短編集:百合マルシェ
パラダイス農家
オトナ保育園 前編
「
都内のオフィス。
事務課デスク横のパーティションの上方から顔を出して尋ねてきた
「はい、終わってます! 稟議書も用意しましたので、問題なければそのまま上げてください」
パーティション越しに手渡した書類を確認する三ノ輪係長の真面目な顔を見つめながら、絢はいつもの言葉をどきどきしながら待った。
「……問題ないね。いつもありがとう上埜さん。優秀で助かるわ」
香澄の柔らかな微笑みに、絢の顔はぱあっと晴れ渡る。絢は、香澄が部下を褒めるときの、普段のクールな印象とは異なった微笑みが好きだ。
「三ノ輪さんが作ってくれたマニュアルのおかげですよぉ」
おまけに香澄は仕事もできる。部下になった時渡された事務作業マニュアル(三ノ輪香澄作成)は、隅々まで行き届いていてとても分かりやすい。しかも『ここだいじ』とか『気をつけよう』と手書きの可愛らしいうさちゃんマークも添えられていて、遊び心も忘れていない。クールに仕事をする裏でキュートな本音を覗かせる、見事なギャップ萌えなのだ。
「いつもうさちゃんマークに救われてます!」
マニュアルのうさちゃんが書かれたページを見せると、香澄は苦笑いした。
「それ、シマリスのつもりなんだけどね」
だが、絵心はないらしい。素晴らしいギャップを持った、仕事のできる完璧な上司。それが三ノ輪香澄だ。
「で、でも味があって私は好きです!」
「ならよかった。そうだ、課長が上埜さんに話があるって言ってたわ。もしかしたら、引き抜きかも」
パーティションに体を預けて、香澄はくすりと笑った。その仕草にどきりとした後で、香澄の「引き抜き」という言葉が絢の胸を高鳴らせた。
「引き抜き……!」
日比谷物産株式会社。中規模の商社の事務職として働いている上埜絢は、事務を専門に請け負う別会社の人間、いわゆる派遣社員だ。とは言え、仕事は周りの正社員達となんら変わらない。いわば正社員と同じ労働を、正社員よりも安い賃金でこなしている。それでも、特に不満はなかった。職場の環境がいいこと以上に、がんばればがんばっただけ褒めてくれる大好きな上司――香澄が居るから。
「実はね、私からも何度か掛け合ってみたの。上埜さんは優秀だからこれからも一緒に居られれば、って」
「これからも一緒に、ですかっ……!」
絢にだけ聞こえるように声のトーンを落とした香澄に、絢は緩みきった頬を慌てて元に戻した。「これからも一緒に居られれば」がプロポーズじみて聞こえてしまって、絢は必死に首をぶんぶん振って妄想を振り払う。
「もしかして、嫌だった?」
「とっ、ととととんでもないです! 仕事は楽しいですしここに居たいですしこれからも三ノ輪さんとずっと一緒に居たいくらいですし!」
「ずっと……?」
キョトンとした香澄を見て、絢は盛大に自爆したことに気づいた。顔を真っ赤にして口をあわあわ動かしながら、とにかくごまかそうと立ち上がる。
「なっ、なんでもないです! 課長と面談してきまーすっ!」
早足でデスクを離れて、課長のデスクへと逃げ出した。背中に受けた「行ってらっしゃい」という温かな香澄の声が絢の心を幸せで満たしていく。
ああ、自分はなんて幸せなんだろう。派遣社員を始めて五年、肥だめみたいな職場を渡り歩いてようやく出会えたやりがいのある仕事に、アットホームな人間関係。そして何より理解があって、誰よりも尊敬できる最高の上司に巡り会えた上に、その憧れの人が引き抜きの話まで通してくれるだなんて。
「上埜絢、今日付けで正社員になりました! 今後もよろしくお願いいたします!」
――なんて、面談のために用意された無人の会議室で、中途採用された気分になってぼそりとつぶやいてみる。正社員になれば、三ノ輪香澄と同じデザインの名刺を自分も持てるのだ。派遣社員としての名刺じゃなく、日比谷物産株式会社の事務・上埜絢として。そうすればもう派遣と正社員の差に辛い気持ちにならないで済む。給料も上がるし禁止されている残業もできる。そうすれば香澄とずっと、朝も昼も夜も一緒に――
「おーい? 上埜さん、上埜さん?」
「はひゃい!?」
妄想の世界に旅立っていた絢を現実に引きずり戻したのは、課長の声だった。三ノ輪香澄への尊さが爆発して居ても立ってもいられずぐしゃぐしゃにしてしまった髪の毛を手櫛で整えて平然と振る舞う。
「お話とは何のことでしょうか?」
――と、何も知らない無垢な少女のような感じで。
「それなんだけどね。上埜さん、すごく頑張ってくれてるよね」
「恐縮です……!」
逸る気持ちを抑えられず、椅子に座った体が前のめりになる。なんとか表情と声色だけは悟られないように冷静を装ってみるが、それも時間の問題だろう。なんせこの先に待ち受けるのは、幸せな人生への第一歩なのだから。
「それで、ちょっと頼みづらいことなんだけど、来月から」
「はいッ……!」
派遣元の会社を辞めて、ウチに来てくれ。そうだと思い込んでいた絢は、課長の今か今かと待ちわびていた。
だが――。
「上埜さんの派遣契約は打ち切ることになったんだ、ゴメン!」
予想外の方向から殴られて、絢の思考は停止した。
「え……」
上埜絢、派遣契約終了のお知らせ。つまりは派遣切りだった。
*
「期待を持たせるようなこと言ってごめん。私の力が及ばなかったばかりに……」
面談を終えた絢には、香澄の必死の謝罪すらどこ吹く風だった。幽鬼のようにふらふらとデスクと給湯室とトイレを往復して、業務時間の終了とともにオフィスをとぼとぼ後にした。
憂鬱だった。来月から再び、新しい派遣先で仕事を覚え、人間関係を構築しなければならない。そればかりか、今までで一番よかった派遣先を失った上に、憧れの香澄とももう会えなくなる。たった数日間の業務引継期間が終われば、絢と香澄は赤の他人に逆戻りだ。
「やだよお……三ノ輪さんともっと一緒に居たいよお……」
肩を落として歩きながら、誰に言うともなくつぶやいた。オフィスから駅へ向かう通勤路も、この駅を使うことすらももうなくなってしまう。これまでの努力は水泡に帰して、やりがいは鉄道高架を走る山手線にミンチにされた。
「つらい……無理……」
これからの心配より何より、三ノ輪香澄に会えるからと楽しみだった駅からの道程を歩くのが苦痛になって、絢は普段の道を脇道に逸れた。いつもは歩くことのない新橋駅近くの歓楽街。フラッと飲み屋にでも入ってしまおうかと赤提灯を見つめていた時、絢の耳元で女性の声がした。
「お姉さん、ツラいことがあったんですか?」
振り向くと、飲み屋街には似ても似つかぬエプロン姿の女性が居た。ゆったりしたシャツに、スキニーのパンツスタイル、足元はスニーカー。地味目のカジュアルな服装にエプロンを着けたポニーテールの女性の姿は、どことなく――
「保育士さん、ですか……?」
「ええ! わたし、保母さんなんです」
エッヘン、とばかりに胸に手を当てて保母さんは誇らしげだった。何を誇る必要があるのか分からない。危ない人だ。絢は半歩下がって距離を置き、捨て台詞を置いて立ち去ることにした。
「間に合ってますので」
「いえいえ、絶対間に合ってないと思います。楽しいトコがあるんです! 話だけでもどうですか!?」
腕を掴まれて振り解こうとするも、保母さんの力は強かった。やはり日頃から体力が有り余っている子どもの相手をしているだけあって、力も強いのだろう。
「結構です!」
「そう仰らずに! さあさあこちらへずずずいっと!」
「だ、だから結構なんですってば! そもそも何ですかあなた!?」
「だから保母さんですよ!」
「だからなんで保母さんが新橋なんかで客引きやってるんですかって言ってて――」
「え? 知らないんですか、オトナ保育園」
「オトナ保育園?」
保母さんの口から出た珍妙な単語を、絢は思わず復唱していた。すっとんきょうな絢の反応に、保母さんはしたり顔で付け足してくる。
「大丈夫です! 初回は体験入店……ならぬ体験入園もできますので! さあ行きましょう! レッツゴー!」
力強い保母さんの押しに抗うこともできず、絢は新橋の雑居ビルの中へ連行されることとなった。窮屈なエレベーターが四階に着くと、扉の先に広がっていたのは絢の想像とはかけ離れた光景だった。
「って、本当に保育園じゃないですか!?」
「はは~ん? さてはホストクラブとか風俗店だと思ってましたね? 大丈夫、当店はおさわりもボッタクリもナシの健全店です!」
『オトナ保育園』と色画用紙で作られた看板が、ドアの前に貼ってある。フロア自体も新橋とは思えない暖色系の明るい色調で、まるでいかがわしい店だとは思えない。
「と言うわけで、このフロアに来たお客様はお嬢様です。なんとお呼びすればいいですか?」
「すみません、意味がよく分からないので私はこの辺で……」
エレベーターへ戻ろうとすると、すさまじい力で引き戻された。
「待ってくださいお願いしますぅ……! うち、あまり流行ってないのでピンチなんですよぉ……! ノルマがキツくて大変なんですよぉ……!」
「ノルマ……」
急に出てきた生々しい言葉で、現実に引き戻された。
ノルマ。それは絢が最も嫌う言葉のひとつだ。派遣社員だというのに正社員と同じノルマを課せられ、やれ生命保険に加入させろ、ウォーターサーバーを置いてこいと命じられる。なんとかノルマを達成しようと知人縁者のツテを辿りに辿った影響で、絢は友人や家族親戚一同と半絶縁状態だ。金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったもの。
プライベートの人間関係を破壊する悪しき習慣、ノルマ。絶対に許してはならない。
「……分かりました。協力します!」
「うわあ、チョロ……優しい! 好き!」
本音が聞こえたような気がしたが聞き流すことにした。それくらい絢はノルマが嫌いだ。ノルマを稼ぐことも、ノルマを課すという行為も、ノルマという恐怖で人々を縛る経営者も嫌いだった。
「それじゃ、名前を教えてくれるかな?」
途端、保母さんのスイッチが入ってどきりとした。身長150センチにも満たない小柄な絢に合わせるように、高身長の保母さんが膝を曲げて屈み、顔を近づけてくる。
「名前って……?」
「お嬢様のこと、なんて呼べばいいか先生に教えて?」
まるで子どもをあやすようだが、保母さんならばそういうものだろう。きっとメイド喫茶みたいなコンセプト店なのだろう。
「じゃあ、絢で」
「あやちゃん! よく言えたねえ、えらいえらい」
保母さんに頭をわしわし撫でられた。なんとなく小馬鹿にされているような気もした絢だったが、それがこの店の流儀だと言うのなら従うことにする。それに頭を撫でられると妙に心地よい。絢は自分が撫でられると嬉しいタイプの人間だったことに初めて気づいた。
「先生のことは、あゆる先生って呼んでほしいな?」
エプロンの胸元に、『広尾あゆる』と書かれたチューリップ型の名札が縫い付けてあった。それを見えるように指さして「できるかな?」なんて付け足してくる。
「……あゆる先生」
「よくできましたあ~」
そう言って、またしてもわしわし撫でてくる。保母さん――あゆる先生の笑顔が営業スマイルだと分かっているのに、なぜかその気になって絢も笑っていた。ただ、気恥ずかしさで頬は真っ赤だろう、鏡がなくて助かった。
「それじゃあ、先生が荷物を預かるから、あやちゃんはお洋服を着替えてね?」
「着替えるんですか?」
「だって保育園だもの。オトナみたいな格好は違うよね?」
保母さんは絢の衣服を指して言った。絢の格好は、地味目のサマースーツ。童顔なのも相まって、よく就活中の大学生に間違えられる。
「そりゃそうですけど……」
「じゃ、お着替えルームで着替えてきてね。あやちゃんにピッタリの服があるはずだから、着替えたら始めよっか!」
「……隠しカメラとかありません?」
「ないない、大丈夫だよぉ~」
『お着替えルーム』と丸っこい文字で書かれた更衣室は、洋服店の試着室のような簡単な作りだった。半畳程度の個室の中をぐるりと見渡してカメラがないことを確認してから、『お着替えはここにあるよ』と書かれたクローゼットを開き――
「ちょっとなんですかこれはぁ!?」
――唖然とした。
「どうしたの、あやちゃん?」
お着替えルームのカーテンから首だけ突っ込んできたあゆる先生に、絢はクローゼットの中身を引っつかんで突き出した。
「どういうことですかこれ! 私に何させる気ですか!?」
クローゼットのハンガーに掛かっていたそれは、あろうことか水色のふわふわした衣装――わんぱくな幼児御用達、汚れてもへっちゃらなスモックだった。しかもご丁寧に、女性用S・M・L・XLとサイズバリエーションが揃っている。
「う~ん、あやちゃんはSサイズかなあ」
「そういうことを聞いてるんじゃないです! しかもこれ! パンツ!」
白無地の女児用ショーツにはウエスト周りにゴムが入っている、フィット感は抜群だろう。フィット感は。
「パンツはフリーサイズだから心配しないでねえ」
「だからそうじゃなくて……! こんなものを着なきゃいけないなんて私聞いてません!」
「……ここだけの話なんですけど、それ着たら初回料金お安くしますよ? 通常四千円ノルマのところ、半額にしときます」
「半額……」
ノルマという言葉は嫌いな絢だったが、半額という言葉は大好きだった。女児用パンツにスモックを着たら半額。プライドと二千円を天秤に掛けた絢の行動は早かった。
「……着替えます」
「ひとりでお着替えできまちゅか~?」
「出来ますから出てってください!」
あゆる先生を追い出して、絢は数十年ぶりのゴムショーツのフィット感を味わうことになった。
「わあ、ひとりでお着替えできたんだ。あやちゃんはすごいねえ!」
「これでいいんですよね……」
撫で回されてボサボサになった髪を手櫛で整えることもせず、絢は水色のスモックにゴムショーツという出で立ちで、柔らかい床の上に体育座りする。その姿勢で膝立ちしたあゆる先生を見上げていると、本当に幼児になってしまったのではないかと錯覚するほどだ。
――いや、ダメだダメだ。危うい妄想を振り切るために必死で難しいことを考えて――シカゴにピアノ調律師は何人居るか答えよという試験問題――自我を保った。
「それじゃあ、ここでのプレイ……じゃなくて、どんな風に楽しめばいいか説明するね」
「今プレイって言いましたよね?」
「は~い、ムービースタート!」
「聞いて! 無視しないで!」
あゆる先生は大きめのタブレットを持ち出して、再生ボタンを「ポチッとな」と押した。うさちゃんやシマリスさんが楽しげに走り回る映像が流れ始めて、あゆる先生のふわふわした音声が流れ始める。
『入園おめでとうございま~す。これから、おともだちが説明をしてくれるよ。おともだちのマネをして、オトナ保育園をたのしもうね!』
映像が切り替わって、オトナ保育園の室内映像が映し出された。誰も居ない広間の映像に、画面の下から女性がフレームインする。
瞬間、絢は我が目を疑った。
「ちょっ、ちょっと映像止めてください!」
「うん? どうしたの?」
画面に映ったスモック姿の女性をまじまじと見て、絢は絶句する。
「あの、あゆる先生? この人……まさかとは思いますけど……」
「じゃあ続きを再生~!」
「ああ、ちょっと!?」
タブレットの中で、スモック姿の女性は満面の笑みを見せて手を振った。そして、大きく息を吸い込んで、元気いっぱい自己紹介する。
『みんな、こんにちは~! これからオトナ保育園の説明をする、かすみだよ! よろしくね~』
大好きな人を見紛うはずもない。タブレットの中で笑顔で手を振っているその姿はまぎれもなくあの人だ。日比谷物産株式会社事務課の係長で27歳独身、バリバリに仕事ができて上からも下からも信頼の厚い、絢の現在の上司。
「みっ、三ノ輪さん!?」
「あらぁ、かすみちゃんのこと知ってるの?」
「知ってるも何も会社の上司ですよ!?」
そこまで言うと、あゆる先生は眉をつり上げて怒ったフリをした。
「あやちゃんは子どもなんだよ? お仕事なんてしてないよね?」
「いやでもこれ」
「あやちゃん?」
あゆる先生のスマイルに圧され、絢は黙って映像を見つめる他なかった。タブレットの中で、香澄は絢が見たことのないほどのキラキラ笑顔でまぶしく笑っている。
『ここではみんな、五歳のおんなのこだよ! 五歳のおんなのこのおしごとは、あそぶことだよね~』
「だよね~!」
と、あゆる先生がニコニコ笑顔で香澄に合いの手を入れた。
「地獄だ……」
だが、地獄はまだ終わらない。ドアップの香澄は耳をダンボにして、視聴者の声を聞くフリをして、眉をひそめる。
『あれ~? 声が聞こえないよ? じゃあもう一回言うね! みんなのおしごとは、あそぶこと! だよね~』
「ほらほら、あやちゃん。かすみちゃんに聞こえるように!」
言わないとこの地獄は終わらない。そんな気がして、絢は遠慮がちに口を開く。
「だ、だよねえ……」
『うんうん、よくできましたぁ!』
すると、香澄はぱあっと晴れやかに笑った。大好きな人の笑顔を見られてうっかり洗脳されかけた絢は、ブンブンと首を横に振って、あゆる先生を見つめる。
「な、なんで三ノ輪さ――かすみちゃんが紹介を!?」
あゆる先生は「う~ん」と悩んでから、保母さんの顔をビジネスの顔に切り替えて、落ち着いたトーンで語り出す。
「オトナ保育園に興味を持ってくれるお嬢様は多いんですけど、皆さん何故だか遠慮しがちなんですよねえ」
「それは分かります、すごく」
「インスタ映えすると思うんだけどなあ」とぼやくあゆる先生の目に留まらぬようにスモックの裾を両手で押さえて、絢はいろいろと納得した。
「で、それを常連のかすみちゃんに相談したら、『だったらみんなのためにマニュアルを作りましょう』って言ってくれてね」
「マニュアル……」
絢は、職場の業務マニュアルを思い出していた。よくよく思えば、動画の最初に流れた味のあるうさちゃんとシマリスの絵には見覚えがある。仕事ができる人は、遊びも全力で出し惜しみをしないのだ。
いや、いろいろと出し過ぎでは?
「はい、そろそろ説明に戻ろうね」
手を叩いて瞬時に空気を切り替えると、あゆる先生は動画の一時停止を解除した。
『ここでは、みんなが好きなことをしていいんだよ? たとえば~!』
映像の中では、もったいつけた香澄がスケッチブックを見せてくる。うさちゃんとシマリスと、香澄と思われる女の子の絵が、やはり味のあるタッチで描かれていた。
『お絵かきとか!』
そしてカットが変わり、今度は――
『おうたにおゆうぎ!』
くねくね踊って、プリキュアのテーマソングを楽しげに歌い上げ――
『ねんど!』
『おりがみ!』
『おままごと!』
『ブーン、ブーン! プップー!』
「やめてええええええええ!!!」
パンツ丸見えの四つん這いでミニカーを走らせる香澄の姿を直視できなくて、絢は目を覆って叫んでいた。
「み、三ノ輪さんの……! 私の中の三ノ輪さんのイメージがあ~っ!」
あゆる先生は動画を止めて、にっこりと笑った。
「そっか。あやちゃんはかすみちゃんのコトが大好きなんだね?」
「はい……。同じ会社の上司で、ああでも私派遣だから正確には違う会社で、それも今月末で切られるんですけど……。あ、仕事の話してすみません……」
「いいんだよ」と告げながら、あゆる先生は絢の頭を撫でていた。ボサボサになった頭みたいに滅茶苦茶な嫌なことでも、撫でられると忘れられる気がしてくるから不思議だ。
「かすみちゃんはがんばり屋さんでね。本当の気持ちを隠して、毎日マジメにがんばってがんばって、がんばりぬいてるえらい子なの。でもそれって、とっても大変なの。あやちゃんも分かるよね?」
「うん……」
釣られて出てきてしまったフランクな返事を「はい」と言い換えて、絢はあゆる先生の言葉に耳を傾けた。
「そんなかすみちゃんが、本当のかすみちゃんで居られる場所。それがこのオトナ保育園なんだよ」
タブレットの画面には、見たことのない顔で笑う香澄が居た。職場のクールでキュートなギャップ萌えなど生ぬるい。あどけない少女のような微笑みこそが、本当の香澄の姿。
「……あゆる先生、続きを再生してください」
「いいの?」
「はい。私……」
尊敬する大好きな女性、三ノ輪香澄のイメージは崩壊した。だが絢の中に
は、クールでキュートなギャップ萌えとは、別のイメージが芽生えていた。
「かすみちゃんのこと、もっと知りたいです。本当のかすみちゃんがどんな……その……アレな趣味を持っていても、受け入れたいから……」
告げると、あゆる先生は絢を抱きしめた。エプロン越しに、温かなあゆる先生の体温が伝わってくる。他人の温もりは、不安な心を解きほぐす特効薬だ。
「じゃあ、続けるね」
続けて再生された映像には、あゆる先生も登場していた。香澄と一緒に踊ったり、あゆる先生のピアノ伴奏に合わせて楽しそうに歌っている。香澄はあゆる先生に褒められて満面の笑みを作ったり、あゆる先生の膝枕で安らかに寝息を立てていた。
このビデオ、あとで貰おう。
「本当に子どもみたいで、かわいいですね……」
「じゃ、あやちゃんもしてみよっか。膝枕」
正座してぽんぽんと膝を叩くあゆる先生を見て、絢は迷いを捨てた。頭を膝に預けて、あゆる先生の顔とクリーム色の天井を見上げた。ビデオの中で香澄が眺めていた視界と、香澄が感じていたあゆる先生の太ももの温もりを感じる。少しでも、香澄の大好きな世界を知りたかったから。
「意外といいでしょ~?」
「はい……。なんだか落ち着きます……」
膝枕は、高枕。太ももは枕よりも分厚いので、寝心地がいいとは言えない。それでも妙に落ち着いてしまう。
「オキシトシンが落ち着かせてくれるんだって。あ、オキシトシンっていうのは愛情ホルモンなんて呼ばれててね、スキンシップすると眼球の奥の方からぶわーって出るんだって」
「オキシト
「ふふ、神様みたいだねえ」
あゆる先生の言うように、瞳の奥がぎゅっと締めつけられるのを絢は感じた。これがオキシトシンが出ていることかは分からないが、肩の力が抜けた気がした。
絢は、ずっと気になっていたことを聞いてみることにした。
「あゆる先生はどうして、こんな仕事を……?」
「もう、仕事の話はダメだよって言ったでしょ?」
「すみません……」
あゆる先生は眉をハの字に曲げて笑うと、どこか遠くに視線をやった。
「私がオトナ保育園を始めたのは、絢ちゃんや香澄ちゃんみたいに毎日がんばってる女性を癒やしてあげたかったからなんです。男性はいろいろそういうお店があるじゃないですか。でも女性には……ううん。私を癒やしてくれるお店はなかったから」
「うん……?」
あゆる先生の言葉に、絢は気づいた。
「……それって、あゆる先生がこのお店のオーナーってことですか?」
「そうでーす♪」
「じゃ、じゃあノルマは!? 意地悪な経営者がキツいノルマを言いつけてるんじゃなかったんですか!?」
「それウソです♪」
絢は膝枕から顔を上げて叫んだ。
「ど、同情を返してください! 私、あゆる先生が可哀想だと思って……!」
「でも、本当の香澄ちゃんを知れたから結果オーライですよね?」
「うぐ……それは……」
まったくもってその通り。思わず黙り込んでしまった絢に向かって、あゆる先生はとろけるように笑った。この慈母のような少女のような笑顔を見ると、どうにも調子が狂ってしまう。広尾あゆるは女をダメにする女だ、恐ろしい。
「ただ、ノルマがキツいのは本当なんです。このお店、実はそこそこ人気で、今日もこれから五件ほど予約が入っちゃってまして」
「つまり、おんなのこに戻りたい女性が5人……?」
「うち一件はご新規さん連れの二人組なので、6人ですね」
「世も末だ……」
空いた口が塞がらなかった。幼女になりたい願望を持った女性が、この新橋付近に今日だけでも6人居るというのだ。現代人はみんな、疲れて頭がおかしくなっているらしい。
「だから、絢ちゃんと遊べる時間もそろそろおしまいなんです。ごめんなさい、ムリヤリ体験してもらったのにこんな感じで……」
心底申し訳なさそうに謝るあゆる先生を前にすると、文句など出てこなかった。それよりも、あゆる先生の体のほうが心配になってくる。
「あゆる先生ひとりでお相手できるんですか?」
興味本位で尋ねてしまったことを、絢はこの後すぐ後悔した。
「絢ちゃん! もしかして私のこと心配してくれてますか!?」
「あえ? いえまあ多少は――」
「だったら一緒に働きませんか! オトナ保育園の保母さんとして!」
「はあ!?」
絢の制止も虚しく、あゆる先生は受付の奥から紙切れを持ち出してきた。『求人票』とオトナ保育園には似ても似つかないお堅いフォントの下は、しっかりした労働条件が書かれている。土日祝日休みで時間は18時から23時の5時間労働。その分手取りは安いが法外なブラックというわけでもない。
「実は、新しい保母さんを募集しようかなと思ってたんです! でもうちは業態が業態なので、どこに求人を出したらいいのか全然分からなくて……」
就職サイトや転職支援でここが紹介される様と想像してみる。世も末だ。
「そりゃそうでしょうけど……」
「でも! 絢ちゃんと話して分かりました! 絢ちゃんは保母さんの才能があります! 不肖、保母歴半年のこの私、ピーンと来ました! だからここにサインを!」
「ちょ、ちょっと待ってください! そんなカジュアルに転職なんてできませんよ!?」
「え~、いいじゃないですかあ。少ないですけどお給料も出ますよ? それにうち、ダブルワークもオッケーです!」
ぐいぐい押してくるあゆる先生を前にすると、「無理です」の一言がなかなか言えない。絢がなんとか口にできたのは――
「保育士の資格とか持ってませんし……」
「問題ありません! ここ認定保育園じゃありませんし!」
ぶっちゃけすぎだ。
「いや、でも私、仕事が……」
「でもでも、近々クビになっちゃうんですよね? 新しい派遣先ってそんなにすぐ見つかりますか? お金のこととか大変ですよね?」
「うぐえ」
痛いところを突かれて、絢はスモック姿で床にくずおれた。絢は有資格者でも専門家でもない、ありふれた一般の派遣社員だ。引く手あまたの専門職と違って、次の派遣先が決まるまで時間が掛かる。当然、無職の間は給料が目減りする。
「それに、香澄ちゃんにも会えますよ?」
「三ノ輪さんに会える……」
絢にとってそれは完全に、悪魔の囁きだった。このままでは給料が減る上に、三ノ輪香澄と会えなくなる。だが、場末のオトナ保育園で保母さんの真似事をすれば、目減りした分の収入を穴埋めできるばかりか、三ノ輪香澄と会うことができる。しかも、上司と部下ではなく、保母さんと女の子として。
本当の三ノ輪香澄を知ってしまった今、絢はもう戻れない。
心は決まった。
「……分かりました。私、なります。オトナ保育園のあや先生に」
「ほんとチョロ……カッコいい! 絢ちゃん大好き!」
「うわあ、急にあゆる先生のこと信じられなくなってきました! でも私やります! 三ノ輪さん……いえ! かすみちゃんにずっと一緒に居たいと思ってもらえるような、最高の保母さんに!」
「うんうん、それじゃ今日から一緒にがんばろう! スモック脱いで、エプロンに着替えてね!」
「はいっ!」
早速着替えようとした矢先、絢はふと気になって尋ねた。
「ところであゆる先生っていくつなんですか?」
「二十歳だよ」
「と、年下だったんですか!?」
「年下の女の膝枕、気持ちよかったですか?」
「~~~~ッ!」
意地悪な言い方で笑うあゆる先生の顔を見ていられなくて、絢はお着替えルームに逃げ込んだ。顔の赤みが消えるまで、しばらくあゆる先生の前にでていくことができなかったのだった。
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