六右衛門狸、へいげんにまかり通る。

六右衛門狸 一

 時は江戸の末、阿波国あわのくにの出来事である。

 事の発端は金長と六右衛門、この両名の確執にある。

 一言で表すとしたらそれは血を以って血を洗うと云うべきか、はたまた血風舞い散ると云うべきか、いずれきな臭い話である。

 何しろ双方合わせて百二十余の兵士が互いの血肉を引き裂かんと、勝浦川を挟み三日三晩争い続け、果ては川の流れる末を全て赤に染めたと云う。

 このような惨事が起きたのも全て六右衛門のよこしまな思いが元凶なのだと人は後世に伝える。

 この伝説において六右衛門は、悪役として描かれには六右衛門はやはり敗北し、惨めな最期を迎えるのだ。

 後に、『阿波狸合戦』として伝わるこの伝説は最初から最後まで六右衛門にとっては何一つ報われることのないままその幕を降ろされ、彼の心中をおもんぱかる者は余りにも少ない───。






 六右衛門は、湿った土と青臭い草の匂いに気付き目を覚ました。

 寝起きで朦朧もうろうとする頭に堪らず顔をしかめる。どうやら長いこと寝すぎたらしい。

 身体を起こすのも億劫おっくうだった六右衛門はしばらく何も考えずにただ仰向けに空の一点を見つめていた。

 徐々に意識が明瞭になっていくにつれて六右衛門は一つの異変に気付いた。

 ───阿波じゃない。

 合戦によって死してから百数十年。霊となって六右衛門は人の営みを見続けていた。見守ってきたのではない。唯見続けてきたのである。

 六右衛門の生きた阿波の地は時代の流れによって様変わりし、瓦葺きの屋根は取り払われ、土が剥き出しにされていた大地はコンクリイトに覆われた。

 しかし、今六右衛門が寝そべる地は見渡す限り平原である。コンクリイトは元より長屋すら見当たらない。疎らに生える木と遠景に山を認めるのみである。

 六右衛門は上体を起こした。その瞬間見てしまった。

 己の身体に起こった異変を。

 ───オレの脚じゃねェ。

 それは、人の脚だった。

 六右衛門は短い悲鳴を上げた。甲高く響くその音は、狸のそれではなく女の声だった。

 仰向けになって空を仰ぐという到底狸のすることのない姿勢をしている時点で気付くべきだったが、六右衛門は最早そんなことを考えていられる精神状態ではなかった。焦った六右衛門はすぐに立ち上がり、己の身体を確かめた。

 信じられないことに具足を纏った女の姿をしているらしい。どういう訳か臀部からは生来の狸の尾が生えていた。

 当然六右衛門はこのような姿に化けた覚えはない。元の姿に戻ろうとしてもできない。というよりも寧ろこの姿こそが元となっているような感覚だ。

 六右衛門は、ここに至ってようやく事態の深刻さを理解した。六右衛門が生きた数百年、そして死後の百数年を鑑みてもこのような事態に遭遇したことは一度とて無い。

 ───人に尋ねるか。

 辺りを見渡す。

 ───人、居るのか。

 此処ここには人の営みを感じることができない。人気ひとけが無いのだ。そもそも日本ひのもとかどうかすらもが怪しい。

 六右衛門はこの世に己一人だけかのような孤独感を覚えた。心を恐怖が支配する。

 ───これは罰か。鹿の子姫むすめの想いを踏みにじった罰か。

 そんなことを考えた。

 鹿の子姫は六右衛門の娘だ。金長に想いを寄せていた。金長を攻めんとする六右衛門をいさめる為に自らの腹を切り裂いた。それは、鹿の子姫の意に反し、寧ろ六右衛門の金長に対する憎悪を増長させるという結果に終わった。

 六右衛門はかつては狸にしては豪胆な気性の持ち主であったが、金長に喉笛を咬み千切られてからはすっかり落ち込んでしまった。一度死んで冷静になってから、己の娘が自刃したのは金長の所為ではなく他ならぬ六右衛門自身の所為であるということを理解したのだった。

 鹿の子姫が死んだのはひとえに己の傲慢さ故である。

 そう考えたのだろう。

 それからの六右衛門は性格に多少陰気が差した。かつての津田の狸の総大将としての気迫は失せてしまった。


 六右衛門は取り敢えず歩くことにした。無論当てがある訳ではなく、唯此処こことは違う別の景色を見たかっただけである。

 暫く歩くと人工物を見つけることができた。此処ここに来て初めて人の存在を感じられる物だ。

 それは石畳の一本道と、恐らくは半身が地面に埋まっている様々な大きさの輪状の物体が道を挟んで幾つか生えているという物だ。地面から出たその半身だけでも人の背丈を遥かに超える巨大な物もある。

 六右衛門はその物体が人が開発した移動用の絡繰からくりである自動車の一部、タイヤであることを知っていた。しかし、そのタイヤが淡い青や赤に彩られていることの意味や何故地面に埋められているかということについては知らなかった。六右衛門は恐らくは芸術か何かだろうと思うことにした。

 それにしても、大きい。近づいてみるとソレは六右衛門の背丈の三倍程はあるかのように見える。末端の部品だけでもこれだけの大きさなのだ。余程巨大な自動車のタイヤなのだろう。

 それは、正しく人の痕跡だった。六右衛門は人の痕跡に手を触れた。居るのだ。人は。ならば道を辿れば会えるだろう。

 一抹の希望を見出した六右衛門は振り返った。他に何か痕跡がないかと探そうと思ったのだ。


 は、音も無く立っていた。色彩の無い服を纏った女が、鬼のような形相で六右衛門を睨んでいた。

 眼が。

 限界まで吊り上がったその眼が、己の浅ましい本性を見透かしている。

 そうに違いない。

 アレは幽鬼だ。

 やはり、此処ここは地獄に違いないのだ。






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