断章3 ――甘く深く昏く

 ――ここは果て。

 まあ、もう薄汚いボロボロの四畳半でしかないが、ただそう見えるだけでここは相変わらず"果て"なのだろう。

 その四畳半の煎餅布団で横になっている私は、どうやら氷見龍章という人間の成れの果てらしい。その事は思いだしたが、それ以外の事は妻と娘の名前と僅かな情景だけしか思い出せていない。

「氷見怜子に透子――うーん」

 まるで涅槃像のような格好になってほぼ唯一の手がかりの名前を独りごちる。

 だが、当然のように何も思い出せる筈もなく、お手上げといった感じで手足を投げ出すと低い天井を見つめた。

「あー……」

 意味もなく、やる気も何も感じられない声を口から漏らしてしまう。

 そういえば、あの"謎の声"はいつの間にかびっくりするほど大人しくなっていた。それこそ、煩いぐらいに話しかけてきていたのに今はこちらから話しかけても何の反応も示さない。

 というか、あの声は一体何者なのだろうか。

 それこそ、奴は知らないと言いつつ私についての事をすべて知っているかのような口振りだった。

 つまりそれは――実は私も奴を知っているのだろうか。それとも、奴が一方的に私について知っているだけなのか。

 だが、奴に対しては不思議と懐かしさを感じていた。それが善きにしろ悪しきにしろ手掛かりの一つと見て良いだろうか。

 いっそ奴に聞き出してみてはどうだろうかという考えが一瞬、頭をよぎった。が、秒で思い直してまた独りごちる。

「あー、でも……あいつ絶対教えてくれないだろうな」

 きっとそうだろう。

 短い付き合いではあるが、奴はこう言うに違いない。

 ――それは君自身の力で思い出さないといけない事だよ、と。

 そして、おどけたようにこう続ける。

 ――ま、知らないんだけどね、と。

 飄々とそう言ってのけるのが手に取るように分かった。むしろ逆に優しく教えてくれようものなら、奴の正気を疑うほどだ。

「何にしても私は思い出すしか無いんだなぁ……」

 嘆息混じりにそう呟くと、低い天井の掴めそうなぐらいの裸電球に向かって力なく手を伸ばす。

 伸ばした手の指の隙間からは裸電球特有の素朴な光りが漏れている。と、同時にその手には白熱している証拠の熱が確と感じられた。

「――ふぅ」

 伸ばした手はそのままに目を閉じると軽く息を吐いた。それは、短く単純ながらも明確な決意の表れだった。

「よし!!」

 その勢いで手を握る――握ろうとするのだが、ちょうど手の真上には裸電球があり、意図せずそれを触ってしまう形となった。それこそ白熱した電球である、声のひとつも出てしまう。

「あっつい!! あっついって!!」

 情けない声を出すと上体を起こし、赤くなった指先に息を吹きかける。ただ、頭の片隅ではこれは何の意味も無いことなのかもしれないと思う自分もいる。

「あー……」

 そんな考えに至る自分に嫌気が差して、また手足を投げ出して最早見慣れてしまった低い天井を見上げてしまう。

「あ、あれ……?」

 つい先ほどの決意が音を立てて崩れていくようにさえ感じる。と同時に、視界がぼやけ思考にもやがかかるような感覚に急激に襲われる。

 久しく感じられなかった眠気にも似たその感覚に戸惑いながらも、まどろみを甘受せんとする自分が確かにいる。

 いや、明らかに私がそれを欲しているのを感じていた。

「――あれ、頭が回らな……い?」

 思考に掛かったもやは早くもすべてを覆い尽くす勢いである。それこそ、頭も回らないが口も回らない状態である。

 何か良く分からない言葉が、頭の中で繰り返されている。


 ――それは、甘く甘く甘くすべてを包み込む極上のゆりかご。


 ――それは、深く深く深くすべての記憶を内包する智慧の大樹。


 ――それは、昏く昏く昏くすべてを覆い尽くす漆黒の天蓋。


 ――そして、それは甘美な悪夢を見せてくれるだろう。それはそれは美しい悪夢を。


 頭の中でそう反芻される言葉の中で、とあることに気付いた。なぜだか、足元に誰かが立っておりこちらを見下ろしているのだ。

 ただ、思考が著しく低下し瞼が鉛のように重くなっている現状ではそれが誰かまでは分からなかった。

 そんな事はお構いなしに、その誰かはどこか嬉しそうに口を開いた。

「だからね、龍章? 良い悪夢を――!!」

「お前……か」

 そうだ、こんな所にいるのは奴しかあり得なかった。

 それほどまでに思考能力が低下しているという事だろうか。だが、そんな中でも良い悪夢なんて言葉は少し引っかかってしまった。

 そんな言葉があるものだろうか。

「良い悪夢か……。変な言葉だな」

「そんな事ないさ、良い悪夢はあるんだよ。だからおやすみ龍章――」

 優しさとも、哀れみとも、嘲笑とも取れる奴の言葉で私はまどろみの中に落ちていったのだった。




 ――そう、奴の歪んだ笑みに気付く事など出来ずに。



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