たったひとりのための歌 後編
心は凪いでいた。ざわつき席を立つ列席者の姿など、気にも留めず、右手の刃渡り15センチを越えるナイフを強く握った。握力はまだ残っていた。心が、体が、これが人生最期の時だとばかりに、ありったけの力を右手に込めていた。
マイクスタンドを蹴り飛ばし、駆け出す。体は式場に吹く風になった。式場スタッフも列席者もつむじ風に巻いて、高砂で恐れおののく飛騨あかりの姿を捉えた。事前に酔い潰しておいた新郎は、事態に気づいていない。飛騨あかりを守るものは、純白のウェディングドレスだけ。そんな不確かなもので、この刃は止められない。
飛びかかった。テーブルを飛び越え、飛騨を蹴り飛ばした。椅子から立ち上がる間もなく倒された飛騨は、背中をしたたかに打ちつけた。怯んだ隙に馬乗りになり、ナイフを逆手に、両手で握り直す。そして高く腕を上げ、必死の形相で抵抗を続ける飛騨あかりの胸元を捉える。白い薔薇のコサージュを鮮やかな赤に変えてやる。そう意気込んで、胸元めがけてナイフを突き立てた。
「があッ……!」
おおよそ人間ができるとは思えない、鬼のような形相で飛騨あかりは断末魔を上げた。ナイフを抜いた胸元から、どくどくと赤黒い血が噴き出し、薔薇のコサージュは深紅に染まった。
「やっぱ、あんたに白は似合わないよ。飛騨あかり」
そして、式場に声が響き渡った。
*
小気味よい声の後、飛騨はのっそりと起き上がった。
「ホントに蹴っ飛ばす必要ないでしょ!? アンタ台本の何読んでたの!?」
飛騨は事故防止のクッションの上で血まみれ姿のままぎゃあぎゃあ叫ぶ。それに馬乗りになった凛は、役柄そのままの無表情で答えた。
「その方がリアルじゃん」
「そんなリアリティ要らないわよ! つーか早く退いて!」
うるさい飛騨を無視して、凛は血糊が滴るナイフを指先で弄んだ。紅く艶めくナイフの先端は、指で押すと柄の方に引っ込む仕掛けが施してある。これでは、どんなに頑張っても刺し殺すことなどできないだろう。
「いっそここで死んどく?」
役柄を最大限に生かして、凛がにんまり笑うと、飛騨は一瞬硬直した。
「し、真に迫りすぎてて怖いのよ、アンタ……」
立ち上がった凛と飛騨は、いつの間にか拍手に包まれていた。
「お疲れさまでした、凛ちゃん」
花束を持って現れたのは朝村だった。
「私も居るんですけど!? 一応ダブル主演なんですけど!?」
「そうでしたそうでした。飛騨さんもお疲れさまです!」
「ついでみたいに言うな!」
港区・撮影スタジオ。巨大ながらんどうの空間に、一回りほど小さな結婚式場の撮影セットが組まれている。凛と飛騨の二人は、血糊で真っ赤になったまま、セットから足を踏み出した。これで、すべての撮影が終了した。
「お二人のおかげで大成功間違いなしですよ!」
にこにこ笑う朝村に、凛は苦笑する。人好きのする朝村の笑顔は、三年前とはまるで違っていた。
「『たったひとりのための歌』、か。まさか実名で出ることになるとはね」
血糊を洗い流した飛騨は、凛の楽屋で台本の表紙を弄びながら呟いた。
「いいじゃん、イメージ通りで」
「アンタはそうかもしれないけどさあ……」
飛騨あかり役、飛騨あかり。圧倒的な才能でトップアイドルにのし上がるも電撃引退した、奔放な天才という役柄だ。実際の飛騨とは正反対である。
「この脚本書いたヤツぶっ飛ばしたいわ。私のこと何も分かってない」
「どうでもいいよ。それよりなんで私の楽屋に入り浸ってるワケ? いい歳こいてさみしがり屋なの?」
「さみしいのはアンタの方でしょ。芸能界で友達居ないくせに」
「私はほら、孤高の天才だから」
「あの時みたいにハッ倒すわよ、アンタ」
売り言葉に買い言葉。懐かしい言い合いだった。ややあって、二人は同じタイミングで苦笑する。
「ここに来た理由は……そうね。アンタと話がしたくなったから」
三年前、ピアニッシモは解散した。路頭に迷ったメンバーはそれぞれの道を歩むことになったが、うち二人は事務所を移籍してアイドル活動を続けた。小山内凛と、飛騨あかりである。
「ムカつくけど、地下から抜けたのはアンタの方が早かったわ。まあ、しょうがないわよね。この私が認める才能があるんだもの」
面と向かって褒められると、さしもの凛もどきりとする。本音をぶつけ合っていると判っている以上、余計にだ。
「じゃ、私の勝ちでいい?」
「なに言ってんの。デビューシングルのチャート順では私の方が上だった。だから一勝一敗」
「45位と52位なんてドングリの背比べじゃん」
「勝ちは勝ちよ!」
飛騨は、誇ったように息巻いた。感情を素直に口から出せる飛騨の性格が、凛はどこかうらやましかった。振り返れば、彼女の指示に従わいたくなかったのは、飛騨の在り方をないものねだりして、嫉妬していただけなのかもしれない。
だが、飛騨の口はすぐに真一文字に結ばれる。
「でもま、この程度で喜んでられないわ。まだ上に何人も居るんだから」
「そうだね」
決意を覗かせる飛騨へ頷き、凛自身も己の中の決意を確かめた。あの日、飛騨に殴られた時に灯った炎は、今もまだ燃え続けている。
「凛ちゃん、入っていい?」
ノックの音の後で、朝村の声が聞こえた。朝のワイドショーを担当している時とは違う素の声色は、ほんのり艶っぽい。
「じゃ、帰るわね。二人の間に割って入るなんて、ドラマの中だけで充分だし」
「……妙な気を遣わないで」
仄かに朱が指した凛の顔を見てニヤニヤ笑うと、飛騨は楽屋のドアを開けた。
「それじゃあ、お二人でごゆっくり♪」
ドアの前の朝村と凛に満面の営業スマイルを見せて、飛騨は姿を消した。
「今のは……?」
「気にしないで。あいつ真性のバカだから」
ピアニッシモの解散と時を同じくして、人気絶頂にあった看板アナウンサーの朝村桜は突如退社、フリーに転向した。それも、フリーランスのアナウンサーではなく、映像プロデューサーへ。市井の人々が「なぜ?」と疑問符を浮かべる中、朝村は密かに培ってきた努力と人脈、ネームバリューを最大限に活用して、とうとう一本の深夜ドラマの製作に漕ぎ着けていた。
「とうとう叶ったね」
「うん、凛ちゃんのおかげ」
深夜ドラマ『たったひとりのための歌』の台本の上で、凛と朝村は手を触れ合わせた。
二人の夢は、まだ夢の途中。それは判っていたが、思い描いた夢の輪郭くらいは浮かび上がった。その嬉しさを誰かと共有したくて、凛は桜に抱きついていた。
「……ありがとう、桜さん」
「お礼を言うのは私のほう。最後のシーンなんてみんな驚いてたよ。凛ちゃんは演技の才能もあるんだね」
朝村に頭を撫でられながら、凛は首を横に振る。
「あの芝居は、才能じゃなくて努力だよ」
小山内凛役、小山内凛。人生を謳歌する成功者の飛騨あかりに逆恨みして、結婚式場に乗り込む元アイドル。そんな役柄を演じる中で、どんな役作りがいいか凛は悩み抜いた。芝居は生きてきた経験値が物を言うもので、想像しようにも知識がなければこなせないからだ。
そんな折、脳裏を過ぎったのは過去の記憶だった。あの頃の、成功者を嫌い努力に唾を吐きかける小山内凛ならきっとこうしただろう。と昔を思い出しながら役作りに励んだことが、結果として功を奏したらしい。
「もう同じ芝居はできないかもね。あの人格は私の中から消えたから」
「凛ちゃん、一流女優みたい!」
「ちゃんと私を一流にしてよ、桜さん」
「努力します!」
「がんばってね」
「凛ちゃんもね」
本音を告げて、笑い合う。未だ他人の言葉を疑うことはあっても、朝村の言葉は信じられる。朝村もきっと同じだろう。同じならいいと凛は思う。
「やっぱ、私と凛ちゃんは似てるよ」
かつて、似ているなんて認めないと言ったことを思い出して、凛は朝村から離れた。
「まだまだ足りてないよ。あいつにも桜さんにも、夢にも届いてない。だから、まだ私達は似てない」
「そっか」
くすくす楽しそうな朝村に、凛は笑った。
「だからそれまで待ってて。もっと夢中にしてあげるから」
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