オトナ保育園 中編
「……という感じでお嬢様達に接してください。できそうですか?」
あゆる先生の説明を必死にメモし終えたエプロン姿の絢は、ずーんと項垂れた。
「できそうもありません……」
オトナ保育園のサービス内容は、要約するとたった一行で簡潔する。
――お客様は
「私、ちっさい子と触れ合った経験とか全然ないんですよ? 保育士の勉強なんてしたことないし、一人っ子だから妹も居ないし、従姉妹もみんな私よりおっきいし」
「大丈夫、私も一人っ子だし従姉妹も居ませんよ。もっと言えば家族も親戚も居ない天涯孤独の身ですから」
「それもウソですよね?」
「ウソだったらよかったんですけどねえ」
「え……」
さらりと重いことを言ってのけたあゆる先生は、目を細めて楽しげに笑っていた。深入りしない方がよさそうだと感じた絢は自分の両頬を叩いて、気合いを入れる。
「……うん! とりあえずやってみます!」
「その意気ですよ、あや先生!」
エプロンの胸元に安全ピンで留めた若葉マークの名札には『うえのあや』と書かれている。これが新しい職場のユニフォーム。両親や友人には話せない――なにをどう説明すればいいのか分からないから――仕事ではあるけれど、せっかく仕事をするなら前向きにやりたい。それが絢の心情だ。
「はい、ご予約の二名様が来ましたよ! あや先生、お出迎えです!」
「はいっ!」
オトナ保育園。
それは新橋駅前雑居ビルの4階にある、オトナの女性のための癒やし空間。2人乗ったらギュウギュウのせせこましいエレベーターがチンと鳴って扉が開くと、そこはめくるめく女児の国。
「こんなトコに連れてきてどういうつもりなのよ!?」
扉が開くなり、新人アイドルの百瀬のぞみは営業用の淑やかなイメージとは真逆の形相で吠え猛った。
「まあまあ、意外と楽しいんだよ? 得るものもあるかも」
それをなだめるのは、彼女のマネージャーである二宮杏だ。
「こんな場所で得るものなんてないわよ!? 知ってる? あたしのファン層は保育園になんて縁もゆかりもないキモオタ童貞なの! 子育てどころか女の子に声かけただけで通報されるレベルの臭くてキモくて汚いハゲたデブよ!? ロリコンの気持ちでも理解しろって言うの!?」
「ひと息で噛まずに言えてすごいねえ。声優の仕事取ってこようかな」
「ホント!? ……じゃない、騙されるか! あたしもう帰るから!」
踵を返したその時、のぞみは華奢な腕を誰かに掴まれた。すさまじい握力と引き戻す力に思わず振り返ると、そこには保母さんが居た。
「わあ、新しいお友達だね! ご予約ありがとうね、アンちゃん!」
「な、何よアンタ!? ちょっと杏、説明しなさい!」
だがのぞみの叫びも虚しく、アンことマネージャーの二宮杏の顔は、普段の死相が見えるほどのしみったれた表情から、キラキラした笑顔に変わっていた。
「えへへ、あゆる先生に会いたくて来ちゃった……」
「嬉しい!」
のぞみの目の前で、エプロン姿の保母さんがアンの頭をなでなでし始めた。
「な、何やってんのアンタ、つーかドン引きなんですけど……」
思わずたじろいだのぞみの前に、もうひとりの保母さんが近づいてくる。
「な、なによ……!? あたしをどうする気!?」
「あー、その気持ち分かります。私もついさっき同じ気持ちになったばかりでして」
「はあ!?」
のぞみに話しかけてくる保母さんは、若葉マークの名札に『うえのあや』と書かれている。一歩間違えば有名女優みたいな名前だが、まるで似ても似つかない。身長はのぞみよりも小さいし、顔はそこそこ可愛らしいが、全体的に野暮ったい。
「私、上埜絢って言います。あなたのお名前は?」
「何で名乗る必要があるのよ! そもそもココは何なの! アンタは誰! あたしのマネージャーはどうしてああなっちゃってんの!?」
のぞみの指さした先で、マネージャーのアンはあゆる先生とくすぐり合って大笑いしていた。その姿はもう、大きな幼女と保母さんだ。
「それはここがオトナ保育園……という説明は後回しにして。ひとまず、名前を教えてくれますか? そうじゃないとお嬢様って呼び続けることになっちゃいますけど」
「知らないわよそんなこと! 勝手に呼べばいいでしょ!」
保母さんの絢は、不自然に上げた口角をぴくぴく振るわせて、困ったような素振りをした。
「う~ん、なかなかのおてんばさんですね。お嬢様よりお嬢ちゃまのほうがしっくりくる……」
「ふざけんな! あたしお嬢ちゃまなんて歳じゃないわよ!」
「ますますお嬢ちゃまって感じですね?」
「分かったわよ、のぞみ! 私の名前は百瀬のぞみ! だからお嬢ちゃまはやめて!」
「じゃあ、のぞみちゃまですね! よく言えましたねえ、かわいいかわいい」
そう言った保母さんの絢に、のぞみは頭を撫でられた。撮影終わりでセットしていた髪型がめちゃくちゃになって、のぞみは声にならない声を上げる。
「いったい何なのよ、もう!」
「すぐに分かりますっ。この私、あや先生にどーんと任せてください!」
「そういう話じゃないって――いたた、引っ張らないでよ!?」
あゆる先生仕込みの押しの強さを数十分で習得していた絢に手を引かれ、のぞみはオトナ保育園の『お着替えルーム』へと消えていった。のぞみが悲鳴を上げたのは言うまでもない。
「こんなマニアックなコスプレまでさせて、何をさせる気よ……」
青色のスモックの裾を目一杯引っ張ってパンツを隠すのぞみを見下ろしながら、絢は先ほどの研修のことを思い出していた。
お客様は
「のぞみちゃまは、何をしてる時が楽しいですか?」
「ちゃまはやめてって言ってるでしょ!? それに、楽しいことなんてないわよ! 社長とプロデューサーにそそのかされてアイドルになれたと思ったら地下よ、ド地下! ファン全員と顔見知りのアイドルとか頭おかしいでしょ!?」
ひとつ言うと十倍になって返ってくる。前の職場に居たヒステリックお局さんと同じだと絢は思った。こうした手合いは適当に相づちを打ったり、「わかる~」なんて言うと逆効果。「アンタに何が分かるのよ」と伝家の宝刀を抜かれてしまう。そこで、
「へえ、のぞみちゃまはアイドルなんですね。じゃあ一緒に遊びに来た人は?」
話を聞きつつも、本題を逸らす。仕事柄、いろいろな人間と付き合ってきたからこそできる、臨機応変の対人コミュニケーションだ。もっともその実は、なるべく相手の機嫌を取って、定時で帰るテクニックでもある。
「そこで膝枕耳かきされてる女はあたしのマネージャー。今日は癒やされに行くなんて楽しげに言うから、興味本位で着いてきたら……こんなことに……」
項垂れたのぞみの頭を撫でようとするも、払いのけられた。
のぞみは、オトナ保育園を未経験なお客さんだ。絢も体験した通り、オトナ保育園のサービスは保母さんとお嬢様の間に信頼関係がないとうまくいかない。気心の知れた常連さんならいざ知らず、初対面で初体験、しかも否定的とあっては失敗しない方が奇跡的だろう。
だけど、絢には諦めたくない理由があった。来月からは給料が目減りするから。そしてなにより、ここで働いていればいつか香澄に会えるから。
「そっかあ、スゴいですねえ。私には無理だなあ」
とびきりの苦笑を作って、絢は静かに闘志を燃やした。
絶対に負けたくない。
無理めなワガママ女を何とかオトして、ここで働き続けてみせる。
「当然、アンタのスタイルじゃ無理ね。背低いし地味だし。正直上埜絢って名
前負けだし上戸彩に謝ってきたら? ま、業界人でもないアンタが上戸彩に会
えるワケないだろうけど?」
さすがにカチンと来たが、絢はとっさに営業スマイルで本心を隠した。鼻で笑ってバカにしてくるような不躾な顧客への応対など、カスタマーサポートや店舗スタッフとして鍛えた胆力があれば可愛らしいものだ。
「のぞみちゃまは有名人さんに会ったことあるんですか?」
「地下アイドルだからってバカにしないでよ! あるわよ、打ち上げとか飲み会の席で!」
『番組で共演した』ではないあたりで、絢はいろいろと察した。これは学生時代にメイド喫茶でアルバイトしていた時、読モだった同僚の自虐風自慢を聞き流していた経験が生きている。
曰く、『飲み会自慢をするのは三流。共演自慢をするのは二流。一流はそんなこと自慢しない』。その基準に当てはめるとのぞみちゃまは……それ以上はやめよう。
「そっか。きっと、私が想像できない以上に、のぞみちゃまは頑張ってるんですね」
「まあ、そうね。毎日レッスン漬けだし……」
のぞみのきいきい声が少し落ち着いた。ひとまず、ヒステリックお局さんモードは封じることができたらしい。絢は内心ホッとしつつも、これまでのクソ職場に感謝した。働きづめだった経験が、絢の中で確かに生きている。
「レッスンってどんなことをするんですか?」
「ボイトレとか体力作りとか演技の練習とか……って、そんなこと聞いて楽しいの、アンタ?」
「楽しいですよ、だって――」
怒りを解いて敵対心をなくしたところで、一気に懐に入り込む。そのためのフレーズは、訪問販売で身につけた。
「アイドルの話をしてるときののぞみちゃま、なんだか楽しそうで!」
「はあ? アンタに何が分かるの?」
伝家の宝刀を抜かれてしまっても、絢は心の距離を詰めにかかる。一度ガードを緩めれば、宝刀の威力は落ちるのだ。だからこそ
「分かりますよ。好きじゃなかったら、厳しいレッスンなんてできませんもん。私なんて、三日と保たないです。いや、二日かも」
「バカね、半日で音を上げるわよ」
「あはは、そうですね」
ひとしきり絢は笑って、沈黙の間を作る。人の心を掴むには、押してばかりではダメだ。時には引いて、相手が喋り出すのを待つことも重要。この時、相手にほんの少しでも罪悪感を持たせるような会話をしておけばしめたもの。
「……ねえ、アンタはなんでこんな仕事やろうと思ったの?」
釣れた。絢は友達のヘルプでガールズバーに入った時のことを思い出しながら、それっぽい理由を考える。
「そうですねえ……」
こういう時のウソは禁物だ。ウソはいずれバレてしまう。だから、ほんの少しでも頭の中にあることを語っておいた方がよい。ついでに共感を誘いつつ。
「仕事が辛かったからですかね。私、昼は派遣やってて、毎日同じ作業の繰り返しで。環境を変えてみたかったのかも」
「ふ~ん。アンタも大変ね……」
「あ、でもいいこともあったんですよ?」
「なによ」
引き気味から食いついてきたところで一気に押す。テンプレじみたキラーフレーズを最大限に発揮できる笑顔を作って、絢はのぞみを見つめた。
「勤務初日から、カワイイお嬢様に巡り会えましたから」
「…………」
のぞみは意表を突かれたように目を見開いて視線を逸らした。暖かなオレンジライトの下では頬の色までは分からないが、こういう反応をする人間はだいたい照れている。キャバ嬢マンガで読んだ通りだ。
「じゃ、お仕事の話はここまで。せっかくだし、のぞみちゃまの楽しいことをしましょう! おうたにしますか? それともおゆうぎ? ねんどなんかもありますよ?」
「……めて」
「はい?」
逸らした顔を動かして、のぞみは消え入りそうな声で復唱した。
「……あたしのこと、褒めて……ほしい……」
「褒める、ですか……?」
「なによ。あたしは褒められるのが楽しいの。文句あるの!?」
「そうですか。褒められたいんですね?」
「い、言い方があるでしょ言い方が! 身も蓋もないこと言わないでよ!?」
「一応、確認って大事ですから。それじゃ、いいですか?」
尋ねると、のぞみは黙ってこくりと頷いた。顔色が伺いにくい照明の中でも分かるくらい真っ赤に染まった耳たぶを見て、絢はのぞみの頭を撫でてみる。
「いい子ですね、のぞみちゃまは」
払いのけられることはなかった。そればかりかのぞみは頭を絢に突き出してくる。ここまで従順になるとは思わなくて、次に何をすべきか分からなくなった。これが普通の仕事なら、大抵この後で保険や新聞の契約の話になるからだ。
絢が焦っていると、視界の端であゆる先生が小さく手を振ってウインクを送ってきた。あゆる先生の膝の上では、マネージャーがすやすやと寝息を立てている。
マネしてみようというメッセージだろう。ならここは、職場の先輩に倣って。
「膝枕しましょうか、のぞみちゃま」
「ん……」
先ほどまでのツンツンぶりがウソのように、のぞみは絢の膝の上にうつ伏せになった。顔を見られるのが恥ずかしいのだろう。気持ちは分かる絢だったが、あゆる先生譲りのほんのりしたSっ気が顔を出す。
「うつ伏せは息苦しいですよ?」
「やだ……」
「じゃあ、褒めてあげません」
「…………」
数秒考えて、のぞみは体を起こして仰向けになった。視線が合わないようにと目元を隠した腕のバリアをそっと剥がして、絢はのぞみの顔を見て営業スマイルを作る。
「近くで見ると、もっとかわいいですね」
「あう……」
声にならない声を上げたのぞみの額を撫でて、絢はとりあえず褒めるところを探した。絢がどんな派遣先でもまず第一に取り組むこと、それは女性社員との親睦を深めて地盤を固めることだ。女性に気に入られる方法はたったひとつ。褒め殺しだ。
「全部は知らないですけど、毎日がんばっててえらいと思います」
「自分の好きなことを貫ける人って、とってもステキですよね」
「きっとのぞみちゃまは、まっすぐなんですね」
「逆境にも負けない、強い子です。でも――」
瞳を閉じて聞いているのぞみの額を撫でるのをやめて、手をじんわりと押しつける。スキンシップはオキシトシンが出て落ち着くらしい。その不思議ホルモンがドバドバ出るように祈りながら、絢は間を置いてのぞみの耳元で囁いた。
「私にだけは、本当ののぞみちゃまを見せてくれてもいいんですよ?」
「ふえ……えええ……」
途端、のぞみは声を上げて泣き始めた。
「えええっ、ちょっと!?」
目線で助けを求めた先で、あゆる先生は愛おしそうにマネージャーを見下ろしながら泣き声が聞こえないように耳元を塞いでいた。自分でなんとかしろという獅子の子落としメッセージだ。
「あ、あわわ……。の、のぞみちゃま? 大丈夫ですか?」
「らいじょうぶじゃないいい……。なんで泣いてるのが分がらないい……。あだしおがじぐなっぢゃっだああ……」
絢の太ももに顔を埋めて、のぞみは絢に抱きついて泣き始めた。熱い雫を太ももに感じながら、絢はとりあえず後頭部や背中を撫でたりさすったりするも、のぞみは泣き止む気配がない。どうすればいいのか分からないまま泣くに任せていると、制限時間が来てしまった。
記念すべき初仕事で、お客様を喜ばせるどころか泣かせてしまった。
これは即刻、クビだろう。絢はがくりと肩を落とした。
「じゃあ、気をつけて帰ってね、アンちゃん、のぞみちゃん」
「うん! あゆる先生もあや先生もばいば~い!」
「ば、ばいばい……」
お見送りの時間。癒やされてキラキラ状態のマネージャーとは対照的に、のぞみは凍てついた表情で終始無言だった。
泣かせてしまったから仕方がない。あれから何度話しかけても、のぞみは口を聞いてくれなかった。途中までは上手くいっていたはずなのに、泣かせてしまったら無意味だ。
エレベーターの扉が閉まったのを見届けてから、絢はため息交じりに呟いた。
「あゆる先生ごめんなさい。私、失敗しちゃいました……」
「どうして?」
どことなく詰問するような鋭い返答に、絢の小さな背丈は余計に縮こまる。
「のぞみちゃま……お客様を泣かせちゃったんです。楽しんでもらおうと思ったのに、こんなんじゃクビですよね、私……」
「クビだなんて!」
絢は突如、あゆる先生に抱きしめられた。そしてものすごい握力で肩を掴まれる。
「私の目に狂いはなかったよ! あや先生、すっごい才能だね!」
「へ……?」
あゆる先生は瞳を輝かせて――ついでに舌舐めずりしながら――絢に告げた。
「採用だよ! もう絶対採用するし逃がさない! あや先生みたいな人を探してたの、私!」
「あ、ありがとうございます……?」
「だってスゴいよ!? 否定から入るお嬢様をあやして絆してごまかして、感動で泣かせたんだよ!? あや先生って実は詐欺師!?」
「派遣社員ですけど……というかあれって感動してたんですか!?」
「そうだよぉ、気づかなかった? あや先生の一言が、凍り付いたのぞみちゃんの心を溶かしたの! だってほら、見て!」
あゆる先生がポケットから出したのは、オトナ保育園会員証――来店するとシールを貼ってもらえるあゆる先生特製の一品――の控えだった。記名欄には『百瀬のぞみ』と書かれている。
「これって……!」
「のぞみちゃん、あや先生のことが気に入ってくれたんだよ。初仕事でお得意さんがつくなんて、これはもう才能以外の何者でもないっ!」
「だ、騙してませんか!? ちょっと褒めてその気にさせれば辞めないだろ、みたいなこと考えてませんか!?」
「ませんません! あや先生のこと、大好きになっちゃったよ!」
そう言うと、猛烈な勢いで絢は締めつけられた。恐るべき腕力と身長差であゆる先生の胸元に顔が埋まって息ができない。死ぬ!
「じゃあ、あや先生には次のお嬢様を受け持ってもらおうかな」
「つ、次って言うのは……誰ですか……」
あゆる先生のデスハッグから何とか逃れた絢は、チンというエレベーターの音を耳にした。視線をエレベーターに向けて身なりを正し、早速やってきた次のお嬢様を出迎える。
ややあって、エレベーターの鉄扉が開いた。そこから飛び出してきたお嬢様は――
「あゆるせーんせー! 遊びに来――」
ぴっちりとしたサマースーツを着こなした、仕事のできそうな社会人。見た目も振る舞いもクールなのに、遊び心を忘れないキュートさがあふれ出ている。絵心はちょっと残念だけど、それすらも美味しいギャップ萌え。
「おかえりなさい!」
にこにこ笑うあゆる先生の隣にいる絢を見て、女性は一瞬で固まった。同時に絢の顔も思考も固まっていた。なぜなら二人は顔見知り。小さな商社に勤めていて、上司と部下の関係にあるのだから。
「ふふ、びっくりした? 今日から働いてもらってる新人の先生なの。じゃ先生、自己紹介しよっか?」
あゆる先生に脇腹をちくちく突かれて、絢は我を取り戻した。取り戻したはいいが、やっぱり目の前の相手に自己紹介するのは緊張する。とはいえ、躊躇っているとあゆる先生の脇腹ちくちくがグサグサやボコボコに変わりそうな気がして、絢はぎこちないなりに笑顔を作った。そして。
「あ、えっと……。私、上埜絢って言いますけどその……。あなたのお名前は……?」
「ほら、あや先生が挨拶してくれたよ? いい子ならお名前言えるよね?」
ころころ笑うあゆる先生の言葉に、お嬢様は口をぱくぱくさせて気まずそうに呟いた。
「み、三ノ輪……香澄です……」
オトナ保育園を訪ねてきた精神年齢5歳の女の子の正体は、絢の派遣先の上司、三ノ輪香澄27歳その人だった。
互いに目を逸らしあっていた絢と香澄の様子を楽しげに眺めながら、あゆる先生は「ひらめいた!」とばかりに手を叩いて告げる。
「かすみちゃん。今日は私じゃなくて、あや先生と遊んであげてほしいの。いいかなあ?」
「うえっ――あや先生とですか!?」
「あや先生は今日が初めてなの。かすみちゃんみたいないい子と遊んだら、きっとあや先生もとっても楽しくおべんきょうできると思うんだあ」
長身のあゆる先生が、ヒールで同じくらいの背丈になった香澄の両手をとって眩い眼力を送っていた。
「あや先生も、かすみちゃんと遊びたいよね?」
そう言って、あゆる先生は絢にウインクする。どう返答すべきか迷っていると、戸惑いの表情を浮かべた香澄と目が合った。
三ノ輪香澄は仕事ができてクールでキュートで憧れの人。だけど数日後、派遣期間が終われば香澄にはもう会えなくなる。個人的に連絡先を聞くなんて、怖くて恥ずかしくてできなかった。憧れの香澄の釣り合うだけの魅力も自信も絢にはなかった。だからずっと、淡い期待は虚しくなるだけだと知りつつも、香澄のアプローチを待っていた。
だけど絢は、香澄の真実を知った。オトナ保育園で5歳の少女になりきって遊ぶ、上司としてではない、三ノ輪香澄本人の本当の姿を。
「かすみちゃんはがんばり屋さんでね。本当の気持ちを隠して、毎日マジメにがんばってがんばって、がんばりぬいてるえらい子なの。でもそれって、とっても大変なの。あやちゃんも分かるよね?」
絢の脳裏を、あゆる先生の言葉がよぎった。職場の香澄がどれだけ頑張っているか、部下である絢は誰よりも知っている。絢や同僚達が失敗した時は、率先して火の粉を被って、矢面に立ってくれる。そんな人だからこそ憧れた。そんな人だからこそがんばれた。そんな人だからこそ大好きになった。
本当の気持ちを隠してがんばる人のために、できることはなんだろう。
感謝と、大好きな気持ちを伝えるためには、どんな方法があるだろう。
絢は、エプロンについた若葉マークの名札を握りしめた。
そして、勇気を振り絞る。
「……私、かすみちゃんと遊びたいです! かすみちゃんがこれからも毎日がんばれるように……イヤなことやツラいことや大変なことがあってもずっと元気でいられるように、せいいっぱい、たっくさん……!」
あふれ出そうなものを堪えて、絢は叫んだ。
「一緒に遊びましょう! かすみちゃんっ!」
言い終えて、絢は笑った。営業スマイルでも愛想笑いでもない、ウソ偽りのない、絢だけの笑顔だった。
「あはは、アツいお誘いだねえ。どうする、かすみちゃん?」
「う、うん。じゃあ、あや先生と遊ぶ……」
「そうと決まれば早速お着替えだよ! ほらほら、お着替えしようね~」
あゆる先生は香澄を連れて園内へ消えると、すぐに絢の元へ戻ってきた。
「あや先生。ひとつだけ試験を出してもいいかな?」
「試験、ですか……?」
あゆる先生は、絢の頭を撫でながら告げた。
「私から、かすみちゃんを奪って?」
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