第40話 二人で <後>


 椛音はミルルとの昼食を終えた後、しばらくしてから再び彼女と浜辺に繰り出し、水際でビーチボールを楽しんだり、湖面に浮かべたフローティングベッドで一緒にうたた寝をしてみたり、また別荘付近の湖岸から少し離れたところにある桟橋から、椛音がミルルに教えられるまま生まれて初めての釣りに挑戦してみたりと、色とりどりに輝く時間を心行くまで楽しんでいた。


 しかし、七色に煌めいた一時は空に架けられた虹のように儚く過ぎ去っていくもので、いつしか空の高くにあったはずの陽は傾き、山の稜線とそれを映し出す水鏡とが茜色に染まり始めると、椛音は肌に触れる穏やかな湖風が次第にその冷たさを増していくのを感じ、ミルルもまた名残惜しそうな面持ちを見せながらも、夜の気配を察したのか、浜から引き上げて別荘に戻ることを椛音へと伝えた。


 そして程無くして、ミルルに導かれる形で別荘にあるシャワールームへと足を運んだ椛音は、そこで彼女と共に遊びに暮れた一日の心地よい疲れを洗い落とし、その後予めミルルが用意した白いバスローブを羽織った状態でテラスへと移動し、其処で茜色の残照から紫、菫色と移り変わっていく色相の階段を、並んで眺めていた。


「綺麗だなぁ……空の色がグラデーションみたいになってて。段々と夜に近づいていくのが分かるね、ミルルちゃん」


「ええ……よいっていうやつかしら。少し物寂しい感じもするけれど、綺麗よね。ふふ、夕食ディナーはここで頂きましょうか」


 テラスのきわでは、等間隔に配置された行燈あんどんのような照明が点灯し始め、椛音達の足元を柔らかく浮かび上がらせる一方で、また複数置かれた各テーブルの中央部分からも同様の明かりが夜の訪れに備えるように、白い光が控えめに放たれていた。


「じゃあそこのテーブルに座って待っていましょうか。あとは持ってきてくれるわ」

「え? 持ってきて、くれる?」


 ミルルがバスローブのポケットから取り出したリモコンのようなものを操作すると、間もなくリビングの方から大きな銀色の球体が現れ、浮揚した状態のまま椛音達の居る場所まで辿り着くと、今度はその球体がテーブルの上に移動し、翠玉のような輝きを持った光で其処を照らすや否や、何も無かったはずの空間に種々様々な料理を乗せたプレートや食器類の一式が、まるで魔法のように描き出された。


「え……? これは、何がどうなって……?」

「ちょっと無粋だけれど、ここには物質再構築方式の転送ドローンしかなくって」

「んっと……よくは分からないけれど、何だかすごい……ね」


 椛音が改めて、テーブル上を見渡すと、彼女の目から判断するに、パセリを戴いたサフランライスを始めとして、ローストビーフやチキンフライを始めとした肉料理に、白身魚のソテーやエビを白いソースで和えたものに加え、茹でたカニといった魚介類、そして赤黄緑の色調でバランスよく彩られた野菜のサラダと、見たこともない形をしたフルーツと思しきものの盛り合わせといったものが所狭しと置かれており、また、そのいずれのプレートにも、美しい花々がアクセントとして添えられているようだった。


「よく見たら食器とかまで……あれ、ナプキンなんて、いつ膝に置いたっけ?」

「ふふ……カノンには新鮮だったみたいで、良かったわ。さ、頂きましょ!」


 そうしてミルルと共に、彼女の屋敷で出された豪勢な食事と遜色の無い絶妙な味わいが齎す、至福の時を噛み締めていた椛音だったが、彼女はその中にあってなお、何か足りないものがあるように感じ、そしてそれが何であるかをふと考え、そしてあることに気が付いた。


「あ、そっか……」


「ん? どうしたの、カノン?」


「えっと、前にね。ミルルちゃんが病院に運ばれた時、私、ミルルちゃんのお屋敷で、夕食を独りでとったことがあったんだけど……」


 椛音が思い出したのは、想いを共有できる相手が居ない、独りきりの晩餐。

 それは、食事の味を語らうことも、その日あった何気ない出来事を話すことも叶わず、ただ食器の摩擦音のみが空しく胸に響く、そんな時間のことであった。


「その時の食事も、当然おいしかったんだけど、何かが足りないなって、思ったの」


「……うん」


「ミルルちゃんは、両親の仕事があるから、いっつも独りで、こうしてたのかなって、そう考えたら……自分は、恵まれていたのかなって、感じて。気が付いたら、幸せって、一体何なのかなって、そんなことまで、考えちゃってた」


「パパもママもね、『それ』は解ってたみたいで。私にうんと甘くて、欲しがったものは何でも与えてくれた。だから、それ以上を望んだら、きっと神様のばちが当たるって思っていたわ。だけど、それでも、満たされない何かを求める気持ちが、どんどん、大きく、なっていって……いつかまた、爆発しちゃいそうな気がしていた」


 椛音はその時、ミルルのその『また』という言葉と、彼女が昔その力を学院で暴走させたという一件とが、自分の中で自然と符合したような感覚を覚えた。


「だから私、教会には足繁く通って、いつも祈っていたわ……こんな我儘な私を、どうか許して下さいって。でもそんなある日、思いがけないことが起きたの」


「もしかして、それが……」


「ええカノン、あなたよ。あなたが、現れたの。それからというもの、私には、目に映るもの全てが……まるで輝いているように見えた。もちろん、この今だって、ね」


「ミルル、ちゃん……」


「けれど、そんなあなたがもし、この瞬間に何か足りないものを感じたんだとしたら、それはきっと……あの子達が、ここに居ないことだわ」


 椛音は、そのミルルの言葉を受けて、体の奥底から伝わる脈動が一際大きくなったのを確かに感じた。


「カノン。あなたは、優しい心を持った、人だから。この、自分だけが幸せな今が、心の何処かで、許せなかったりするのかも、しれないわね」


「何だかごめん、ミルルちゃん……せっかくの、二人きりの時に……」


「全然構わないわ。ふふ……今度来た時は、皆で、おいしい食事を頂きましょ? エリスもシルファも一緒に、ね。そっちの方がきっと、もっと楽しいはずだわ」


 ミルルはそう言うと、手にしたグラスに注がれていた、葡萄ぶどう色のジュースを一息に飲み干し、また、左手の人差し指を、椛音に向けながら、

「でも、この私をしんみりさせた罰として……今夜は、そんなカノンを、私の独り占めにさせて貰うわ」

 と、決然とした面持ちで、彼女にそう告げた。


「え……? ひとり、じめ? え? えっ?」



 ***



 それからやがて、夜の帳が下りた頃、ひっそりと静まり返った湖畔には草虫が奏でる調べと、ふくろうと思しき歌声がしとやかに響き渡り、その湖面には、仄紅い月とそれに寄り添う蒼白い月とが、数多の小さな輝きが浮かぶ中で一際妖しく、そして艶やかに描き出されており、山から渡り来る涼風に時折くすぐられては俄かに揺らめき、その秀麗な輝きを躍らせていた。


「夜になると、今度はこんな感じになるんだ……」


 既に寝支度を終えていた椛音は、傍らで佇むミルルと共に、彼女の寝室から通じている広々としたベランダから、それまでとは全く違った顔を見せるクウェル湖の装いに、思わず嘆声を漏らしていた。


「ふふ……カノン。ここは、これだけじゃないの。もうすぐかしら……」

「ん……? もうすぐって?」

「直に判るわ……湖面の辺りを、よく観ていて」


 椛音が、ミルルに言われた通り、静謐せいひつな湖面をしばらく眺めていると、やがてそこから光る点のようなものが、あちこちに浮かび始めたのが見えた。


「あれ、は……?」

「始まったわよ、カノン」


 すると、輝く点だったものは、さながらつぼみが開いていくかの如く、光の花弁と共に、多数の花糸かしを緩やかに広げると、間もなくその先から蛍と見紛うような煌めきが湖面と夜空の両方に向かって、ゆっくりと舞い踊り始めた。


「わぁ……素敵……。空にも湖にも、蛍みたいな光が広がって……夢、みたい」


「あれは蛍灯花って言ってね、たった一夜で散ってしまう、とても儚い水上の花で、ああやって、煌めく花粉を風に乗せているのよ……実は、私がカノンに一番、見せてあげたかったのは、一度観たら決して忘れられない、この幻想的な光景だったの」


「そうだったんだ……ありがとう、ミルルちゃん。こんなに素敵なものを、私に見せてくれて。私、ここでこうして、ミルルちゃんと観れたこの眺めのこと、いつまでもずっと、覚えてるから」


 椛音がそう言って、眼前に広がる絶景をその目に焼き付けていると、細やかに森然と瞬く星の海原で、ほんの半秒ほど一筋の光が閃いた様が見えた。


「あ……流れ星」


「あら……ふふ。せっかくだから、何かお願いごとをしましょうよ。見えたのだから、たとえ過ぎ去った後でも、きっと効果はあるわ」


「うん……そうだね」


 そして椛音とミルルは、それぞれが自分の手と手とを組んで、それを胸元に宛がいながら、流れ星が渡っていった冴え渡る夜天の彼方へと顔を向け、そしてゆっくりとその双眸を閉じた。


(またいつかここで、ミルルちゃん達と……幸せな時間が、過ごせます、ように)


 ややあって、先にそう祈り終えた椛音に続いてその瞼を開けたミルルは、隣に立つ椛音に向かい、

「何を願ったのかは、お互い秘密にしましょ。それが実際に叶うまで……ね?」

 と告げ、月明かりに照らされたその顔は、ちょうど椛音達の頭上に広がる夜空のように優しげな微笑みに満ちていた。


 その後しばらく、椛音とミルルは、蛍灯花が魅せる美々びびしい光景を再び眺めていたが、身体が冷える前に寝床に就こうというミルルの薦めで、椛音は寝室にある白い天蓋の付いたベッドの前へと、ミルルに導かれるままに移動した。


「ねぇカノン。今夜は、私と一緒に、ベッドに入って貰っても、いいかな。その……眠るまでお互いに、手を……繋いで」


「うん、もちろん。一緒に寝よ!」


 窓から差し伸べる月明かり以外には、何の光も認められないその部屋で、その時椛音は眼前に佇むミルルの顔が、先程見えたかの流れ星のように、一瞬だけきらりと大きく輝いたように見えた。


 それからやがてどちらともなく動き出し、ベッドの中に入った椛音とミルルは、向かい合うような姿勢を見せながらお互いの手を繋ぎ、そして、重ね合わせた。


「カノン……私ね? 小さい頃からずっと、眠るのが苦手なの。だから夜が嫌いで、毎晩、早く朝が来ればいいのにって、いつもそう、思ってた」


「独りぼっち……だったから?」


「ええ。きっと、そうね。だけど今は私、この夜がずっと続けばいいのにって、そう思っているわ。朝が来るのが……怖いの」


「ミルル、ちゃん……」


「ねぇカノン、あなたは、目が覚めても、私の傍に……居てくれる?」


 椛音と繋ぎ合わせていた手の力を強めながら、少しおずおずとした調子でそう訊ねたミルルに、椛音は一度だけゆっくりと頷き、自分の手を握り締めていた彼女の手を、ぎゅっと強く握り返した。


「居るよ……ミルルちゃんの傍に。今も、眠ってる間も、それからもちろん、目覚めた後も。だってミルルちゃんは、私が底知れない眠りから目覚めた時、誰よりも近く私の傍に居て、私の名前を呼んでくれたんだから」


「ありがとう……カノン。大好き、だよ」


「私も、ミルルちゃんのこと、大好き……」


 ミルルと繋いだ手から椛音に伝わって来たものは、掴んでいなければ何処かへと離れていってしまいそうな、風に舞う羽に等しく儚げでありながらも、雪原に燈された篝火かがりびの如く誰にも分け隔てなく温もりを与え続けてくれる、何処までも優しげで暖かな光だった。


「……それじゃあ、また明日ね、カノン。おやすみなさい」


「うん。おやすみ、ミルルちゃん。また……明日」


 そして椛音は、その光から伝わる想いのかたちに身を委ね、そのまま柔らかく包み込まれると、かいをゆっくりと手繰るように、意識の水底を下っていった。


 まるで全てを忘れたように穏やかで、無垢な色を湛えた顔を、したままで。

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