だと思えば、この世のすべてが不運だらけに見えてくる。這々の体で訪れたタクシー乗り場には長蛇の列。車道を走るタクシーの表示はすべて賃走。満室のネットカフェ。人の気も知らないで騒ぐ出来上がった輩。喫煙所からはみ出してきたタバコの煙。擦りむいた手のひら。冷たいピアス。

 今の自分はまるで、プチ不幸のコレクションだ。

 身に降りかかった不幸を数え上げることに夢中だった美琴は、眼前に立っていた客引きキャッチの存在に気づかなかった。


「あ、すみません」


 はたと意識を取り戻した美琴は、眼前に倒れている客引きを捉えた。ぶつかったのだ。

 女性だ。膝丈のロングコートから伸びた白く細い足首が、オレンジの街灯に照らされて浮かび上がっている。

 咄嗟に屈んで、美琴は周囲を伺った。倒れている彼女の周囲には、ポケットティッシュが散乱している。おそらく彼女が配っていたものだろう。チラシには《ガールズバー》の文字が躍っている。


「立てますか?」

「はい、身体は丈夫な方なので平気です」


 そう告げる彼女に、美琴は拾い集めたティッシュペーパーを渡そうと手を伸べる。その時はじめて、彼女と目が合った。


「あ」


 彼女の存在は、六本木の街並みにはそぐわないほどに浮いていた。

 一番に目を引いたのはその双眸だった。落下する水滴の一瞬を切り取ったような、澄んだ琥珀色に輝く丸い瞳。縁取りアイラインの白肌に合わせた濃色が、彼女を人間の世から美の世界へ浮き上がらせている。

 彼女は美しかった。

 有機物の身体に精神を押し込んだ人間としてではなく、無機物の躯体にあらん限りの美徳を詰め込んだ、人形として。


「人形みたい……」


 思ったことをそのまま口に出してしまい、美琴は慌てて訂正する。が、女性は嫌な顔ひとつすることなく、満月のような双眸を柔らかく緩めた。


「よく言われます。好きなんですか、お人形」

「ああ、いえ。普通です」

「あたしも普通に好き、くらいです。魂が通っていないから」


 彼女の美しさに動揺して、よく分からないことを口に出してしまった。これもまた、不幸といえば不幸かもしれない。

 そんな彼女に手を差し伸べて立ち上がらせると、やはり、「よく言われる」と言った通りの、人形らしい姿だった。

 小さな背丈には、創り手の――この場合は、血筋か神様の――美意識がこれでもかと詰め込まれている。その白い肌も、染められた中間色の金髪も、ロングコードの先から出た手首も足首も、すべてが何らかの美の法則性に則って配されたとしか思えない。

 彼女は、完璧であった。完璧であるとしか、美琴には思えなかったのだ。


「このタイミングでお声掛けするのは卑怯だとは思いますけど、いいですか」

「なん、ですか?」


 彼女は拾い上げたばかりのポケットティッシュを差し出して、美琴に再び微笑みかけた。


「ガールズバーはいかがでしょう?」


 ティッシュについたチラシには、ガールズバー、深夜営業の文字が踊っている。朝までのオールの総額は、近くのカラオケかファミレスで夜を明かすよりは高い。


「えっと……」


 だが、美琴の脳裏には先の出来事が引っかかっている。

 この美しい客引き人形を、突き飛ばしてしまった不幸。ケガがなかったことが不幸中の幸いとは言え、原因は美琴の前方不注意だ。笑って許してくれた彼女のためにも、多少の埋め合わせは考えるべきかもしれない。

 そうした良心の呵責と、財布の中身がせめぎ合う。

 彼女の誘いに乗れば、無闇に良心を痛める必要はなくなる。

 彼女の誘いを断れば、安く夜を明かすことができる。

 結果、美琴はガールズバーの代金と、片道のタクシー代を天秤にかけた。


「じゃあ、お世話になります。終電もないので」

「なんだか恩を仇で返すみたいで、すみません……」

「いや恩だなんて。元はと言えば……」

「ぶつかって立ち去らないのは、じゅうぶん恩ですよ」


 告げて、彼女は歯を見せて微笑んだ。薄い色のリップも相まって、彼女の顔がそれまで以上の少女人形のようで。


「恩、ですか」

「はい。では1名様、ご案内です」


 人形のような少女に連れられ、美琴は六本木の路地へと消えていった。

 オレンジの街灯やどぎつい色のネオンサインが、この時ばかりは宝石のように輝いて見えた。


 *


 ガールズバーという言葉から想起される安っぽい下世話なイメージは、この店とは無縁であるように思う。

 法令によって定められた照度ギリギリの世界では、隣席に座る客の表情を読み取ることすら難しい。

 いや、正しくは、隣席を意識しないで済むように、店舗が工夫されている。淡いピンスポットライトが、手元のグラスをはっきりと浮かび上がらせる一方で、カウンター向こうに居るはずのバーテンダーは仄明かりの中に溶けてしまっている。

 それに合わせ、内装も――こちらもよく目を凝らさないと判別できないほどだが――整備された岩窟内を意識した作りだ。オトナの隠れ家とでも表現すべきの、ひどく落ちついた空間である。


「驚きましたよね、ガールズバーっぽくなくて」


 暗闇から、先の少女人形の声が聞こえた。落ちついたトーンで語りかけると、鈴を転がすようにころころと笑う。


「ええ。もっと騒がしくて……いえ、若々しい場所だと思っていました」

「普通はそうです。ですがここは元々オーセンティックバーだったものですから」

「オーセンティック」

「正統派、という意味。ウイスキーやブランデーを出すバーです」


 「どうぞ」と差し出されたのは、ナッツと生ハム、チョコレートだった。居酒屋で言うところのお通しの洒落っ気に、美琴は肝を冷やす。チラシに書いてあったオール料金で納まるのだろうか、という恐怖だった。


「サービスですのでご安心を。だなんて、こんな心配をするのは下世話でしたね」

「あ、は」


 図星を突かれ、美琴は曖昧に笑った。少女はくすくすと軽やかな笑みを零し、名刺を差し出してくる。


「バーデンダーのシャンディです」

「外国人さんなんですか?」

「さあ、どちらでしょう。お客様はどちらがお好みですか?」


 答えに窮する。質問に質問を返されたからではなく、その内容に。

 無邪気な少女らしい問いかけのようでいて、こちらの腹を探るオトナのような言葉。人を喰った態度と言えばそれまでかもしれない。が、美琴の意識は不思議と、薄明かりの中の彼女――シャンディに向かっていた。


「……どう答えるべきでしょう?」

「ふふ。質問に質問を返すんですね」

「それはおあいこです」

「ですね」


 ふっ、と風が抜けるような微笑みが聞こえる。この場を満たすのはクラシックとシャンディの声、離れた場所に座す客がグラスの氷を鳴らす音。

 カラン――とグラスを干す音の後に、離席した音。


「少々お待ちいただけますか」


 シャンディは告げると、離席客の会計に向かう。

 静かだった。薄明かりの中、手元に置かれた彼女の名刺を眺める。

 《アンティッカ》という店名の他には、シャンディの名前以外書かれていない。裏面には店の住所と簡単な地図が載るだけの簡素なものだ。


「お待たせしました。これで二人きりですね」


 会計を終えたシャンディが、再びカウンター越しに立つ。

 試すような口ぶりの彼女は何者なのだろう。先ほど路上で出逢った人形とは違う、少女のようでいて妖艶な美女の雰囲気を湛える女性。

 美琴は次第に、彼女の存在に心を掴まれていた。


「さっきの質問ですが、いいですか? どちらが好みかってやつ」

「構いませんよ。ヒントを差し上げましょうか」


 しばし悩んだが、美琴は「いえ」と小さく首を振った。


「どちらでもいいと思っています」

「あたしのことなんてどうでもいいってことですか?」


 告げるとシャンディは頬を膨らませ、カウンターに頬杖をついた。ピンスポットのライトに照らされた彼女の双眸が、恨めしそうに美琴を睨み付けている。

 言い方が悪かった。美琴は即座に訂正する。


「そうじゃなくて。私は最初、人形だと思ったので」

「そっか、そうでしたね。つまりあたしは、綺麗なお人形さんと」

「ですが、それも違うのかもって思い始めています」


 美琴は続けた。

 人形のように美しい顔を持つシャンディが、店では少女や淑女の顔を使い分けている。退店した客を相手にした、会計時の顔もある。おそらく彼女は、無数の顔を持っている。

 ならばきっと「外国人なのか?」なんて質問には意味がない。返ってくるのは、日本人と答えれば日本人の顔。外国人と答えれば外国人の顔。千変万化する彼女の本当の顔を知ることはできない。

 そこまで考えて、美琴ははたと気づいた。

 なぜ自分は、シャンディの本当の顔を知りたいと思っているのだろう。


「日本人でも外国人でも、お人形でもないってことですか。これは困りましたね」

「ええ、私もどんなお話をしていいか迷っていて。昔から人見知りなもので」

「あたしと一緒ですね」


 シャンディは告げると、口の細いグラスを取り出した。音を立てぬよう静かにドリンクを注ぎ入れ、ステアする。

 最初に提供された飲み物は、淡い琥珀色の炭酸だった。周囲に残る葉巻の薫香に混じって、わずかに瑞々しいホップの薫りが鼻腔を突き刺す。


「ワンドリンク製ですので、勝手に作ってしまいました。お飲みになりますか?」

「ええと、これは……? カクテルですか?」


 尋ねるも、シャンディはくすりと笑う。


「あたしです」

「え……?」

「ジンジャーエールとビールのカクテル。シャンディ・ガフです」

「ビール……」


 言葉を詰まらせたのは、ビールが飲めないからだった。

 美琴にとってビールと言えば、会社の集まりでムリヤリ飲まされるだけのものだ。近年では飲みやすいクラフトビール特集が組まれ、実際に人気を博してもいるが、一度刷り込まれたトラウマはちょっとやそっとでは塗り潰せない。


「お嫌いですか?」

「……ええ、いい思い出がないもので。職業柄、ビールを押しつけられることが多いんです」

「分かります。ムリヤリ飲ませてくる悪い人がいるから、苦手意識を持っちゃうんですよね」


 「あたしも悪い人でしたね」と申し訳なさそうに眉を曲げて、シャンディはグラスを下げようとした。

 だが、美琴の手は伸びた。グラスの底を持った、美琴とシャンディの指が触れ合う。《お触り厳禁》とチラシに書いてあったことを思い出して、美琴はすばやく指先を引っ込めた。


「す、すみません。触っちゃいました」

「あは、平気ですよ。あたし達以外誰も居ませんし」

「やっぱり飲みます、シャンディ・ガフ」

「……本当ですか?」


 敢えて深刻な、試すような口調でシャンディはおどけてみせる。

 美琴への挑発だ。ビールが飲めないのをだとからかって、ムリヤリ飲ませてくる迷惑な酔客と似てもいた。

 だから、敢えて挑戦を受けてやりたくなる。

 シャンディの挑発に挑まなければ、彼女の本当の顔を知ることができないような気がしたのだ。


「貴女の名前が付いたカクテル、残すワケにはいきませんから」

「まあ、お上手」


 告げて、美琴はグラスに口を付けた。パチパチと弾ける炭酸の泡が、アルコールの香りを弱めている。含んで感じるのは、まずは炭酸の愛撫。舌を心地よくくすぐられた後にハッキリしてくる生姜の刺激と、ほろ甘い苦み。

 刺激的なのに甘く優しく、時に苦い。

 シャンディ・ガフはその時々で顔をころころと変えていく。それはまるで、ふくれっ面の少女に、愛らしい人形、はては酸いも甘いもかみ分けたオトナの女。

 彼女がシャンディと名乗ってバーカウンターに立つ理由が分かった。

 淡い琥珀色の――シャンディと同じ瞳の色のカクテルを飲み込んで、美琴は謎が解けた安堵のため息をついた。


「……分かりましたよ、最初の質問の答え」

「では、答え合わせしましょうか。お客様は、どちらのあたしがお好みですか?」

「私が好きなのは、シャンディさんです」


 シャンディはわずかに硬直した。想定外の返答に驚いたような、それでいて、予想通りの返答であったことを安堵するような。抱いたであろう様々な感情を、シャンディ・ガフのようにない交ぜにして。


「……初めてここに来てなんですが、私は貴女のことをもっと知りたいのかもしれません」

「そう、ですか……」


 美琴は勝利を確信した。

 彼女から課せられたシャンディ・ガフの試練を乗り越え、彼女の本当の顔を引き出すことができた。そのはずだった――


「……ふふ、あたし口説かれてますね」


 だが、硬直は一瞬だった。

 シャンディはすぐさま、余裕を湛えたオトナの顔を取り戻す。ちょっとやそっとでは、無数に存在する顔の奥底に潜んだ、本当の彼女を見つけ出すことはできない。

 いつしか、美琴の目的は夜を明かすことから、彼女を知ることにすり替わっていた。だが、当の美琴はそんなことなど知る由もない。

 ミステリアスなバーテンダー・シャンディという危うい遊びを覚えてしまったのだから。


「どうでしょう、私は巧く口説けていますか?」

「じゃあ、お客様にあたしの口説き方を教えてあげましょう」


 告げて、シャンディはドリンクメニューを差し出した。高級そうな二つ折りのメニューには、コースとは別料金の飲み物が並んでいた。


「商売がお上手ですね」

「仮にお客様と愛し合うにも、お金は多いに越したことはないでしょう?」

「もっともですね」


 ふたりは瞳を見合わせて笑い合う。

 これは、互いの顔色を伺い、腹を探り、無数の虚実入り交じった顔の中から、本当の姿を見つけるゲーム。先に相手の心を見つけ、射貫けば勝利の恋愛遊戯。


「最後の一滴まで味わってくれますか?」

「最後の一滴まで絞り尽くさなければ、ですね」


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