第38話 二人で <前>


 椛音が退院した翌日の朝、すっかり元気を取り戻していた椛音は、ミルルと共に市内から出ているバスを利用して、山間部にあるというクウェル湖の畔に立つミルルの別荘へと向けて移動を開始した。なおその日は、ちょうど椛音の元居た世界でいうところの土曜日に相当することもあり、別荘には一泊二日の滞在予定である。


 なお、敢えてバスを利用したのは、移り変わる風景を楽しみながら、目的地にゆっくり向かおうというミルルの考えによるもので、また彼女によって事前に伝えられていた通り、その路線は利用者数が少なく、車内はほぼ貸し切り状態であった。


 それから四半時余りの間に、窓から見える緑はその濃さと深さとをより増していき、椛音達の居た街がいつしか、遥かその眼下にまで遠のいて見えていた。また、鬱蒼と生い茂る山林に覆われて、はっきりとは見えないものの、今バスが通っている崖沿いの道下には、どうやら川が流れているらしかった。


 そしてやがて椛音が、目的のバス停で降車すると、途端に夏木立なつこだちから漂う冷涼な空翠くうすいが彼女の鼻腔を心地よく通過し、彼女は思わず両腕を横に伸ばしながら深々と息を吸い込み、その嵐気らんきを体一杯に満たすと、それをゆっくりと吐き出して見せた。


「はぁ……すっごく清々しくて、おいしい空気……」


「ふふ、とっても澄んでいて気持ちがいいでしょう? 別荘はここから続く山道をちょっと歩いた所にあるから、この緑を楽しみながら、ゆっくり歩きましょ」


 そうして椛音は、ミルルのすぐ後に付いて舗装されていない山道を緩やかに歩き始めた。その道中、すれ違うものは、姿の見えない山鳥のさえずりと、遠くの細流せせらぎを運ぶ風の声ばかりで、他は時折、足に触れた古枝が、小さな軋みを上げるのみだった。


 そのまま歩くこと約十五分、木々の枝葉をしてまだら模様に落ちていた陽光がお互いに連なり始め、点から面へと変容すると、それに呼応するかのようにここまで連綿と続いていた叢林そうりんが急に開け始め、椛音はその先に明らかに人の手が加わった、建造物と思しきシルエットを捉えた。


「あ……見えて来たわ、もうすぐよカノン!」


 間もなく椛音の眼前では、やや苔むした石組の上に佇む赤い煉瓦れんがで造られた洋館が瀟洒しょうしゃな装いを見せ始め、一足先に歩を進めていたミルルが、同じ煉瓦で築かれた館の玄関へと続く階段の中腹から、椛音に手招きをして見せた。


「さ、こっちよカノン! 中に入りましょ」


 館の中は全体的に開放感がある吹き抜けの構造で、広々としたリビングはテラスと連続していて採光が良く取り入れられており、そしてまたそのテラスの向こう側では、青々と広がる空の下、見渡す限りの一面が緑の帳に包まれているようだった。


「わぁ……これが、クウェル湖なんだ」


「ふふ、嘘みたいに綺麗な場所でしょう? といっても、このまま入るわけにはいかないから……その前に、着替えなくっちゃね!」


「あ、そういえば水着、ミルルちゃんは心配いらないって言ってたけど、本当に街にあるお店で買わなくて良かったの?」

「問題ないわ。今年分は既に用意してあるから、今から上にある部屋で選びましょ」

「え? 今年……分?」


 程無くして椛音が二階の一室に通されると、其処にはまるでデパート内に設けられた専用コーナーのように、所狭しと置かれた水着が様々な彩りを見せている光景が広がっていた。ミルル曰く、其処は水着専用の衣裳部屋であるという。


「これだけあれば、カノンも困らないでしょ? さぁ、どれでも好きなのを選んでね! 私は、どれにしようかな……」


「今年分って、こういうこと、だったんだ……これ一体、何着あるんだろう……?」


 椛音は、整然と陳列された水着の海を巡りながら、何度か手にとっては戻したり、左右に持っては見比べたりを繰り返し、その中でやがて目ぼしい一枚を見つけた。


「うぅん、これなんて良い、かな……?」


「カノン、もし良さそうなのが見つかったなら、あっちに試着スペースがあるから、そこで試しに着てみるといいよ」


 そしてミルルに指し示された試着室に入った椛音は、早速手にしていた水着に着替えると、傍らに据え付けられていた姿見で、自身の水着姿を確認した。


 濁りの無い純白の輝きを見せる布地には、椛音の動きに合わせて蝶のように飄揺ひょうようと踊るフリルが上下共、幾重にも渡ってふんだんにあしらわれ、その胸元とボトム部分の左前側には、薄いピンク色をした少し大きめのリボンが可愛らしく揺れ舞っていた。


「はは……ビキニなんて着るのは、初めてだけれど、ちょっとこれは甘過ぎだった……かな? でも見るのはミルルちゃんだけだし……うん、これにしよう」


 椛音がそう言いながら試着室を後にすると、間もなくそれに合わせるようにして、ミルルが隣のスペースから姿を現した。


「あら、カノン! 白にしたのね! ふふふふ、とぉっても可愛いわよ!」


「そう……かな? へへ……ミルルちゃんは、黒にしたんだね。その綺麗な髪の色とも合わさってて、とっても良く似合ってると思うよ!」


 ミルルもまた、椛音と同様にフリルに彩られた黒いビキニを着用していたが、その胸元とボトムの後ろ側には、一際大きな白いリボンが配されており、さらにボトム側のそれからは、童話に登場する妖精の羽を写し取ったように、半透明でありながらも星の海が瞬くように光るラメの織り込まれた布地が、華麗に棚引いていた。


「ふふ、ありがとうカノン。それじゃあ早速だけど、行きましょうか!」

「あ……」


 するとミルルは椛音の手を取り、優しく導きながらも弾むような調子で歩き出し、そんな彼女を見た椛音も心が少し湧き踊るような感覚を覚え、二人は手を繋いだままリビングと連続するテラスへと赴き、さらに其処に設けられた階段から、湖に繋がる誰も居ない砂浜へと繰り出した。


「あ、水に入る前に準備運動をしなくっちゃ」

「えっと、あのプールに入る前にするみたいな?」

「そうそう。何なら、私の後に続いて真似をすればいいわ」


 そして椛音は、ミルルの見よう見まねでその動きを模倣しようとしたが、それがどうにもミルルの目にはぎこちなく見えたようで、彼女は急に笑い出した。


「あはは、カノンったら、何だかおっかしいの……ははは!」


「ええ……! ミルルちゃんの真似してる、だけなのに? もう、きっとミルルちゃんの動きがおかしいんだよ」


「ふふふふ……ごめん、ごめん。ここからはもう少しゆっくりやるから」


 それから程なくして入水前の柔軟を終えた二人は、次いで近くに設置されていたシャワーを浴び、その身体を水に慣らした。


「さてと、これで準備よしかな」


「あ! カノン、あんなところに日焼け止めがあるよ! あれ塗りっこしない?」

「あれ、本当だ……うん、いいけど……あれっていつから置いてあったんだろ?」


 シャワーのすぐ近くにあった日傘付きの白いビーチテーブルセットには、いつの間にか日焼け止めクリームの他にも、ビーチボール等の備品が幾つも置かれていたが、それらはつい先ほど誰かがセッティングしたかの如く、そのいずれもが計ったかのような位置取りの上に配置されていた。


「ふ、ふふふ……あはは、く、くすぐったい!」

「もうカノン、そんなに動いたらちゃんと塗れないから、じっとしていてね?」

「そ、そんなこといったって、ふ、ふふふふふ……!」


 椛音は、ミルルの手で身体に触れられるのが妙にくすぐったく感じ、身悶えながらも必死にこらえていたが、どうにも内から湧き上がる笑いを抑えることはできず、またしばらくの後、交代して塗られる側になったミルルも、椛音がそうであった時と同様に笑い声をあげながら、その身体を右へ左へと代わる代わるによじらせていた。


 そしていよいよ全ての準備を終え、浩然たる深碧の水鏡を前に凛然と立った二人は、やがてどちらからともなく勢いを付けて砂浜の上を駆けだし、その湖面に描かれていた翠巒すいらんの倒景を跡形も無く蹂躙じゅうりんした。


「きゃぁ! 冷たぁい!」


「あはは、本当に氷水みたいだね、カノン! ふふ、うりゃうりゃぁ!」


「うひゃぁ! ちょ、ミルルちゃ……冷たい、冷たいってば! んもう……私だって、こうなったら、ただじゃ、おかないんだから!」

「うわっ、はは、これは! 怒ったカノンの逆襲ね! あははは!」


 清冽な水面みなもから、激しく弾き出された水鞠みずまりが、二人の間を幾度と無く飛び交い、彼女達の周りには数多の細やかな波紋が生み出されては重なり合い、そこから漾々ようようとした流れを方々へと伝える一方で、静寂を湛えていた風の色には何時いつしか、二人の黄色い声が波颪なみおろしとなって、其処に新たな彩りを添えていた。


「ふふふ……あっ、そうだカノン、あそこに島があるんだけど、分かるかしら?」

「え、島? んと……あ、あのちょっと、林みたいなのもあるとこ?」

「そうそう。ね、二人であそこまでひと泳ぎしない?」


 椛音達の居る場所から少し遠くに見えるその島までは、椛音の目測からして約二百メートル程はあったが、椛音自身は泳ぎにはやや自信があったため、現在地から其処に行って帰ってくるぐらいは難なくこなせるように思えた。


「うん、大丈夫だよ。私こう見えて、それなりには泳げるんだ」

「あら、そうなの? それじゃ、あの島まで……競争よ!」


 ミルルはそう言うや否や、自身の長い濡羽色ぬればいろの髪を瞑力を用いたのか指先一つで一息に束ね上げて見せると、そのまま勢いよく泳ぎ出し、椛音との距離を見る見るうちに伸ばし始め、その時ちょうど近くの湖面を悠然と渡っていた幾羽かの水鳥がその余波を受けて、蜘蛛の子を散らしたように飛び立っていった。


「あっ、ミルルちゃんずるい!」


 次の瞬間、それを追うようにして水中に飛び込んだ椛音は、彼女に負けじと猛烈な勢いを以って泳ぎ出し、次第にその距離を縮めながらミルルへと追いすがったが、結局のところ最初に開かれていた差が最後に足枷となり、僅差ながらも一足先に、目的地である島へと辿り着いたミルルの方に軍配が上がることとなった。


「はぁ……はぁ……カノン、あなた、そこまで、速かった……のね」


「ちょっとだけ、自信、あったから……ね。帰りは、負けない、から!」


「え……帰りも、競争、するの? わ、私は、パスだわ。瞑力で、身体を強化していないと、思った以上に、疲れる……ものね」


「えっ、まさかミルルちゃん勝ち逃げ……? 本当、ずるいんだから!」


 全力で島まで泳いだ二人は、相次いで砂浜の上に丁字を描くようにして倒れ込み、何処までも果てしなく広がる蒼穹を揃って仰ぎ始めたが、東に見える尾根から黒々とした雲が迫りつつあったことに、椛音達はまだ気が付いていなかった。

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