それぞれの悲喜交々?

「はぁ……」

 放課後の教室にひときわ大きい溜息が響いた。その溜息の主は勿論この俺、紫堂虎である。

 終業式の放課後ともあって黒板に何かごてごて描いてはあるが、生徒は殆ど下校してしまっており残っている生徒は見知った顔だけとなっていた。

 ただ、一人生徒じゃない人もいるが。

 しかしだ、もう溜息しか出ない。

 それこそもう呼吸が溜息になるレベルである。そりゃもう溜息しか出ない。

「「はぁ……」」

 タイミングを同じくして溜息を吐く人物が一人。それは誰有ろう、スーツ姿の梢子さんであった。

「虎ちゃんも梢子先生もまたそうやってぐでーっと机で突っ伏して……」

 呆れたような声で言うのは帰り支度をしている櫛田天音その人である。その声色は呆れを通り越して殆ど諦めに似た色を含んではいたが。

「いつもの事だけどさー、最近特に二人とも溜息多いよねー」

「ずっと……溜息吐いてますよね。大丈夫ですか、虎君、先生?」

 同じく帰り支度をしていた宙と乃々が、こちらの身を案じるような言葉を投げかけてくれる。こちらは天音とは違い呆れた様子はないが、宙は少し面白がっている様子が窺えた。

「「はぁ……」」

 また溜息を吐く。

 無駄にタイミングバッチリである。

 そんな再びの溜息に、不思議そうにそれでいて半ばぶっきらぼうに天音はこちらに言葉を投げかける。

「なんでそんなに溜息吐くのよ。補習は免れたでしょ?」

 そうなのだ。

 天音が言うとおり補習は免れた。

 免れたのだが、本当にギリギリ且つおまけで免除となったため代替案として目を覆いたくなるほどの課題が追加として出されたのだった。

「夏期休業の課題がね……」

「「「ああ、成る程!」」」

 それだけで察したと言わんばかりに天音と宙と乃々の三人はそれぞれが深く頷いた。こちらとしてはそんな感じで納得されるのは大変に遺憾なのだが、今は反論する気力も無い。

 俺が終わったらもちろん矛先は梢子さんへと向かうのは自明の理。

「で、せんせーはなんで溜息吐いてるのか謎なんだけど?」

「そう、そうですよ。梢子先生はどうしてそんなに落ち込んでるんですか?」

 宙と乃々がそう言った。

 片や宙は心底不思議そうに、片や乃々は僅かながら心配の色を除かせている。

 ずっと机に突っ伏していた梢子さんだったが、気怠げに上体を起こすと重苦しく口を開いた。

「教頭先生にまたお説教を……」

「先生、それはいつもの事じゃないですか」

「そ、そうだけどね」

 天音の"正論でありながらきっぱりとしたもの言い"に梢子さんは少し面食らっている。が、そんな事はお構いなしに天音は更に言葉を続ける。

「それにしてはいつも以上に落ち込んでるのはどうして、梢子先生?」

「そうだねー、すっごい落ち込んでるよね、無駄に!」

「宙ちゃん……無駄だなんて」

 天音に続けた宙の言葉を乃々はたしなめるように言うが、宙はそれでも譲らず、喰い気味に更に言葉を続ける。

「――いや、無駄だね!!」

「まあ、落ち込みすぎだとは思うけど、それで先生?」

「教頭先生に……し……れたの」

 再度天音に促された梢子さんはおずおずといった感じで言葉を紡ぐが、言いにくいのかその言葉の大半は聞き取れない程に小さいものだった。

「あの……梢子先生、小さくて聞こえないんだけど?」

 ちょっとだけ申し訳なさそうに聞き返す天音だが、その表情は申し訳なさそうには見えない。

 それを受けて梢子さんはやけくそな感じで口を開く。

「教頭先生に!」

「教頭先生に?」

 天音も同じ言葉を繰り返す。

 ただこちらの語尾は疑問系になっているが。

「教頭先生に、面倒事をめちゃくちゃ押しつけられたのおおおお!!!」

「「「「あ、ああ……そういう事」」」」

  雄叫びを上げて今にも泣き崩れそうな程の梢子さんとは対照的に俺たち4人は合点がいったように深く頷くと皆同じ声を上げていた。

 そんな俺たちの反応に梢子さんは、無駄にオーバーなリアクションで更に声を張り上げる。

「え、何その反応!? まるで当たり前みたいな反応やめて!!」

「いや、だって梢子先生……ねぇ――?」

「はい、これは私も何も言えません」

「うん、こればっかりはしゃーないやつだよせんせー」

 正直、宙の反応は冷め切っていた。

 いや、諦観と言うべきか。

 ぼろくそに言われている梢子さんには悪いが、その通りなので俺も同じように同意――ほぼ諦めの気持ちを口に出す。

「梢子さん、それは俺もしょうがないと思うわ……」

「虎君まで!?」

 もの凄くショックを受けたように更なるオーバーリアクションの末、梢子さんは再び机に突っ伏して謎の嗚咽を漏らすだけのマシンと化してしまうのだった。





「というか、君たち三人は余裕そうだけど夏休みになんか無いの?」

 これは俺だ。

 君たち三人というのは勿論、天音と宙と乃々の事である。

 ついでに、梢子さんは現在進行で机に突っ伏して変な声を上げている。

「それじゃ、まず天音は?」

「え、私? そうね……私は補習ではないけど学校主催の特別講座があるからそれには参加するつもり」

 そう答えるのは天音である。

 因みにこの特別講座だが学校主催とはいっても確か参加費用が掛かった気がする。しかも、合計で2週間かそこらの期間がまるっきり潰れるような行程だったとも記憶している。

 勉強大好きな天音だけはあると関心半分、信じられない気持ち半分である。

 そんな事もあってか、飲み込もうとした言葉が自然と口をついて出てしまう。

「え、あれに好きこのんで参加する人間がいるんだ……」

「――何か?」

「な、何でもないです」

 天音の鋭い睨み付けにしどろもどろになって慌てて視線を逸らす。と、それを誤魔化すように話題を変えるべく口を開く。

「じゃ、じゃあ、棟木は夏休み何かあるのか?」

「私の夏休みは部活だな~! 部活!!」

 そう言った宙の顔は、薄ら日焼けをしていた。そんな顔を見て思い出したように俺は声を上げる。

「あー、そういえば棟木は水泳部だったなぁ」

「そーそー。夏休み中にも結構大会あるからねー、大会前後は忙しいかなー?」

 何を隠そうこの棟木宙、我が氷見学園水泳部のエースであった。なので、大会前に忙しくなるのは当たり前だ。

「てか、棟木お前良く補習にならなかったなぁ」

「水泳のために命を削って勉強した成果だー!!」

「本気だな!」

「本気だよ――フフフ!」

 宙のその意気込みには格好良ささえ感じさせられた。が、どうやら事実はちょっと違うらしく天音と乃々が微笑ましげ笑っている。

 そんな天音がこちらに耳打ちをしてきた。

「実はね――」 

 要約すると、どうやら天音と乃々に泣き付いて付きっ切りで勉強を教えて貰っていたらしい。

「なんだ、二人に泣き付いたのか」

「天音ちん!? それは言わないでよー」

 格好付けが形無しになったからか顔を真っ赤にして恥ずかしがる宙だった。

 そんな宙から抗議を受けた天音はというと、茶化すように「ごめーんね」と言うのみである。

「んで、最後は――」

 気を取り直してそう言うと視線を乃々へと向けた。するとそれに気付いた乃々が口を開く。

「あ、私ですか。私はお稽古が……」

「お稽古?」

「お花と日舞とお琴と――そんなところでしょうか」

「あーはい、柏野さんは凄いお嬢様だったな」

 そうだった。

 忘れがちではあるが実は彼女、良いところのお嬢様なのである。

 具体的に言えば氷見市内では指折りの老舗企業である。国内で見てもその知名度はなかなかに高い。

 事実、氷見市内で柏野製菓と聞いて知らない人はいないだろう。

 にもかかわらず当の本人である乃々は何処か嫌そうな、それでいて陰のある表情を浮かべてしまう。

「い、いえ、私なんてお嬢様らしくないですから……」

「っとと!! それにしてもお稽古って大変そうだよな!?」

 完全にまずった――慌ててすかさずフォローを入れる。

 同じように、天音もその流れに乗ってくれた。

「そ、そうね!! 大変そうねお稽古!」

「だよねー! 私だったらそんなの投げ出しちゃいそうだもん!」

 天音に続いて宙もフォローを入れてくれて、なんとかその場は収まったようだ。心なしか乃々の表情も和らいだように見える。

「え、そんな事無いよぉ。お稽古も慣れれば楽しいもんだよ」

 その声もちょっとだけ元気が戻ったように見える。

 そんな感じで一段落ついたので、未だに地獄のような声を上げている梢子さんに恐る恐る声をかける。

「あのー……梢子さん~? 大丈夫ですか~?」

「……何よ」

「もう帰りません?」

 のっそりと顔だけ上げてこちらを見る梢子さんに優しく語りかける。その表情はやはりげっそりとしたものだったが。

「……うん、帰る」

 二つ返事でそう言うと梢子さんは突然立ち上がってそのまま教室を出て行った。きっと職員室で帰り支度をしにいったのだろう。

「じゃあ、俺たちも支度して梢子さん待ってようか」

「そうね」

「はい」

「あいさー」

 そうしてそんな緩い感じで一学期が終わり、夏期休業へと突入していく。

 ――怒濤の夏を予感するように蝉が喧しく鳴き続けていた。

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