第32話 雨が降る、その前に
「う……う……嘘だぁぁあああ!」
「しかし何とか輸送船に乗り込んで、ウイルスを処理してしまえば……!」
「
「まさか、エリスちゃんの妹を……殺す以外に、方法はないっていうの……?」
「エリス……シルファ、そしてカノン君。現実とは、かくも、残酷なものだ。いつも勝手に、人の前に現れては、二度とは選べない選択を、迫る。君達がこの後、どんな答えを見せるのか、私にはもう、知る術がないが……な」
すると突然、ホール全体が激震に見舞われたように大きく縦に揺さぶられ、方々の壁面が異様な軋みをあげながらその内容物を吐き出し、天井を覆っていたパネルもまた次々と剥がれ落ちては、瓦礫と土砂とを地面に間断無く降らせていった。
「私の総ては、此処で
そして次の瞬間、ユベールの身体は上から滝のように降り注いだ複数の巨大な残骸によって埋め尽くされ、彼の声が再び其処から発せられることは無かった。
「ユベール!」
「彼はもう……どのみち、助からなかった。でも最期に聞こえた彼の声色は、人が言うところの、穏やかな、形をしていたんだと思います……さぁ、今はここから、脱出しましょう。エリスは、私に任せてください」
「……うん、分かった。ユベール……私は、必ず、救ってみせるから」
「よし……カノン! エレベーターシャフトに通じる扉は、瓦礫で塞がれているけれど、私が全てこの大槌で吹き飛ばすわ! ちょっと後ろに下がっていて!」
ミルルは、椛音達が後退したのをその目で確認すると、その手にした大槌を振りかぶり、其処に瞑力を集中させると、間もなくその蓄えた莫大な勢力を山積した瓦礫へ向けて、一気に解放した。
「
するとミルルの一撃によって跡形も無く吹き飛ばされた瓦礫の山から、エレベーターシャフトに通じる穴が、白煙の切れ間からゆっくりと覗いた。
「さぁ、穴は開けたよ! ここから上に行こう!」
ミルルの呼びかけに応じて、椛音はホールを後にしようとしたが、その時彼女は、床に両膝を付けたまま呆然とした面持ちで、パネルの抜け落ちた天井を仰ぐエレナの姿を、その双眸の中に捉えた。
「……放っては、おけない」
そして椛音は、時を移さずしてエレナの下へと駆け寄り、彼女の腕を自らの肩に回すと、その格好のままで空中に浮かび上がった。
「じゃあミルルちゃん、シルファさん、ここから何とかして脱出しよう!」
それからミルルを先頭に、エレナを担いだ椛音、エリスを抱きかかえたシルファ、と続き、各々が浮揚した状態のまま、エレベーターシャフトの中へと進んだ。
「待ってください、ミルル」
「シルファ? 急がないと、時間が無くなっちゃうよ?」
「このシャフト内には、まだセキュリティが生きているかもしれません……ほんの少しの間、エリスを看ていて貰えますか?」
シルファはそう言ってエリスの身をミルルに預けると、暗澹と広がる空虚な闇を見上げながら右の掌に紫の煌めきを燈す灯花を芽吹かせ、彼女が其処にゆっくりと息を吹きかけると、花弁のような光の粉が上方へと向けて軽やかに舞い踊り始めた。
そして程無くして、その散り花の流れが、紅黒い閃きのような光線を何もないはずの宙空に幾筋も浮かび上がらせながら粉々に砕け散っていった。
「あの、一瞬見えたものは……レーザー……なの? シルファ?」
「これは……
シルファはミルルにそう返すと、間もなくその両手の掌に瞑力を集中させ始め、其処には先程よりも大きな灯花が生み出され、より一層強い煌めきを放っていた。
「私はしばらくここから、瞑力の奔流を放出し、あなた達の眼にもあれが見え続けるようにしてあげます。だからどうかその間にこのシャフトの一番上にまで昇り、次の出口を確保して来てください」
「でもシルファ……ここに居たら、あなただって危ないんだよ……!」
「危険は承知の上ですが、時間の無い今はこれが最善策です。さぁ、早く!」
それぞれに人を抱えたミルルと椛音に対してそう言い放ったシルファは、その手から花吹雪のような奔流を生み出し、それをシャフト上方へと放射し始めた。
「ミルルちゃん、行こう!」
「分かったわ……シルファ、あっちに着いたら、私が合図になる光を上から燈すわ。だからあなたも必ず、後で来なさいよ!」
「ええ、必ず。さぁ、行ってください」
そうしてシルファの下を後にした椛音達は、大きく震えるシャフトの最上部を目指して、さながら蜘蛛の巣の如く複雑に張り巡らされた糸の間を縫うようにして舞い上がり、しばらくの後にようやく目的の場所へと辿り着いた。
「ここがそうね……あとはこの扉をぶち壊せば良いんでしょ?」
「うん。私に任せて、ミルルちゃん」
椛音は空いていた左の掌に瞑力を素早く集中させると、即座にその力場を前方の扉へと向けて、一気に解放した。
「はぁっ!」
果たして椛音が放った瞑力の一閃は、二人の眼前で閉ざされていた頑丈そうな扉をいとも容易く打ち破り、そしてその先には椛音達が最初に歩いてきた通路が、非常灯と思しき赤橙色の光に照らされて、妖しく奥に伸びていた。
そしてミルルはエリスの身体を通路の脇に据えると、再びシャフト内に戻り、先刻シルファに対して告げていた合図の光を放つためか、両の掌を下へと向けて瞑力の煌めきを其処に燈し始めた。
「いくわよ、シルファ! さざめけ……
間もなくミルルの手から放たれた雷電を伴う大きな光球は、凄まじい光明と音響とを纏いながらシャフトの底部へと向かって急速に落ちていき、その連綿と続く深い黒を解きほぐしていった。
「ミルルちゃん、今のは?」
「解り易く言えば、信号弾とか、照明弾の替わりになる術だよ。あれならきっと下に居るシルファにも、光や音が届くはずだわ」
そうしてミルルが、通路からシャフトの中を覗き込んだ次の瞬間、施設の内部全体に一際大きな振動が伝播し、椛音達が居る通路はもとより、彼女達が昇って来たシャフトそのものが異様な軋みを上げながらあちこちの壁面を綻ばせ始め、その内部から電気回路と思しきものが剥き出しになって、激しく火花を散らせていた。
「まずいわ……施設がもう限界寸前みたい! シルファ、早く昇って来て!」
しかしシャフトを昇って来たものは、シルファでは無く、底からマグマのように噴き上げてきた火炎の暴風であり、通路からシャフト内部を見下ろしていたミルルの身体はその熱波が持つあまりの衝撃を受け、約五メートルに渡って吹き飛ばされたが、彼女は空中でその姿勢をすぐさま転向させ、通路の床面に着地した。
「くっ! 今のは……爆風……? ということは、シルファが……!」
「え……シル、ファ? シルファは、どう、なったの……?」
そこでようやく我に返った様子のエリスが、矢庭に立ち上がり、今しがたミルルが吹き飛ばされたシャフトに通じる穴へと向かって、ふらふらと歩き出した。
「エリスちゃん、そっちはもう、危ない!」
椛音がそう言って、エリスの身体を両手で掴み、半ば強制的に通路の脇へと退避させると、シャフトに通じる穴から苛烈な爆炎が再び吹き付け、周辺の通路をたちまちの内に焼き焦がした。
「いや……シルファ、まで……私は……!」
エリスは明らかに取り乱した様子で、両の眼に溢れんばかりの涙を浮かべながら、今にも椛音の制止を振り切らんとその両腕を強く伸ばし、再びシャフトの中に向かおうとしていた。
「エリスちゃん! しっかりして!」
椛音はそう言いながら、エリスの左の頬をその右手でぴしゃりと打ち、彼女の身体を両腕で強く掴みながら、険しい面持ちでその口を開いた。
「今はここから一刻も早く脱出して、エリスちゃんの妹を、助けなくちゃいけない! そしてシルファさんはきっと、そのための道を、私達に拓いてくれたの! だから絶対に、それを無駄にしちゃだめ!」
エリスの双眸からは幾筋もの滴りがその頬を伝い、その
「それじゃあ……行こう、エリスちゃん。もう、飛べる……よね?」
「ん……大丈夫」
「カノン! エリス! このエレナって人は私が担いで行くから、二人は前をお願い! もし途中に障害物があれば、遠慮なく吹き飛ばしちゃって!」
そして椛音達は、通路の中を可能な限り速く飛行し、その道中を塞いでいる大きな残骸に対しては、先頭を進む椛音と彼女のすぐ後ろに付けたエリスが、瞑力の奔流や光弾をぶつけることで粉砕しながら、出入口のゲートを目指して進行した。
なお、椛音達が進む通路は一本道ではなく、途中で幾度と無く枝分かれしていたが、最初に椛音達がその通路を歩いた際に、最後尾に居たセラフィナが万一の事態に備え、目印となる光源を一定間隔で設置していたらしく、椛音はそれに従ってシルファの誘導を欠いた状況下でも、滞りなく進行することが出来た。
「あ……きっとあの遠くに見えるのが、出口だよ、エリスちゃん!」
「ええ、一気に、破壊する」
「それじゃあ一緒に、タイミングを合わせて攻撃しよう……いくよ?」
椛音は背後のエリスに対して顔を向け、そう示し合わせると、
「さん……にぃ……いち……撃って!」
と口頭で攻撃までの秒数を読み上げ、エリスと共に瞑力を一斉放出した。
「はぁぁあああ!」
同調するその二人の声に呼応するかの如く、交じり合って同化した瞑力の奔流は、やがて大きな圧力を迸らせながら堅牢そうな横長の出入口ゲートに殺到し、そのあまりに高まったエネルギーを受けて分厚い扉が溶解し始め、間もなく破断した。
それから間もなく、拉げたゲートから脱出した椛音達を追うようにして、強烈な爆風が椛音達の出てきた方向から吹き付け、またそこから覗いていた通路は瞬く間に炎と黒煙とに包まれ、もはやその奥を見通すことは出来なくなっていた。
「シルファ……私、必ずティナだけは、救い出して、見せる、から……」
「……さぁ、エリスちゃん、ミルルちゃん、行こう。雨が降る、その前に」
滾る火炎に食い尽くされ、もはや見る影も無い程に焼き焦げた施設のゲートを背にしながら椛音達はふわりと浮かび上がり、多くの破片が転がる地面を後にした。
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