終章 夏の終わりに

第37話 それから


「ん……ここ、は……?」


 エピストゥラの医務室で眠ってしまっていた椛音がふと目を覚ますと、その眼前には医務室のそれとはまた趣が異なる白い天井が広がっており、次いで辺りに目を配ると、近くの棚の上には幾つもの色鮮やかな花々が花瓶に入れられた状態で飾られ、さらにその向こう側では、大きく横に伸びた窓から青い空が覗いていた。


「あれ、ここはひょっとして、病……院?」


 椛音は自分がどれ程の間眠っていたのか判らなかったが、先程まで空に遍く広がっていた七色の彩りは既に其処には無く、また彼女がベッドから身を起こして窓際まで歩み寄ったところで見える限りの空を仰ぐと、天に座す太陽の位置が心なしか、船から見えた時よりも高いように彼女には感じられた。


「まさかあのまま、一日ぐらい眠っていたとか……? でもそれは流石にないか」


 すると椛音が居た部屋のドアが微かな音を出しながら独りでに開き、其処から聞き覚えのある声が彼女の耳に入り込んだ。


「あら、カノン……! ようやく、目が覚めたようね」


 椛音が、反射的に声のした方へとその目を向けると、其処には巻かれた桃色の髪を螺旋状にふんわりと巻かれた状態で左右に垂らし、また鷹のように鋭いとび色をした輝きを両の目に輝かせ、そして紺瑠璃のローブにその身を包み込む紛う方ない、セラフィナの姿があった。


「セラフィナさん……戻られたんですね!」


「ええ……あなたには、この上なく情けない姿を見せてしまったばかりか、私のあずかり知らないところで、我が身をかえりみない決断までさせてしまったようね……本当に、何と詫びれば良いのか、言葉が見つからないのだけれど……ごめんなさい」


 セラフィナはそう言うと、椛音に対し、深々とその頭を下げて見せた。


「そんな……セラフィナさんがああなったのは、何というかその、不可抗力みたいな、ものだと思いますし、それに、私がああいう決断をしたのは、誰に言われたわけでもなく、自分がそうしたいから、そうしたまでなんです。だからセラフィナさんは、全然悪くなんてなくて……とにかく、その頭を上げてください」


「いえ……あなたを連れ出した身としては、完全に私の失態だった。きっと私が、自身の力を過信していたせいよ。結果的には、全て良い方向に流れてくれたけれど、一歩間違えれば、全てを失う、ところだった……本当に、申し訳、なかったわ」


 椛音は、尚もその下げた頭を戻そうとしないセラフィナのもとに歩み寄り、その手を彼女の身体に宛がいながらその折れていた背中と垂れたうなじとを、ゆっくりと元の位置へと戻していった。


「もう、十分ですから……それより、えっと……今の状況がどんな感じなのか、教えて貰ってもいいでしょうか?」


「そう、ね……少し長くなるだろうから、そちらの椅子に腰かけて、話しましょう」


 セラフィナによると、椛音はエピストゥラの医務室で意識を失った後、瞑力の大半を消失した反動から延べ二日間に渡って深い眠りに落ち、その間心配になったミルルが、面会時間のぎりぎりまで見舞いに訪れていたという。


 また精密検査の結果、椛音の身体機能には全く異常が見られなかったものの、瞑力が著しく低下しているため、飛行術の類やデーヴァとの念話といったものもしばらくは行えないだろうとのことだった。検査の際、椛音が持つ瞑核の形状に、担当医師は以前のノエルと同様に吃驚したらしかったが、後に訪れたセラフィナが説明を行い、その辺りの事情を巧妙にぼかした様子だった。


 なおセラフィナは、椛音が眠っていたその二日間の間に、エレナが起動した古代機巧アルカナである囹圉の籠絆リゴ・ルベルタスから無事生還を果たし、程無くしてミルルの話や、シルファが保持していた記録メモリーを参照して、ここに至るまでの詳細な経緯を知ることが出来たのだという。


 一方、セラフィナが派遣した先遣隊が向かった『瓊葩の荘園センティフォリア』から、ユベールが企図したと思われる持つ者イネイトへの大規模な反抗計画に関する資料や遺伝子標的型ウイルスのデータ、そして未知の古代機巧を復元するための草案が多数発見されたことで、彼の目的を完遂することへの執念が其処で明確に示されたとのことだった。

 加えて、もしもエリス達からの助力が得られていなければ、施設全体に仕掛けられていた爆破装置により、先遣隊諸共全てが亜空間の藻屑になっていたという。


 それからそのエリス達は、ユベールの計画にくみしていたことで、間もなく裁判にかけられることとなるものの、彼女達がそうせざるを得なかった背景や期待可能性、そしてその年齢や生い立ちに関する事情だけでなくセラフィナに協力したこと等も斟酌しんしゃくすれば、情状酌量の余地が十分にあると考えられ、それ程までに重い罪には問われないだろうと、推察ができるとのことだった。


 そして最も重要な事柄として、椛音が最初に転移してきた場所における空間の分析がここにきて終に完了し、転移元の次元階層と空間座標が特定されたため、これから椛音が帰還しても問題がないように、アルカヌムが擁する異界管理部オムニスという異次元間の問題を専門に取り扱う部署から特殊処理班バウドゥラーと呼ばれるチームが先んじて転移元へと派遣され、現在その障害となる要素を処理している途中だという。


「あの、障害、っていうと……?」


「椛音が元居た世界の方でも、こちらとほぼ同じだけの時間が流れてるの。つまり、今頃あちらでは、あなたが行方不明者となり、世間にもニュースとなってその状態が伝えられている光景が、何となく想像できるでしょう?」


「あぁ……私、最初にその心配をしてたこと、すっかり忘れてました……」


「まぁ、彼等はその道のプロだから、あなたがあちらに戻る頃には、全ての辻褄が噛み合うように巧く修正されていると思うわ。普通はやってはならないことだけれど、今回のようなケースにおいては特例として、認められているから、心配は無用よ。あぁ、あとそれから、もう一つ――」


 セラフィナはそう言って、椛音がミルルの屋敷に置いたままだったスマートフォンを懐中から取り出し、二人の間にある小さなテーブルの上へとそれを置くと、そこから立体モニターを呼び出し椛音の眼前へと表示して見せた。


「ミルルからビデオレターを預かっているの。早速、再生するわね」


 すると椛音の目の前に浮かんでいた立体モニター上に、ミルルの姿が映し出され、彼女は録画が正しく行われているのかどうかを確かめるような素振りを見せながら、何度か細かく咳払いをした後にゆっくりと言葉を紡ぎ出した。


「えっと……おはよう、カノン。もう、体の具合は大丈夫、かな?」


「ふふ、ミルルちゃん……」


「先生から聞いたよ。カノンが元来た世界の場所が判ったって。だから、もうすぐしたら、カノンとは一旦お別れ……だよね。そこで、ね? カノンがあっちに帰っちゃう前に、私、カノンと二人で行っておきたい所があるの」


「行きたい所……あ、ひょっとして――」


「クウェル湖ってとこ。前に話したの、覚えてるかな? 山の中にとっても大きな湖があるんだけれど、その畔に別荘があるの。だから、そこで一緒に、水遊びでもどうかなって思って。水が冷たくて気持ちいいし、あまり他の人と出くわすこともないから、私達の貸し切り状態になるんじゃないかな……きっと楽しいよ! 詳しいことは会って話すから、良い返事を期待して、待ってる! それじゃあまた、後でね」


 椛音はその地名に聞き覚えがあった。それは以前、ミルルの買い物に付き合った際、街へと向かう道中の車内で彼女が口にしていたことがあったからである。


「なるほど……確かにあそこなら、あまり人は来ないわね。人気ひとけの多い近くのプールや海へ行くよりは、ゆったりとした時間が過ごせると思うわ。それにきっと、二人きりでしか出来ない話も、あるだろうから」


「……はい、あっちに戻る前に、話しておきたいこと、いっぱいあるから……ぜひ、行きたいです。ミルルちゃんは今、学院ですか?」


「ええ、でも夏期休暇直前で、授業はお昼までだから、きっとこのあとすぐ、あなたに会いにくるはずよ。だからあとは二人で、ね」


 セラフィナはそう言うと、やがてゆっくりと立ち上がり、

「それじゃあ私はこれで。この端末は、このままあなたに返しておくわね。湖でなら、写真を撮って貰っても差し支えないわ」

 とだけ告げ、そのまま病室を後にしようとしている様子だった。


「セラフィナさん、もう戻られるんですか?」


「ふふ、あとは水入らずの方が良いわ。それに、私にはこれから、色々と調べなくてはならない事柄があってね……溜まった毒を、洗い落さないといけないのよ」


「あの、私で何か、お手伝いできることがあれば――」

「ありがとうカノン。でも今はまだ、それには及ばないわ。あなたの、その濁りの無い気持ちだけで十分よ。ではまた、後で連絡するわね」


 そしてセラフィナは、右手の人差し指と中指とを絡めた形を椛音の方に示すと、その指先の跡を宙に遺して、間もなく開かれた病室のドアの向こう側へと歩き出し、颯爽とした風姿を見せながらその背中を軽やかにフェードアウトさせていった。


(今のは……どういう意味なんだろ? あとでミルルちゃんにきいたら解るかな)


 それから小半時程の間、椛音は自分のスマートフォンに触れ、カメラ機能の動作を確かめたり、減らないバッテリーの数値を不思議そうに眺めたりしていたが、不意に病室のドア上部に据えられた照明が緑色に点灯し、何度か明滅を繰り返した。


「カノン、来たよ! 入っても、いいかしら?」


「あ、ミルルちゃんだ……どうぞ!」


 すると制服姿のミルルが、病室に入って来るなり、弾けるような笑顔を湛えながら少し駆け足気味に椛音のもとへ歩み寄ると、椅子から身を起こした椛音の身体に臆面も無く抱き付いた。


「わっ、ミルルちゃん」

「……心配、したんだから。あなた、二日間も、眠っていたのよ……? もしもこのまま目を覚まさなかったらって考えたら、本当に、どうしようかと……」


 ミルルの顔はちょうど椛音の左肩の辺りにあり、彼女はその鼻を啜りながらその頬に涙を伝わせていたが、椛音は再会の嬉しさを噛み締める反面、彼女から芬々ふんぷんと薫る何とも芳しい香りに包み込まれ、俄かに恍惚とした表情を浮かべていた。


(ん……ミルルちゃん、とっても、いい香り……)


「すん……って、私が泣いてちゃ、だめだよね。ごめん、カノン」


「あ……ううん、大丈夫。それだけ、私の事を心配してくれたのが、分かるから」


 制服のポケットからハンカチを取り出したミルルは、それで一頻り涙に濡れた顔を拭うと、椛音に向けてその顔を再び明るく輝かせた。


「それじゃ早速だけれど……例の答えを聞いてもいい?」


「ふふ、それならもちろん、答えはイエスだよ! 行こう、その湖に」


「カノンならそう言ってくれると思っていたわ! このあと簡単な検査を終えたら、午後にはもう退院できるらしいから、今日は一緒にお屋敷まで戻りましょ」


 椛音からの二つ返事を受け取ったミルルは、見るからに上機嫌といった感じでその身体を軽く躍らせていたが、椛音はそこでふと彼女が来たら尋ねようとしていたことを思い出した。


「そういえばミルルちゃん、セラフィナ先生が帰る時にね、指をこんな風にして見せてたんだけど……どういう意味か知ってる?」


 そして椛音が、人差し指と中指とを絡むように交わらせた形を手で作って見せると、ミルルはすぐに細かく頷きながらその口元を綻ばせた。


「ふふふっ、それは普通、結婚した人達に送る、お幸せに……って、意味だよ!」

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