第39話 二人で <中>


 椛音とミルルの二人が、湖岸から少し離れた地点に浮かぶ小島に辿り着いてしばらくした後、彼女達が仰いでいた青空が途端に黒々とした雲に覆われ始め、やがて辺りの湖面がその色を変えながら俄かにざわつき始めた。


「あら……通り雨、かしら? カノン、あっちの木陰で一休みしましょう」


 そして二人は、近くに見えた一際大きな木の陰に背を預けながら、其処で共に腰を寄り添わせる形で一旦雨宿りをすることになった。


「もし降るなら午後を過ぎた辺りかなって思っていたけれど、少し早かったわね。でもきっとすぐに止むはずだわ。けどカノン、こういう想定外も、悪くないわよね」


「ふふ、そうだね。それにこうして雨宿りをするのも、何だか随分と久し振りな気がするよ」


 それからその雨足は、二人の頭上にある枝葉を次第に強く叩き始め、さらにその彼方に広がる鉛色に染まった空からは、遠雷の訪れを知らせる便りが伝わって来た。


「あ、ミルルちゃん、ここ、雷は大丈夫かな?」


「心配要らないわ。雷は小さい頃から、ずっと私の傍にいてくれた、友達みたいなもの、だからね。今となっては、魚にとっての水と何ら変わらないわ。それでもまだ少し怖いなら、ふふ……私の傍から離れないことね」


「ん……じゃあ、しばらくこうして、くっ付いていようかな」


 そうしてミルルと肌を重ね合わせた椛音は、上から降ってくる樹雨きさめに時折その肩を叩かれながらも、彼女から伝わってくる仄かな熱を確かに感じながら、心なしかその温度が少し高まっていくような感覚を覚えた。


「そういえば、ミルルちゃんって、小さい頃から雷を操っていたの?」


「ええ、エスフィーリアの中でも珍しいみたいだけど、私の一族は代々、瞑力を雷へと変化させる能力に恵まれていてね。私、小さい頃から両親が仕事の関係で家に居ないことが多かったから、よく独りで雷と遊んでいたの」


「雷と、遊ぶ……?」


「だけどね。学院の初等科に入って間もない頃、私の力が暴走しちゃったことがあって……それが校舎の一部を破壊して、庭にあった花壇も焼いてしまったの。その時にきっと、恐怖を覚えたんだろうと思うんだけれど、次第に皆が、私を避けるようになったの。だから私も、一時期は、この力を封印してたことがあったんだ」


 椛音はその時、学院で自分が、他の生徒から質問攻めにあった際、ミルルの放ったたった一言で、雲を霞と去っていった彼女達の姿をふと思い出し、どうやらその反応は、ミルルが暴走した時の光景を、見聞きして知っている人間だったからなのかも知れない、と椛音は直感的に思った。


「実際、学院の先生たちにもこっぴどく叱られたけれど、セラフィナ先生だけは違ったの。私のその恐ろしいと評された力を、素晴らしいと言って褒め称え、他の先生達を説得した上で、この私を、先生が受け持つクラスへと迎え入れてくれて。そしてそこで私に、力の制御方法を、手取り足取り徹底して、教えてくれたわ」


「そう、だったんだ……それでミルルちゃんは、セラフィナさんのクラスに……」


「ええ。先生の教え方はとっても厳しかったけれど、おかげで私は、この力を自分のものとすることが出来たの。それから私は、それまで自分が雷と遊んでいたんじゃなく、雷に遊ばれていたんだってことが、初めて分かったのよ」


 そう言ったミルルは、依然として空の彼方で轟く唸りへと向けているのか、少し遠い目をしながら、

「ただ、最初に離れてしまった皆との距離は、その後も、中々縮まらなくってね。全く……私は、こんなにも慈愛に満ち溢れているのに、ひどい話でしょう?」

 と二の句を継ぎ、その口元を俄かに綻ばせた。


「……だけどセラフィナ先生の言ったことは、本当だったね。だって私、そのミルルちゃんの力で、危ない所を助けて貰ったんだもの。あの時、ミルルちゃんがもしも居なかったら、今ここでこうしていることはきっと、出来なかったと思う」


「ふふ……それなら、良かったかな。たとえ他の人を遠ざけてしまっても、カノンを救えたのならそれは、私にとって、万々歳だから」


「なら私は、他の人がどうであっても、ミルルちゃんの友達でいるね。これからも、その先も……ずっと」


「ん……ありがとう……カノン」


 目を閉じたまま微笑むミルルの頬にはいつしか、滴り落ちる雨粒に加えて別の煌めきが自然と入り混じり、それがその首筋にまで伝う頃には、斜めから急に差し込めてきた陽光を受けてそのまま露と消えて行った。


「あ、雨が上がっていくみたいだよ、ミルルちゃん」

「……ええ、そうね。やっぱり、ただの通り雨だったみたい」


 そしてやがて雨雲が過ぎ去った後、元の輝きと静けさとを取り戻した湖面には、揺らめく七色の彩りが穏やかに揺らめきながら燦然と映し出されていた。


「見て、ミルルちゃん。虹が架かってるよ! とっても綺麗、だね……」

「うん、本当に。いつかカノンが見せてくれた光を、また見ているみたい」


 それからどちらともなく立ち上がった椛音とミルルは、一度だけ互いを見合うと、湖岸から山稜の向こう側にまで架かる七色の橋に、揃ってその顔を再び向けた。


「さぁて……それじゃあ休憩が終わった所で、あの虹の根元まで……また競争!」

「あっ、ミルルちゃん! 疲れてたんじゃ、無かったの?」

「カノンのせいで、元気になっちゃった! ふふふ!」


 ミルルは、先程まで見せていた表情が嘘のように弾けるような笑みを湛えながら、椛音に声だけを残して砂浜の方へと駆け出して行き、そのまま水中へと飛び込むと、まるで水を往く若魚のように活き活きとした様子で泳ぎ始めた。


「もう! また先に行っちゃうんだから!」


 それを見た椛音も、ミルルの後をすぐに追うようにして湖面へと身を投じ、今度こそ追い抜いてやろうと全力を振り絞って、行く手を阻もうとする水を掻くと共に、その脚を力強く上下に動かして猛進した。


 結果、椛音は怒涛の追い上げを見せ、今度は目標の湖岸にミルルよりも一足先に辿り着き、そのまま波打ち際へと仰向きに倒れ込んだ。


「ぜぇ、はぁ……やっ、た……、ミルルちゃんに、勝ったよ!」


 そうして椛音の到着から遅れること数秒の後、爆ぜる水面から姿を現したミルルが、その足元をふらつかせながら、先着していた椛音のもとへと歩み寄って来た。


「カ、ノン……はや、すぎ……でしょ……! 私……もう、ダメ、だわ」

「え……えっ……? その、ミルルちゃん、ちょっと待っ――」


 次の瞬間、ミルルは、カノンの身体に覆い被さるようにして倒れ込み、両者の顔は、まさに目睫もくしょうの間にまで迫ったところで、辛うじて留まっていたかのように見えた。ただ唯一、偶然にも再び交わってしまった、柔らかな繋がりだけを除いて。


「う……あ……」

「ん……え? う……あっ! ご、ごめんなさいカノン!」


 その不測の事態に、数秒遅れて気が付いた様子のミルルは、矢庭にその身体を椛音から離すと共に横へとずらし、時を移さずして、カノンの左隣へと落着した。


「えっと、その……カノン、今のは本当に、ごめんなさい……」

「う……うん、ある種の、事故みたいな、ものだよね……大丈夫」


 それから二人の間には、何とも形容し難い微妙な空気と、穏やかな波の音だけがしばらく流れていたが、やがてミルルがその沈黙に耐えかねたのか、椛音よりも先に、その静寂を切り裂いた。


「そ、そうだ。もうお昼時だし、私、別荘から食べる物と飲み物を取ってくるよ! 先にあっちの白いビーチチェアに座って待っていてね!」


「あ、うん! ありがとうミルルちゃん」


 ミルルが別荘の方に去った後、独り残される形となった椛音は、その唇に右手の人差し指を当てながら、まだ其処でほんの微かに生きている、まるで体が蕩けてゆくような感覚の残滓を思わず自身の脳裏に描き出していた。


「し、ちゃった……間接じゃない方、の……」


 その感覚は、先に椛音が心肺停止状態に陥った時、ミルルが蘇生措置として止む無く口伝いに瞑力を注入した際にはまだどこかおぼろげなものであったが、今しがた感じたそれは、その時よりも遥かに大きな拡がりとなって椛音を包み込んでいた。


「あぁ……あ、恥ずか、しい……!」


 椛音は、両手で自身の火照ったように熱い顔を覆いながら、その身を左右に往来させ、体の奥底から炎の如く迸り高まる温度を、何とかして発散しようとしていた。


 ややあって、ようやく椛音が白いビーチテーブルの脇に置かれたチェアに腰かけ、どこか恍惚とした面持ちで眼前に広がる緩やかな湖面をしばし眺めていると、その傍らからクーラーボックスのようなものを携えたミルルが、飄忽ひょうこつと現れた。


「お待たせ、カノン。ちょっと早いかもしれないけど、お昼ランチにしちゃいましょ」


 ミルルはそう言って、そのクーラーボックスと思しき箱から、青くふちどられた食器を取り出し、それを粛然とした様子で一通り並べると、次いで料理が載せられた大き目のプレートを白いテーブルの中央に置いた。


「わぁ、これはサンドイッチとポテトかな?」

「ええ、午後もちょっと遊びたいから、少し軽めのものが良いと思って。色々あるから、遠慮なく食べてみて」


 それから椛音が手にしたサンドイッチの断面には、恐らくトマトやキャベツに相当する野菜と、ハムとチーズと思しきものがふんだんに詰め込まれていて、それらを擁するパンの生地もまた、ふわふわながらしっかりと練り込まれた様相を呈しており、椛音が試しに一口ほおばってみると、その口内で様々な味わいと歯ごたえが見事な饗宴を開き、彼女は早速の舌鼓を打っていた。


「ん! うぉいしい……!」


「ふふ……それは何より。グラスには、この辺りで取れるフルーツから搾った果汁そのもののジュースを入れておくわ。きっと気に入ると思うから、飲んでみてね」


 そしてミルルに勧められた菜の花色に輝くジュースを口に入れると、仄かな甘みと適度な酸味とが口内だけに留まらず鼻腔にも達し、越した後の喉を爽やかに潤した。


「ふぁ……こっちもすごくさっぱりしておいしいね!」

「でしょ? 私もこれ大好きなの。さ、この大きな湖と青い空とを二人占めにしながら、お昼を存分に楽しみましょ!」

「あはは、二人占めって何だか面白い。でも本当、ここに来れて、良かったな……」


 見渡す限りに広がる青と蒼に包まれながら、優しい薫風の訪れが頬を擽る一方で、水鳥の歌声が耳に心地よく伝わって来る。そんな二人きりの昼下がり。


 椛音は、白と水色の二色で彩られたビーチパラソルの陰から、燦々と照りつける太陽を遠くに見やり、ようやく手にすることが叶った怖い程の幸せに満ち溢れる極めて平穏な一時ひとときを、傍らに座すミルルと共に心から満喫していた。

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