ご機嫌はナナメ向き
――時刻は朝の8時前。場所は、住宅路の先の通学路。
そこにあったのは、梢子と天音に挟まれるようにして通学路を歩いている虎の姿だった。それはまるで、捕食者に捕らわれたか弱い草食動物に見えるだろう。
そんな状態になるのは無理もないかもしれない。
何故か。
それは、虎の隣を歩く梢子と天音が物々しい雰囲気を放っているからだった。
「がるる……」
「――ふふふふ」
「えーっと」
冷や汗が大量に背中に伝うのを感じた。それこそ暑くもないのに、額に掻いた汗が玉になって頬を伝っていく。
梅雨も明けて、だんだんと暑くはなっているが、通常ここまで汗は掻かない。
既に空気が重く息苦い。
天音は臨戦態勢だし、梢子さんは面白がってなのか意味ありげな笑いを浮かべ、暗に天音を挑発しているように見える。
梢子さんらしいやり方だなとは思うものの、この今の状況では勘弁して欲しい。
勇気を出して、獣のように喉を鳴らしている天音に思い切ってお伺いを立ててみる。
「あのー……天音さん?」
「――何よ!」
「いや、何でも無いです!」
余りの迫力に、あえなく撃沈してしまうのが情けないところだが、その迫力は本当に凄まじいもので誰だって尻込みしてしまうだろう。
こうなってはどうしようもないと、梢子さんにごく小さな声で助けを求める。
「梢子さんなんとかしてくださいよ」
「ふふふ――自分でなんとかしなさい」
「でも、取り付く島もないですよ。そもそもこれは梢子さんのせいでも――あいたっ!!」
梢子さんに助けを求めたのか気に入らなかったのか、天音は力の入った肘鉄を俺の脇腹目掛けて当ててきた。それは本気ではないだろうが、それなりに痛いので辞めて欲しかった。
「痛いって天音」
「ふーんだ!!」
そっぽを向かれた。
再び訪れる沈黙に、またどこか気まずい雰囲気に逆戻りしてしまう。
そうこうしているうちに、いつも凸凹コンビが待っている林道の出口付近まで来ていた。そうして、道の先を見やるといつも通りに待っていた二人がこちらに気付いたのか嬉しそうに手を振っている。
「じゃ私、二人と先に行くから!」
「ちょっ、待って。天音さん!?」
「ふふふ――いってらっしゃーい」
俺たち二人を置き去りにして、天音は二人の元に駆け寄っていった。
その二人はというと、こちらに向かって大変だなとでも言いたそうな憐憫にも似た視線を向けているのだった。
天音達の背中が見えなくなってから、抗議の意味を込めて隣の梢子さんに厳しい視線を向けながら口を開く。
「梢子さん、もうちょっと上手く言えなかったんですか」
「中途半端に本当のこと言っちゃうと、逆に心配掛けるからしょうがないでしょ」
「それにしたって――」
「――はい、この話はお終い!! こんなの特訓が終わるまでの辛抱よ」
軽く手を叩き、俺の発言を遮ってこちらに視線を向けた梢子さんはそう言った。その表情はどう表現すれば分からない、そんな表情を浮かべていた。
無理矢理に話を中断され気が削がれたこともあり、ふと周りを見渡すと他の通学中の生徒がちらほらと目に入った。
その女子率約八割である。
それもそうだ、実は俺たちの通っている氷見学園は元々女子校だったためか、未だ男子生徒が極端に少ないのである。
ただ、今年の新入生の男女比はそこまで酷くなかったようだが。
――と、そんな事を考えていると梢子さんの脇を颯爽と駆け抜けていく一台の自転車があった。
その自転車の主は、梢子さんに気付くと急ブレーキを掛ける。
「あっ、紫堂先生!!」
「おはよう早坂君」
「おはようございます先生! 虎君、君もいたんだな。全く気付かなかったよ、一応おはよう!!」
自転車を降りるとさわやかに挨拶する早坂君。ただ、さわやかだがどこかウザい雰囲気を感じさせるのは流石だ。何かキラキラしてるし。
彼は
この彼、一言で言うと残念なイケメンである。それこそ睫毛は女の子のように長いし顔立ちは整っており、高身長でスポーツ万能、学業も申し分もない、無いのだが――いかんせん口を開くと駄目なのだ。
因みに、梢子さんは俺の親戚という嘘を通したのか紫堂梢子と自ら名乗っていた。
そんな俺の失礼極まりない紹介を知ってか知らずか、早坂君のそのウザさは留まるところを知らない。
「先生、ありがとうございました。どうやら先生が紹介してくれたアルバイトは、僕にとっての天職だったようです!!」
「えっ、あ、良いのよ。気に入ってくれて良かったわ。ホント良かった!」
「ええ、ありがとうございました! 本当に良かったです」
満面の笑みの早坂君は梢子さんの右手を、無理矢理に両手で握ると大きく何回も上下に振るように握手を交わした。いや、一方的すぎて握手を交わすと表現するのも憚られる程である。
「本当に、本当にありがとうございます!」
この男、感激の余り泣き始めるんじゃないかとでも言うほどに感激しているのが見て取れたが、正直、引くレベルである。
この間、梢子さんの前に早坂君が立ちはだかるような格好になっているのでちょっとした通行妨害になっていた。
「じゃ、僕はこれで!!」
「え、ええ、自転車気をつけてね……?」
「はい!! では、教室で!!」
ひとしきりやりたい放題して満足した早坂君は、これまた言いたい事だけ言うと自転車に跨がると颯爽と去って行った。
その早坂君の小さくなる背中を見送りながら、彼が苦手だと静かに再認識するのだった。
そうして、何事もなかったように学校を目指して歩き始める。
「そういえば、梢子さん。もしかして」
「そうよ、彼が君のアルバイトの代わりよ」
「大丈夫ですかね、彼で……」
「だ、大丈夫よきっと……きっと」
梢子さんが明らかに大丈夫そうではない物言いをするので、こちらとしても更に不安が募るというものだ。
もはや、諦観の念で現在時刻を確認すると、予想外の時刻に思わず声を上げてしまった。
「あっ、時間!!」
「本当! 流石にゆっくりしすぎたみたい!!」
「い、急がないと。先生が遅刻しちゃ不味いですよね!?」
「ま、不味いわ。これ以上の遅刻は不味いわ」
その表情をみるに本気で不味いのだろうか。
それにしても、いい大人が遅刻常習犯とは……。やはり、というか何というかこの人は、変なところで抜けているようだ。
思い詰めたような表情を一瞬浮かべた梢子さんは、決心したように口を一文字に結ぶとただ前を見据える。
「こうなったら本気で走るわ!!」
「はい」
俺もただ一言で応え、二人して走り出すのだった。
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