オトナ保育園 後編

「私から、かすみちゃんを奪って?」


 あゆる先生の目は笑っていなかった。

「え……」

 意味も分からず聞き返した絢に、あゆる先生は続ける。

「かすみちゃんが常連さんって話はしたよね。それってつまり、ずっと私のサービスを受けてきたってことなの。ここまでは分かるかな?」

「それは、そうですよね……」

「つまりかすみちゃんは、私のサービスに慣れきってるの。頭を撫でるのも、くすぐるのも、膝枕も。つまりね」

 あゆる先生は一呼吸置いて、告げた。

「かすみちゃんには、あゆる先生が……ううん。三ノ輪香澄の心には、広尾あゆるが染みついている。上埜絢さんは、それでいいの?」

 絢は息を呑んだ。これまで香澄を癒やしてあげていたのは、あゆる先生なのだ。絢が香澄を癒やすということは、つまりはそういうこと。

「私は、あゆる先生を超えなくちゃいけないんですか……?」

「そうだよ、これがオトナ保育園で働くための最終試験」

 あゆる先生を超える。そんなことが今日働き始めた新人にできるはずもない。

「そ、そんなの絶対ムリですよ! あゆる先生はプロなんですよ!? 私なんて今日初めてオトナ保育園を知ったようなド新人です! さっきはビギナーズラックでたまたま上手くいったけど、今回ばかりは……」

「諦めちゃうんだ?」

 言葉がずしりと突き刺さる。

「それは……」

「いいんだよ、私は別に。最終試験を投げ出したって、あや先生をクビにしたりしないから。でも、試験に合格できなかったら、かすみちゃんは絶対に渡さない」

 あゆる先生は、絢の低い背丈に合わせて膝を折ることはなかった。すらりと背筋を伸ばし、真剣なまなざしで見下ろしている。

 威圧されているようだった。三十センチ近い身長差のあるあゆる先生に威圧感を覚えなかったのは、人好きのする笑顔だったから。それが失われた途端、あゆる先生の――いや、広尾あゆるの本気が伺える。

「どうする? 絢さん」

「あ……」

 勝ち目がないことは分かっていた。あゆる先生の手練手管を前にして、ビギナーズラックが通用するはずないことも分かっていた。だけどそれ以上に、自分自身が三ノ輪香澄を諦められないことも分かっていた。

「諦めたくないに決まってるじゃないですか!」

 目尻を釣り上げて、絢はあゆる先生を見上げた。

 最終試験を受ける。それは宣戦布告の号砲だ。あや先生とあゆる先生による、かすみちゃんを賭けた戦い。これから先も、上埜絢が三ノ輪香澄のそばに居続けるための戦い。

「そうこなくっちゃね」

 あゆる先生はポケットからスマホを取り出し、絢の目の前でタイマーをセットした。サービス時間の60分がカウントダウンを始める。

「制限時間は60分。どんな手を使ってもいいから、かすみちゃんを楽しませること。もちろん、私以上にね」

 言い置いて、あゆる先生は窮屈なエレベーターの中に消えていった。二人きりにしてくれたのは、あゆる先生なりのハンデなのかもしれない。

「……絶対に負けませんから」

 閉じたエレベーターの扉に向かって、絢は決意の言葉を吐いた。そして最終試験の地、オトナ保育園の『ほんわかスペース』へ向けて歩き出した。


「着替え、終わったけど……」

 お着替えを終えて『ほんわかスペース』にやってきた香澄を見て、絢は生唾と固唾を呑み込んだ。足を内股に組んで、女性用Mサイズのスモックの裾を両手で伸ばしている27歳女性。常連にのみ与えられるというくまさん名札には、丸っこい字でかすみと書かれていた。

「かすみちゃん、でいいですよね? それとも他の名前にしますか?」

 戸惑いがちに尋ねると、香澄は悶えながら地面に突っ伏した。桜の花びらが落ちるくらいに鮮やかな五体投地っぷりだ。

「やっぱ無理だよーッ! 上埜さんにこんな姿見られたなんて私耐えられない! 無理! 恥ずかしい! 死ぬーッ!」

 ふわふわ素材でできた床にぽよんぽよん頭突きを喰らわせながら、香澄は悶えた。オフィスのクール&キュートっぷりとかけ離れた姿に空いた口が塞がらなかったが、それ以上の痴態を絢は知っている。

「だ、大丈夫です三ノ輪さん! 今以上に恥ずかしい姿、私知ってますから!」

 顔を上げた香澄の表情から、さっと血の気が引いた。

「もしかしてアレ見たの……?」

「み、見ました! スゴかったです! USBに入れてもらいました!」

「もういっそ殺して! お願いだから、後生だからあ!」

 ワケの分からない表情で肩を掴まれ、絢はぶんぶん頭を揺さぶられた。クール&キュートな姿はもうどこにもない。きっとこれが、本当の三ノ輪香澄なのだ。

「だ、大丈夫ですから! 守秘義務はちゃんと守ります~っ!」

「ほんとう……?」

 涙目で覗き込んでくる香澄を見て、絢はとりあえず頭を撫でて落ち着かせる。オトナ保育園で大切なのはスキンシップ。オキシト神に神頼みだ。

「本当ですよ。三ノ輪さんの秘密は職場の誰にも話しません。……って、その職場も今月末でクビになっちゃうんですけどね」

 絢が力なく笑うと、香澄はようやく落ち着いた。職場のことを思い出して、冷静になってきたのかもしれない。

「……力になれなくて、本当にごめんなさい。前々から根回しもしてたし、あの後で部長に直談判もしたんだけど、全社方針までは変えられなくて……」

 香澄がどれだけの労力を割いてくれたのか、絢には痛いほど分かった。部下である絢に分かる範囲でも忙しい香澄が、仕事の合間を縫ってまで行動してくれていたのだ。

「いいんです。むしろたかが派遣社員のためにそこまでしてもらえたことが光栄ですよ。今までそんな職場なかったですから」

 絢はあゆる先生のように膝を折ってふかふかの床に腰を付けた。そして、香澄に見えるように自分の太ももをとんとん叩いて、膝枕へ誘導する。

「せっかくですから、遊んでいきませんか?」

「あ……う……。でも……上埜さんは……」

 あゆる先生との対決に勝ち目がないことは分かっていたつもりだった。でも、実際に躊躇われてしまうとショックが大きい。絢は、あゆる先生にだけ見せる香澄の姿を知っているのだ。勝負に勝つには、あの姿――ビデオで見たかすみちゃん――にしないといけない。それはあまりにほど遠い。

「やっぱり、私じゃダメですかね……?」

「いい、の? 私、その……」

「平気ですよ。だって、私……」

 覚悟を決めたのに。決意も固めたのに。次の一言が言い出せなかった。沈黙してしまうのもイヤで、別の言葉に逃げる。

「……オトナ保育園の保母さんですから。だから、どうぞ」

 本心を隠して笑うと、香澄はおずおずと絢の太ももの中に収まった。凛とした香澄の顔は戸惑いの色が濃くて、まだまだあゆる先生には届きそうもない。


 沈黙が流れる。無言の時間が60分という短すぎる試験時間を奪っていく。巻き返さないと香澄をあゆる先生から奪えない。焦りが絢の心に芽生える。

「あの、かすみちゃん」

「……なに、あや先生」

 香澄は視線を合わせず返事をした。声色も顔色も強ばっている。緊張と恥ずかしさでいっぱいになっているのは考えるまでもなく分かった。

 オトナ保育園の保母さんとお嬢様には、信頼関係がなければならない。残り数十分の制限時間で、あゆる先生以上に信頼を紡ぐのは至難の業だ。それでも、紡がないといけない。

「かすみちゃん、一緒に遊びましょう」

「いいけど……なにするの……?」

「かすみちゃんのやりたいことをやるんです! 希望とかないですか?」

「そんなこと言われても……」

 香澄の語尾は小さくなってかき消えた。沈黙が怖くて、絢はとにかく口を動かす。

「お、おままごととかねんどあそびとか折り紙とかいろいろあるじゃないですか! お店に来たのは遊びたかったからなんですよね!?」

「上埜さん、そうじゃなくて――」

 絢のエプロンの中でスマホが震えた。あと三十分で時間が終わる。絢の視線は香澄ではなく、おもちゃ箱に入った着せ替え人形に注がれていた。

「じゃあお人形さんで遊びましょうね! これで遊んでください!」

 人形を並べ終えても、香澄は手を出さなかった。刻一刻と時間が過ぎる中、焦った絢はやおら人形を香澄に握らせるも、放り投げられてしまう。まるでワガママな五歳児のようで、絢は眉間にシワを寄せた。

「どうしてそんなことするんですか!」

 ついつい強い口調になってしまった絢は、香澄の瞳が潤んでいることに気づいた。

「三ノ輪さん……?」

 泣いている。そんな香澄の姿を見たことがなくて、絢は固まってしまった。

「違う……違うのっ……!」

「す、すみませんっ!」

 先ほど見せた、五体投地のような姿勢でうずくまって、香澄は嗚咽を漏らして泣き始めた。これが百瀬のぞみのような感動の涙じゃないことは絢にも分かった。

「お、お人形じゃなくて他のがよかったってことですよね!? 教えてください! 今すぐご用意します――」

「そんなことがしたいんじゃないのっ!」

 失敗を帳消しにしようと畳みかけた途端、香澄に拒絶されてしまった。途端、失敗という言葉とあゆる先生の顔が脳裏を覆い尽くす。

「話を聞いてほしいの……! 苦労しても、努力しても……報われなかったこととか失敗したこととかぜんぶ……!」

 想像だにしなかった香澄の言葉で、絢は再び絶句した。香澄は仕事のできる完璧な上司。失敗などとは無縁な存在のはずだ。

「三ノ輪さんはすごいですよ……」

「すごくない……私は何にもできない……」

 掛ける言葉がなかった。尊敬する香澄の本当の姿に絢が戸惑っていると、追い打ちを掛けるように香澄が告げる。

「こんな上司でごめんなさい。上埜さんを守れない私でごめんなさい……」

 香澄は言葉を詰まらせながら話す。

「私は上埜さんに甘えてたの。見積も稟議も、他の人達が全然できない仕事でも、上埜さんはすぐに仕上げてくれるから……」

 絢は職場のことを思い出した。香澄の部下は、絢の他はみな正社員達だが、昼間ぼんやりパソコンを眺め、定時を越えてから仕事をし始める、どの会社にも居る残業代泥棒だ。

「上埜さんは気づいてたよね。うちが左遷部署だって」

「うすうす、そんな気はしてました」

 香澄は顔を上げて、スモックの裾を引っ張って涙を拭いた。ふと我に返った絢はティッシュを持ち出して、香澄の涙を鼻水を拭ってやる。

「部長から言われたの、使えない社員をクビにするのが私の仕事だって。でもそんなこと、私にできるわけない……」

 絢は、香澄の残業時間が実態とかけ離れていることを知っていた。派遣の立場で指摘するのは気が引けて黙っていたけれど、それはすなわち――

「サービス残業してたんですね、みんなのために」

「バレてたんだ、上埜さんは優秀だね……」

 涙を流して笑う香澄の姿があまりに心細くて、絢は彼女を抱きしめていた。もたれてくる香澄の体を絶対に落とすまいと、絢は腰を下ろしてしな垂れかかる体を全身で受け止めた。

「私がダメな上司だから。部下が動いてくれないのは、私がダメなせいだから……」

「そんなことないです。私、仕事柄いろいろ見てきたから分かるんです。三ノ輪さんは完璧な上司で、私の憧れですから」

 絢の手は、香澄の柔らかな後頭部を撫でていた。遠くから眺めていた艶やかな髪の毛は、近づくと毛羽立っていた。香澄の抱えていたストレスは相当のものだったはずだ。

「もし次の職場が決まったら言ってね。人事部に紹介状書いて、上埜さんのこと褒めちぎるから。前向きでやる気もあって優秀で、うちの会社にはもったいないくらいの逸材で、とても楽しかったって」

 楽しかった。香澄の口を突いて出た過去形が胸に突き刺さった。会社の方針は黙って従うしかない。派遣社員は労働力という商品だ。欲しければ買うし、いらなくなれば捨てられる。どんなに絢が願って、香澄が苦心しても、どうにもならない。

 どうにもならない。そう考えて、心の奥底にある子どもじみた考えを押し込めようとした。評価してくれている香澄にワガママな姿を見せたくなかった。それでも、堰き止めることなどできなかった。

「違います、私が頑張れたのは三ノ輪さんだったから! 三ノ輪さんがあまりにステキで眩しくて、かっこよくてかわいくて……!」

 あふれる思いを止められなかった。口を突いて出るのは普段から思っていたことばかり。支離滅裂で滅茶苦茶、そして投げやりだった。どうせ会社は辞めることになるし、あゆる先生の最終試験にも合格できそうにない。だったら伝え逃げしてしまえとばかりに理性のタガを外した。

「もう言っちゃいます! 私は三ノ輪さんが好きなんです!」

「う、上埜さん……? どういうこと……?」

 泣き顔から一転、目と口を見開いた香澄に向かって、絢は洗いざらい吐き出した。もうほとんどヤケクソだ。

「大変な仕事を任されてる三ノ輪さんを応援したくて、頑張ってたんです! そしたら三ノ輪さんが褒めてくれて、私すごく嬉しかったんです! だからもっと頑張ろう、少しでも肩代わりできる私になろうって思って。気がついたら、好きになってました!」

「好きって……」

「私は、三ノ輪香澄さんのどんな面も好きなんです! マジメに仕事してる姿も、ちょっとした遊びで気を紛らわせてくれることも、一緒に上司に怒られに行ってくれるところも」

「そう……」

 香澄の相づちも無視して、絢は言い逃げを続ける。

「それだけじゃないです! 元気に笑うところも、粘土をこねるところも、ちょっとヘタなお絵かきもお歌もお遊戯もおままごともお人形遊びもパンツ丸出しにしてミニカーで遊ぶのも好――」

「や、やめて! お、大声で言わないで!?」

 顔を真っ赤した香澄に口元を塞がれて、言ってしまいたいことは「もごもご」という音に変換された。想いの丈を叫ぶ好きの逃避行は終わった。

「わ、分かったから、上埜さんの気持ちは……」

 思うがままに叫んでいた絢は、香澄の上気した頬を見てようやく我に返った。

「どういうことですか?」

「どういうことって上埜さんが言わせたんじゃない! 私が好きだって言ったのもう忘れちゃったの!?」

「三ノ輪さんが好き……?」

 言い逃げたことがまさか聞き入れられるとは思わなくて、絢の思考は綺麗に吹き飛んだ。何か言おうにも何を言えばいいか分からず口をぱくぱくさせていると、香澄が躊躇いがちに尋ねてくる。

「好きじゃないの? 私のこと……」

 膝立ちした絢の腰にしがみついた香澄が、上目遣いで見上げていた。

「好きです! ずっと一緒に居たいです!」

「なら……私のお願い聞いてくれる……?」

「なんです――きゃっ!?」

 香澄に押し倒された。絢の体の上を這って、絢の耳元で香澄が囁く。

「キスしてみる?」

「き、キスですか!?」

 香澄の豹変ぶりに絢は驚いていた。三ノ輪課長もかすみちゃんも見せることのなかった彼女のもうひとつの一面を絢は知らなかった。

「ダメ……?」

「ダメじゃないですけど……」

 香澄のピンクの唇は、絢を待ち受けてつやつやと光っていた。どんな三ノ輪香澄も好きだと言ったばかりなのに、突然の事態に頭が混乱してくる。一歩踏み込んでしまったばかりに、二人の関係は突然変わってしまった。友達同士のときは仲が良かったのに、交際し始めた途端疎遠になってしまったみたいな話はいくらでも聞いたことがある。

「私、ほんの少し不安なんです。ここでキスしてもいいのかなって……」

「どうして……?」

 オトナ保育園はおさわりその他性的サービスは禁止だから。困った時のおまじないとしてあゆる先生から教えてもらったお題目は、絢の頭の中からさっぱり消え去っていた。

「私、まだ三ノ輪さんのことちゃんと知らないんです。だからその……キスをするなら……」

 絢は覆い被さっている香澄から体をずらして膝枕の準備をした。ほんのり笑って膝をぽんぽんと叩き合図をすると、香澄は絢の太ももに飛び込んでくる。互いに真っ赤な顔で見つめ合ってから、絢は唇を香澄に近づけた。そして

「ん……」

 絢の唇は、香澄の唇に触れることはなかった。その代わりに

「おでこって……」

「唇はまだ早いと思いまして。ダメですか?」

「……ふふっ」

 噴き出した香澄の反応を見るのが躊躇われて、絢は視線を逸らした。膝元でくすくす笑う香澄には一切視線をやらない。恥ずかしいから。

「な、なんで笑うんですか」

「いや、キスするかなって思ったんだけど、斜め上の方向だったから」

 なおも笑う香澄に少し仕返ししたくて、絢は泣き笑いを浮かべた香澄の目を見て告げた。

「そんなに笑うなら、本当にしますから。私、ホントはしたくてたまらないんです! だから」

「あ、待って……」

 恋する少女みたいな声を出した香澄の唇を奪うフリをして、直前で止めた。見下ろした彼女の瞼をしっかりと閉じた顔を見て、絢はまた、香澄の新たな一面を知った気がした。

「そんなに慌てるなんて、かわいいですね。かすみちゃん」

「そ、そういう攻め方はズルいって……」

「だってここ、オトナ保育園ですから。かすみちゃん、こういうの嫌いですか?」

「……好き」

 香澄は一言そう言って、絢の太ももに顔を埋めて腰に抱きついてきた。そして、スマホのタイマーが軽やかな音を立てた。試験時間は終了した。

 残念な気持ちや、やり残したことはなかった。試験の結果などどうでもいいと思えるくらい香澄を知れたし、全てを伝えられた。絢にはそれだけで充分だった。


「は~い。かすみちゃん、あや先生はどうだったかな?」

 制限時間が経過してしばらく後、あゆる先生がオトナ保育園に戻ってきた。尋ねられた香澄は、あやの方をチラ見してぼそぼそと話し出す。

「……楽しかった」

 香澄の言葉がどこか息苦しく感じたようで、あゆる先生は首を捻る。

「あれえ? 楽しくなかったのかな?」

「た、楽しかった! 上埜さん……じゃなくて、あや先生のこと……好きになったよ」

「え、えへへ……」

 本当は小躍りしたい絢だったが、試験の結果が出るまで感情は抑えておくことにした。

「じゃあ、かすみちゃんに聞いちゃおうかな?」

 あゆる先生は人の悪そうな笑顔を見せて、香澄と絢に視線をやった。

「私とあや先生、どっちが好き?」

「えっ……!?」

 思わぬことに、絢も香澄も同時に声を上げていた。そして絢は気づく。あゆる先生の最終試験の判定をするのは、三ノ輪香澄本人だったのだ。

「え、選ぶなんてできないよ……」

「ダメだよ、かすみちゃん。保母さんの二股は掛けちゃダメです。遠慮しなくていいから、よく考えて選んでほしいな」

 あゆる先生は愛おしそうに微笑んで、香澄の頭を撫でていた。

「かすみちゃんがこれからもずっと一緒に居たいって思えるのは、どっち?」

 香澄の目は泳いでいた。焦りを全身で表現した後、覚悟が決まったのか沈黙して大きく息を吸い込んだ。そして。


「私が好きなのは……」


 *


 翌日。壮絶なオトナ保育園経験を終えた絢は、いつもと同じ調子でオフィスのタイムカードを押した。デジタルカード式の勤怠日報を付けるのは、今日を含めてあと二日。ちょうど仕事の切れ間で特に引き継ぐ仕事もなく、有給を消化してもよかった。それでも会社に来てしまうのは社畜根性の成せる技――というワケではない。

「おはようございます、三ノ輪さんっ!」

「あ、え、えっと……! お、おはよう、上埜さん……!」

 露骨に挙動不審になって狼狽える香澄の姿が見たかったからだ。

「引き継ぎもないから有休消化すると思ってたよ」

「してもよかったんですけど、せっかくですし」

 絢はあゆる先生譲りの笑顔を見せて、香澄の反応がころころ変わるのを楽しんでいた。クールでキュートな一面を知っている者も居るだろうけど、それ以上のギャップを知る人間は、職場には絢しか居ない。

 絢は香澄の耳元で囁いた。

「……今日は、会社にデートしに来たって感じです」

「もう……そういうところじゃないんだからね?」

「はーい、分かってます」

 香澄に釘を刺されたのでしぶしぶデスクにつくと、見覚えのあるうさちゃん――じゃなくてシマリスさんマークのメモ書きが置かれていた。裏側に書かれていたのは、数字の羅列と何かしらのIDナンバー。ハッとしてスマホに数字を打ち込んでみると数コールの後で声が聞こえた。

『これで辞めても会えるね』

 電話の声は、絢の隣のパーティションからも聞こえてくる。薄いプラスティックボード一枚隔てただけの二人のデスク。いつもは書類をやりとりしていただけのパーティションの隙間で、絢と香澄は見つめ合っていた。

「もっと早く伝えればよかったです。両想いだったって知ってれば……」

「……ごめんね、私も言い出せなかったの。昨日、オトナ保育園で会えなかったら、私達はこうはなってないね」

「お互い、妙なところで奥手ですからね……」

「そうだね」

 電話を耳に当てたまま、パーティションの隙間越しに囁き合って笑い合う。オフィスには二人だけ、小声で話す必要がないことは二人とも分かっていたけれど、会社でナイショ話をしているというのが新鮮で面白かった。

「あの、三ノ輪さん」

「……二人の時は、香澄でしょ。上埜さん」

 唇を尖らせた香澄の顔が可愛らしくて、絢は笑った。

「香澄さんだって苗字で呼んでるじゃないですか」

「あう……ごめん……」

「もう、謝るの禁止ですよ? 謝ったから罰ゲームです」

「ずるい! 聞いてない……!」

「今決めました。罰ゲームの内容は……」

 絢は昨日、やり残したことに気づいた。あの時、言い出したのは香澄だったけれど、実際に行動したのは絢だ。だから今度は、その逆をおねだりしたくなる。

「キスしてください。香澄さんから」

「うええ……!? こ、ここ会社だよ!?」

「誰も見てませんよ。早くしないと誰か来ちゃいますよ?」

「う、うううう……!」

 普段クールな香澄でも、ことプライベートなことで追い込まれると目に見えて焦る。そんな彼女の姿を見るのが、絢は大好きになっていた。オトナ保育園で、眠っていたSっ気が目覚めてしまったのかもしれない。

「……次は、絢さんからだから!」

 二人は、パーティションの隙間越しに唇を重ねた。それからずっと、誰かが出社してくるまで――出社してからも目を盗んで、二人はパーティション越しのキスをし続けた。


 *


「もう、そういうお店じゃないんだけどなあ」

 新橋へ向かう山手線の中で、広尾あゆるは絢から送られてきた香澄とのツーショット画像を眺めながら弱々しく笑った。そして指先でメッセージを送る。

『幸せな気持ちは分かりましたけど、出勤はしてくださいね?』

『もちろんです! 今日の予約は?』

『ご新規さん二名と、昨日ののぞみさんがリピです。頼めますか?』

『任せてくださいっ!』

 頼りがいのある保母さんだとあゆるは思った。

 そして、この人になら、好きな人を取られても仕方がないと思えた。

『かすみちゃんをお願いしますね、絢さん』

『絶対、幸せにしますっ! あゆる先生、ありがとうございますっ!』

 あゆるは湿っぽいため息をひとつだけ吐き出して、車窓の外に流れる夕焼け空に目をやった。


 日暮れと共に託児スタート。新橋駅前雑居ビル4階、疲れたお嬢様を愛情で癒やす、オトナの女性のための癒やし空間。

 オトナ保育園。そこはめくるめく女児の国。


「さあ、今日もみんなを幸せにしましょうか!」

 新橋駅の改札を出て、広尾あゆるはいつもより強く意気込んだ。

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