梢子先生のありがたい補習授業?

「そう、現代史のお時間です!」

 頭に大きなたんこぶを作っておきながらも梢子さんはキメ顔でそう言うと、にっこりと笑った。

 あまりにも何事も無かったように言うので、宙が一段も二段も声のトーンを下げて深刻な表情を浮かべて言う。

「先生、本当に頭大丈夫ですか?」

「あーはい、現代史勉強していきましょうねー」

「見事にスルーだね。まー、なら問題無いか」

「本当に大丈夫かな……大丈夫かなぁ」

 やれやれといった感じで宙は腕を組みつつ目を細めた。隣の乃々は、心配なのか少しだけ涙目になって大丈夫かなと繰り返している。

「先生、体だけは丈夫みたいだから大丈夫でしょ、多分」

 天音に至っては先ほどまでの心配がどこへやら、もはや投げやりにさえなっている。

 どうやら、梢子さんは何事も無かったようにしたいらしい。なので、別の質問をしてみる事にする。

「んで、何でまた現代史なんですか梢子さ――先生」

「あー……実はね、あなたたちが偶然にも、同時に休んでいた時にやった授業の現代史が割と重要らしくて、そこの補習を――ね」

 続けざまに「私が来る前の事なんだけど私にお鉢が回ってきたのよ……」と言いつつ、俺たちから目を逸らす梢子さん。どうやらその反応を見るに、今日のお説教ついでに教頭先生にされたようだった。

「じゃ、現代史の授業始めますからね。板書していくので、気になる事があったら質問してね」

「「「はーい」」」

 そう返事をして、正面の黒板にチョークで板書し始めた梢子さんに視線を向ける。当たり前だが天音たち3人も同じように梢子さんに視線を向けている。

「さて、まずはこの国の近代の成り立ちについてですが――」

 真剣な表情で話を聞くのは、天音以下二名。

 斯く言う俺は、既に瞼が重くなってきている。

「あー、やばい……」

 目の前で梢子さんが何か言いながら板書を続けているが、既に俺の耳には殆ど届いていなかった。それどころか、もはやそれが心地の良い子守歌のようにさえ聞こえている。

 ――ものの数分で、俺の意識は闇へと引きずり込まれたのだった。




「――ちゃん!!」

「……らちゃん! もー、と……ゃん!!」

「おーきーなーさい! 虎ちゃん!!」

 天音の怒号でたたき起こされた。

 どうやら補習は終わったらしく梢子さんが困ったような、なんともいえない微妙な表情でこちらを見ている。

「虎君、困るわね。そんな堂々と寝られちゃ、怒るものも怒れないわ」

「あ、梢子さんすみません。どうしても眠くて気付いたら……」

 今回に限っては、全面的に悪いので謝る事しか出来ない。ただ、梢子さんとしては特に怒った様子はなかった。

 そして、梢子さんは軽く息を吐くと手に持っていたテキストを閉じ、笑顔で言う。

「まぁ、良いわ。板書だけでも内容の殆どの用は為してるから、後で天音ちゃんのノートでも写させて貰いなさい」

「もうしょうがないなぁ虎ちゃんってば――」

 しょうがないと言いながら天音の表情は、少しばかり嬉しそうにも見えた。ただ、それを見逃さないのが梢子さんである。

「――ふふふふ。天音ちゃんが嫌なら家で個人授業しても良いわよ」

「い、嫌なんて言ってないじゃないですか! せ、先生のお手を煩わせる必要は!」

 悪戯っぽい表情を浮かべた梢子さんの発言を真に受け、盛大に挙動不審になる天音さんである。一方の梢子さんは実に嬉しそうな表情を浮かべていらっしゃる。

 そんな梢子さんに、俺はうんざりとした声で抗議をする。

「梢子さん、挑発するのやめてください……」

「ごめんね、つい」

「ついじゃないですよ、もう」

「反応が可愛くてどうしてもねー、しょうがないよねー」

 俺の抗議に悪びれる様子もなく、形だけのごめんをする梢子さんだった。つまり、梢子さんはこれからもそれを繰り返す事だろう。

「はぁはぁ!!! 全く先生は!!」

 肩で息をしながら天音は、梢子さんに対しての憤りを口にしていた。が、どうやら気が済んだようで自分の席に座直して大人しくなった。

 俺としては「全く梢子さんは!!」以上に「全く天音は!!」なのだが、どんな酷い目に遭わされるかわからなので口が裂けても言えない。ただ、その反応になるのはきっと付き合いの長さによるものだろうとは思った。

 つまり、結果的にはどっちにもうんざりしているのである。

「はぁ~……」

 俺はただ深いため息を吐くのであった。

 因みに、宙と乃々は周りなぞどこ吹く風で楽しそうで二人の世界に入っているようだった。割と性格が違う二人ではあるが、もの凄く波長が合っているのが中々に不思議に思う事だったりする。

 ――と、まったりとしてきたところで梢子さんは、二回手を叩いて口を開く。

「実はここからが本題なんだけど」

「え、もう補習は終わったんじゃないんですか」

 まさかの発言に、もう補習は終わりだと思っていた俺は不満の声を上げた。

「えーまた補習なの~!?」

「流石にちょっと疲れました……」

「先生、ちょっと私も疲れた」

 天音たちも同じだったらしく、口々に不満の声を上げた。

 だが、梢子さんは安心しても良いという風に優しく微笑む。

「大丈夫よ、補習じゃないから。ただちょっとね」

「じゃあ、何の話なんですか?」と、質問すると梢子さんは梢子さんでこちらに質問を返してくる。

「もうすぐ夏期休暇よね?」

「そういえば、あと一ヶ月ちょっとで終業式ですね」

 そう言いながら俺としては、その前に控える期末テストが懸念材料だった。

 何より、夏期休業中に補習授業なんて耐えられない。

 そんな事を考えていると、宙が苦虫を噛みつぶしたようなもの凄いしかめっ面をしながら呟く。

「嫌だなぁ……期末テスト」

「虎ちゃんもそう思ってるみたいね。あの嫌そうな顔を見れば分かるわ」

 天音はといえばどこか得意げな表情だ。

「先生、虎くんも言ってるけどあと一ヶ月ありますよ?」

 乃々だけは真剣な表情で梢子さんを見据えて、それは違いますとでも言いたそうなニュアンスで言う。言うのだが、梢子さんは意に介さずに言葉を続ける。

「うん、あと一ヶ月ね。――でね、私、実は虎君の叔父さんに挨拶に行ってきたのよ」

「ええっ!? いつの間に……」

 それは寝耳に水の話だった。

 それこそ、叔父さんからは何の報告も受けていない。

 恐らく叔父さんの事だ、黙ってた方が面白いとかそんな理由で俺に対して何の連絡も入れなかったのだろう。

 断言出来る、叔父さんだったらあり得る。

「そこで急遽決まったんだけど、虎君の義妹ちゃんが、なんと!」

 梢子さんはそう言ってにやりと笑い、更に言葉を続ける。

「――夏期休暇に入ったらこっちに遊びに来ます!!」

「はい? 朱音がですか!?」

 梢子さんのまさかの発言に、声が裏返ってしまった。そりゃそうだ、思ってもみない内容だったのだ、声ぐらい裏返るだろう。

 梢子さんの言った義妹とは、俺の発言の中にある朱音、つまりは叔父さん夫妻の一人娘である赤堂朱音あかどうあかねの事である。

 赤堂夫妻――叔父さん夫婦に引き取られた俺はその一人娘の朱音と実の兄妹のように育てられたのだ。

「そうよ、お義兄ちゃんに会いたがってたわ~。虎にぃ、虎にぃって繰り返してて可愛かったわよ」

 思い出し笑いをするように、梢子さんは微笑む。同じく俺も、小さい頃の朱音を思いだして自然と笑みが零れてくる。

「小さい時はそんな感じで、俺の後ずっと着いてきてましたね」

「そうなのね、あの子凄い楽しみにしてたわよ」

 その後に、小躍りでもしそうだったと梢子さんは笑う。そんな梢子さんの言葉に、俺も自然とまた笑顔になっている。

「みんな、そういう事らしいから夏期休業入ったら朱音と遊んでやってくれ」

「嫌だとは言わないわよ。楽しみにしてるみたいだし、存分に遊んであげましょう」

 天音はそう言って胸を張った。

 その天音の言葉に、宙と乃々、梢子さんまでが頷いていた。

 当たり前だが、俺も朱音とちゃんと遊んでやらねばと心に誓うのだった。

 だが、正直今から気が重いのだ。そもそも今、俺の置かれているこの状況で妹と遊んでる暇などあるのだろうか。

「うーん不安だ……」

「何が不安なの? 私は今から会うの楽しみだなー」

「私も楽しみです。妹いないので楽しみ……楽しみ」

「どうしたの虎ちゃん? 久しぶりに会うんだから楽しまなきゃ」

「そうそう、楽しまなきゃね~虎君」

 俺の苦悩をよそに天音たちは、それぞれがもう朱音に会うのを楽しみにしているようである。それどころか、俺の今の事情を知っている梢子さんまでが、浮かれているかのように笑っている。

「大丈夫かなマジで」

「大丈夫よ。それに、特訓は夏休みまでに形にするわ」

 自然に梢子さんはそう耳打ちしてくる。恐らく、梢子さんは梢子さんで考えがあるのだろう、そう思うことにしておこう。

 相変わらずその行動で、天音が激高しているようだが今回はスルーすることにしよう。

 そうして、話が終わったのか梢子さんは持ってきた資料を軽く片付けると、再び二回手を叩いて口を開く。

「さて、時間も時間だしあなた達はもう帰った方が良いわね。私は職員室に戻るわ」

「「「はーい」」」

 俺たちはそう返事すると、皆は自分の机の上を片付け始める。

 俺の場合は、涎の跡がある見出しだけ書かれたノートを鞄に放り込むだけなのですぐ終わる。

 程なくして、皆が片付けを終わって廊下に出る。

 廊下に出て、ふと窓の外を見ると、太陽がその顔を隠して夜の帳がそこまで迫って来ているのが見えた。

「じゃあ、帰りますか」

「そうね」

「帰りましょう」

「かえるー」

 斯くして梢子先生のありがたい補習授業は終わったのだった。

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