第41話 夏の行方


 翌朝、椛音が安らかな温もりに抱かれながら、その次第に白み始めた瞼の裏で微睡んでいると、遠くの方から唸りのような音が微かに伝わって来るのを彼女の聴覚が不意に感じ取り、そしてそれはまだ明確な輪郭を持たない意識の流れを音のする方へと傾けた。


 ブウゥゥゥン、ブウゥゥゥン、ブウゥゥゥン。

 一定間隔で流れてくるその特徴的な音に、椛音は聞き覚えがあった。それはかつて椛音の自室においても頻繁に伝わって来た、彼女の日常に至極ありふれていた音。


「ん……んん、この音……は、私の……スマ、ホ?」


 そして椛音が、その閉ざされていた二つの扉をゆっくり開けると、其処には清かな朝の光に顔の半面を照らされながら、自身の首元で小さく寝息を立てるミルルの姿があり、椛音の後方から依然として聞こえるスマートフォンの鳴動と思しき音に、ミルルもまたその瞼を俄かに震わせて、意識の糸を手繰り寄せている様子だった。


 なおミルルの腕は、気づけば椛音の背中にまで回されており、相手の心臓の鼓動さえも容易に感じられる程、二人の身体は極めて密着した状態にあった。


「あれミルルちゃん……いつの間に、こんな、近くに」


「ん……うぇ? か……のん?」


「あ、ごめんねミルルちゃん。起こしちゃった、かな」


 ミルルは、起き抜けの状態をそのまま絵に描いたような、ほうけた面持ちで、その双眸を手で擦りながら、件の音と入れ替わる形で部屋に伝わって来た麗らかな朝鳥の声に意識を明らかにしたのか、彼女の目の焦点がその間近にある椛音の顔に向けて、漸くはっきりと定まったように見えた。


「あっ、カノン! ――って、もしかすると私、一晩中カノンに抱き付いていたのかしら……カノン、苦しくなかった?」


「はは……私は全然大丈夫だったよ? それよりおはようミルルちゃん。昨日はよく眠れた?」


「おはよう、カノン。あなたのおかげで、とっても良く眠れたわ。生まれて初めてかも知れないってくらい、ぐっすりと」


「ふふふ、それは良かった。何だか私のスマホがさっきから鳴ってたみたいで、それで起こしちゃったかも、だけど……」


 椛音がそう言いながらその音がした方向へ顔を向けると、ベッドの近くにある豪奢なロココ調の様相を呈した白いローテーブルの上に、薄い桃色をした彼女のスマートフォンが置かれており、どうやらその振動音が接面していたテーブルを介して増幅されたことで、椛音たちの耳に大きな音として伝わって来たようだった。


「こっちの世界で私に連絡できる相手って……セラフィナさんしか居ないよね?」


「先生、から? ということは……」


 程無く椛音がそのスマートフォンを手に取り、その通知欄を確認すると、其処にはやはりセラフィナからの不在着信が入っていた。


「やっぱりそうだ。ちょっとこっちから掛けてみるね、ミルルちゃん」


 椛音がセラフィナに連絡すると、間もなくその電話口にセラフィナが現れ、彼女の薦めもあり、椛音はお互いに顔が見えるビデオ通話へと切り替えた。


「朝から悪いわね、カノン……あら?」


 立体モニターに映し出されたセラフィナは、椛音の傍らに居るミルルの方を見るなり、何かを納得した様子で細かく頷いてみせた。


「おはよう、ミルル。あなた……ついにカノンと一夜を共にしたのね?」


「えっと……おはようございます、先生。あの、その言い方だと、ちょっとじゃなくって、かなりの語弊があるかと……」


「ふっふっふ。軽いジョークよ。それより二人して揃っているならちょうど良かったわ。カノン、あなたの世界に派遣していたチームのことだけど――」


 セラフィナによると、椛音が元の世界に戻る際に生じるであろう問題を解決すべく、先行して派遣した特殊処理班バウドゥラーから全ての障害を解決する目途が立ったとの報告があり、それに要する時間がちょうど三日であるとの結論が出たとのことだった。

 また加えて、その期間を過ぎてしまうと、別の問題が新たに発生してしまうため、椛音は今から数えて三日後には、元居た世界に戻っている必要がある、と続けた。


「私がここを離れて、元の世界に帰るまで、あと三日……」


「三日後……? 先生、それはちょうど、学院の終業式がある日では……?」


「ええ、その通りよミルル。だから当日はあなたも一緒になって、ここを発つカノンを見送ってあげなさい」


 それからややあってセラフィナとの通話を終えた後、椛音がミルルの方に顔を向けると、彼女は何処か沈んだような面持ちを見せながらも、明るい色をした声で椛音へと言葉を紡いだ。


「……良かったじゃない、カノン! これで無事、元の世界に戻れるんだね!」


「あ……うん。ありがとう、ミルルちゃん。だけど私があっちに戻ったら、ミルルちゃんは、また――」


 するとミルルは、その首を左右に振りながら椛音の両肩に自身の両手を乗せると、その言葉の続きを遮るようにして再び口を開いた。


「私のことなら気にしなくて大丈夫、だよ。場所は分かったんだから、きっとまたすぐに会えるよ。ね?」


「……うん、もちろん。それで今日はさ、屋敷に帰るまでの間、私達の写真を一杯撮ってもいいかな? 昨日は遊ぶことに夢中で、あまり多くは撮れてなかったから」


「そうだね! じゃあ今日は、目一杯撮ろうよ! 思い出がたくさん、残るように」



 ***



 軽めの朝食をとった後しばらくして、椛音はピンク、ミルルはアイスブルーといった、昨日とは異なる色合いを見せるフリルビキニを纏って浜辺へと繰り出し、椛音は昨日撮り損ねていた日中の湖の風景を始めとして、ミルルが浅瀬で水と戯れている場面や、少しおどけた風に振る舞った場面などを次々と画面に収めていった。


 また椛音はミルルに自身の端末を渡して、自分が気取ったポーズを取ってみたところを撮って貰ったり、ふと気を抜いた瞬間を意図せずして撮られたりと、エスフィーリアに滞在できる残り時間をしばし忘れて、ミルルとの撮影会に興じた。


 そうこうしているうちに、太陽の位置は見る見るその高さを増していき、椛音がふと気が付いた時には、既にそれが青々と抜けた空の頂きにまで達していた。


「あら……もうお昼時かしら? 何だかついさっき食べた気がするけれど、お腹は確かに空いてきたわね。それじゃあ昨日とは違う所でお昼ランチにしましょ」


 そうして椛音は、あらかじめ近くに用意してあったクーラーボックスを手にしたミルルに先導され、別荘前にある砂浜からは少し離れた木々がやや生い茂った所にある、白い屋根をした東屋あずまやへと辿り着いた。


 それから幾許いくばくも無く、ミルルが昼食として椛音の前に出したのは、椛音が朝の身支度を整えている間に別荘のキッチンスペースで自ら作ったという、少し大きめの、見るからにボリュームのある具沢山のハンバーガーで、赤と緑に白といった野菜の彩りに挟まれたパティからは、とろけた様子のチーズが覗いていた。


「わぁ、これはハンバーガーだね! 昨日のサンドウィッチ以上に私の世界にあるのものとすごくよく似てるよ!」


「そう? せっかくだから、お昼は私の手作りでも食べて貰おうと思って。うちのシェフが出すものとは違って、カノンの口に合うかどうかは分からないけれど……」


「でもこれおいしそうだよ? 食べる前に写真を撮ってもいいかな……?」


「ふふ、これも撮るの? もちろん良いけれど。あとはいつでも召し上がれ!」


 椛音は自らのスマートフォンでミルルの作ったハンバーガーを撮影すると、湧き上がる食欲に背中を押され、その手を勢い良く合わせた。


「それじゃあ早速、いただきまぁす……あむ」


「えっと……どう、かしら?」


「……うん! しゅっごく、おぃひぃよこれ! 肉汁がじゅわーって感じで!」

「あはは、気に入って貰えたなら嬉しいわ。食材のおかげ、かしらね」


「それもあるかもだけど……何より、ミルルちゃんが私のために作ってくれたってのが、一番大きいかも」

「んもう! カノンったら、またそんな嬉しくなるようなことを! このこの!」


 ミルルはそう言いながら椛音に身を寄せ、照れ隠しといわんばかりに彼女の腕に自分の拳をぐりぐりと当ててみせ、また椛音もそんなミルルのおどけた様子を目の当たりにしてその白い歯を一際輝かせた。


 そして昼食を終えてしばらく経った後、椛音達は東屋近くの木間に掛けられた、二人用の大きなハンモックへと移動し、そこで湖面から伝わって来る爽やかな軟風に揃ってその身を揺られていた。


「この青い空も、もうすぐ終わりなのね……何だか、信じられないわ」


「本当だよねミルルちゃん、こんなに晴れ渡ってるのに……」


 なおその日は夕方を待たずに天気が急変するとの予報があり、街の方へと向かうバスの本数も、日曜に相当する曜日であったためか、午後には非常に限られた数しか無く、椛音達はあと半時程で帰路に着くことになっていた。


「私、いつか自分が大人になった後も、この、カノンと二人で過ごした短い夏のことだけは、いつまでも鮮明に覚えていると思うわ」


「ふふ、私も。絶対に忘れないよ。今のこの時間が、確かにあったことを。あ……ねぇ、ミルルちゃん、今二人でこうしてるところ、こうやって……撮らない?」


 椛音はそう言いながら右手でピースの形を作って、その指先を自分の右側の蟀谷こめかみに当てるポーズを、傍らのミルルにして見せた。


「あ、何それ、面白そう! 指を……こう、やるの?」


 ミルルにとってそれは初めて見る新鮮なポーズであったらしく、隣の椛音を鏡に映したように、左手で同じ形を作りながら、その顔を椛音の顔へとくっ付けた。


「いい感じだよミルルちゃん! そのままにしててね……っと」


 そして間もなく椛音は自身の左腕を正面に伸ばし、その手に掴んでいたスマートフォンのインカメラを起動させ、撮影タイマーを設定した。


「じゃあミルルちゃん、今から三回音が鳴ったら、飛びっきりの笑顔を見せて!」

「あ……了解! いつでも良いよ! カノン!」

「うふふ、それじゃあ、行くね!」


 それから時を移さずして、ピッ、ピッ、ピッっと、音が鳴った、次の瞬間。

 椛音とミルルが、二人で共に過ごした、短い夏の行方が、永遠となった。



 ***



 やがて別荘を後にした椛音達は、帰りの車中で、寝息を揃って立てていた。

 車窓を叩き始めた雨の訪れを知る由もなく、二人で肩を寄せ合いながら。

 何処までも安らかで、憂いの無い、幸せそうな笑みを浮かべたままで。

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