第31話 往古の秘奥


 次々に移ろいゆく彩りの中で最初に椛音へと伝わって来たものは、恐怖と痛みと嫌悪の感情。そして次に彼女の双眸が捉えたものは、白へと落ちていく黒のしずく


 白一面の中に垂らされた黒は、白にとって自らを冒さんとする恐怖であり、白は黒の拡がりを阻まんとするが、一度黒に染まった白は二度とは元に戻らないことを知って、白は自らを護るべく黒を世界から切り落とそうとする。


 例えその黒が、最初から拡がることを望まなかったとしても。


 ――皆と異なる存在の発生は、秩序を乱す恐れがある。

 秩序はより優れたものこそが導かなければならない。

 

 そして、優れたものによって築かれた秩序が、

 劣るものによって壊されることなど、あってはならない。

 故にそうなるより前に、小が大と化すよりも先に、手を打つ。


 例えそれが、大きな痛みを伴うものであったとしても。

 例えそれが、人間として嫌悪される手段であったとしても。

 例えそれが、相手を世界から排斥する結果を招いたとしても。


 不良はね、不要はて、不信はくびる。

 それこそが、エスフィーリアの掟。

 それは、絶対不変の摂理だった。


 それから更に変容する色彩の中で、椛音に流れて来たものは、受容と適応と生命の意思。それはまた、信じることを止めなければ自らの願いは必ず叶えられるという、想いのかたちだった。


 白になれなくても、灰として生きることぐらいは、出来るのかも知れない。

 黒に生まれた者が世界に留まるために必要なことは、世界を受け容れること。

 そしてそのために自らが持つ全てを捧げる覚悟を持ち、それを行動に表すこと。


 努力を以って這い上がれる壁なら、乗り越えればいい。

 知力を賭して埋められる溝なら、埋めてしまえばいい。

 死力を尽くして掴み取れる場所なら、掴み取ればいい。


 足りない力は、想いの力で補える。

 だから私は信じよう、私と、私の想いを。

 信じることを止めなければ、願いは必ず、叶う。


 そして尚も変遷を止めない光彩の中で、椛音がその虹彩を通じて感じたものは、歓喜と安寧とそして、少しの間を置いてから顕われた、悲哀の色だった。


 凡そ、人が人として持ち得る、全ての輝かしいものを手に入れた。

 自らの想いを託せる新たな器でさえも、今は自分の手が届く処にある。

 次はこの安寧に手を伸ばすことすら出来ない彼等に、手を差し伸べよう。


 しかし私は、甘かった。甘い時間の中で、忘れてしまったのだ。

 この世界を支配している、たった一つの、絶対的な原理を。

 白は黒を、許さない。白に近づいた黒でさえも、すべからく。


 ならば引き剥がして見せよう、万物に絡み付いた、忌まわしきことわりつたを。

 世界が私を拒むのなら、私もまた、この世界を拒む他に、道はないのだから。

 そしてこの手に取り戻して見せよう、私が失い、また得るはずだった、全てを。


 そこからさらに変転した光耀の中で、椛音がその五感を以って認識したものは、業火の如く燃え滾る憤怒と、全ての光を奪われたように真っ黒な、憎悪の深淵だった。


 私が白を、黒に塗り潰す。一つ残らず、塗り潰す。

 世界の真理を書き換える。黒は白を認めない、と。

 そして私は、其処に立つ。黒き地平を眺めながら。


 小さき黒の子らよ、この手を取るがいい。

 その先に続いている、自由という名の翼は、

 やがて君達に希望という名の光を授けるだろう。


 これまでの全てが終わりを告げる時、

 新たな全てがまた其処から、始まるのだ。

 だから共に見届けよう、終わりの始まりを。


 次の瞬間、椛音の瞳に映る全ての色が、一つの黒点へと収束していき、彼女は自身の感情すらも、その中に溶け出してゆくような感覚に襲われたが、其処へ流れてゆく一筋の光の中で、彼女はいつか何処かで感じたような暖かさに触れた。


「全てを焼き尽くすような、怨恨の中にさえまだ僅かに残ってる、この優しい温もりは……紛れもない、あなたの一部。其処から目を背けようとしても、また忘れ果てようとしても、この柔らかな輝きは、消せるものじゃ、決してない」


 その温もりの中から溢れ出して来る記憶の欠片には、いつかユベールがその手で触れた、心から愛する者達の笑顔が映し出され、黒に染まりつつあった椛音の視界を、暖かな光で包み込んでいった。


「やめろ……やめろやめろヤメロォ!」


「きっとまだ間に合う。今からなら、救える命だってある。どうか、あなたの奥底で優しく光ってる、大事なものと向き合って、触れて、感じて、そして思い出して……私もそれを、受け容れるから」


 すると間もなく、黒き情炎にその身の全てを焼き尽されそうになっていたユベールは、急にその頭を両手で抱え込みながら苦しみもがき、また同時に彼の身体の内側から、眩いばかりの閃光が幾筋も解き放たれ、そしてそれはやがて椛音の視界をも完全に覆い尽くした。


「う、う……うぁぁああああッ!」


 それからやがて薄らいでいく光のあとに、椛音の瞳の中に流れ込んで来たものは、見覚えのある広い空間で、何処までも無機質な壁面は至る所が大きく破損しており、またその床には、大小様々な残骸が無造作に転がっていた。


「はぁ……はぁ……」


 大きく肩を上下させながら息を切らす椛音の双眸からは、いつしか透明な雫がこぼれ出し、その頬を幾度と無く伝っていた。


「これは、封域が、解け……た?」


「エリス、私達、戻って……来たんだ。 カノン、カノン、は……?」


 程無くして、綻びた壁際から辺りを見回したミルルは、床に両膝を突いた格好の椛音をすぐに捉えた様子で、間もなく彼女へと駆け寄っていった。


「カノン……私にも、あの光の中で、少しだけ、見えたよ。あのユベールが、どんなこれまでを、送ってきたのかが……でもカノン、あなたはきっと、それをもっと深い所で、観ていたんでしょう……ね」


 ミルルがそう言うと、椛音は、その視線は正面に据えたまま、ただゆっくりと頷いて、言葉だけを彼女へと返した。


「一人の、人間が、抱えるにはあまりにも、重すぎて、痛すぎて……苦しくて悔しくて恨めしい、そんな想いで一杯だった。だけど、その想いの一番奥のところに、たった一つだけ、あったかい光を放つものが、まだ残ってたんだ」


「それは……」


「大切な人達を、想う気持ち。あの人が、本当に焼き尽くしたかったのはきっと、あの人からその大切なものを奪おうとした人達、そのものではなくて、その人達にそうまでさせた、姿の見えない恐怖心だったんだと思う」


 椛音は、先に自身に流れ込んできたユベールの記憶の断片から、葛藤を繰り返しながらも、持つ者イネイト持たざる者ハヴナットの共存を、何者かによる奸計の果てに、彼が愛する家族を失うことになったその瞬間まで、必死に探ろうとしていたユベールの姿を垣間見た。


「カノン……君」


「ユベール……」

 

 椛音が声のした方に視線を移すと、其処には彼女と同じように両膝を地に突け、右手で心臓がある部分を押さえながら|苦しげな息遣いを見せるユベールが、その目に留まった。


「私はもうじき……止まる。紛い物の心臓で無茶を、したからね。この、手で、自らが、望むものを、取り戻せなかったのは、強い悔いが、残るが……君のおかげで、もう一度、この目に留めたかった笑顔にだけは、会えることが、出来た。だから君には、礼を言い、たい……ありがとう」


「あなたが、取り戻したかったものって……」


「君の、その……往古の秘奥デーヴァ・リーラーには、因果さえも流転させる秘術、時の逆打ちカーラ・ナーヴァを実現させる、力がある」


「それは一体、どういう、こと?」


「時間を、巻き、戻せるんだ。戻す長さに応じた、生命力を引き換えに、な。そのために私は、往古の秘奥それのみを、君から、切り離し……エピゴノス達の生命力を用いて、協力者である、エレナと共に、過去に飛ぶための巨大な、古代機巧アルカナを建造していた」


 ユベールの口から、衝撃的な事実を知らされた椛音は、すぐさまその真偽を自身の中に棲むデーヴァに向けて訊ねた。


(デーヴァ、ユベールの言っていることは、本当……なの?)


(そんなものは存在しない……と言いたいところだけれど、事実に違いはない。本来は融合体ネクサスでしか知り得ない、禁じられた最古の呪法、なのよ)


「君も……取り戻したいものが、あるの、だろう。話には聞いていたが、君の過去と思しき光景が、断片的、ではあったが、私に流れ込んできた」


 ユベールは、所々息を詰まらせながらも、どこか悠然とした面持ちで、尚も椛音に対して言葉を続けた。


時の逆打ちカーラ・ナーヴァは、術者の能力や経験は、そのままに、既に起きた、事象のみを、起きる前の状態へと戻す力を、持つ。それは時という、抽象概念に対してのみならず、意志一つで、病の進行にすら、干渉できるはずだ。例外として、効果が及ばないものは、その往古の秘奥との融合状態と、術で削った自身の生命力ぐらいだろう」


「それって……まさか」


「術を用いれば、自身の生きる力と引き換えに、失った命を取り戻すことさえも、不可能では、なくなるだろう」


 椛音は、考えた。今の力を持った自分が、過去の自身に移れば、かつて自分の隣で眠るように息を引き取った、大切な友達を、避けられなかった死の運命から救うことすら出来るのでは無いかと。しかしそこまで考えて、椛音はその首を横に振った。


「でき、ないよ……私はあの子が、必死に生きた毎日を、無かったことにするなんて、私には、出来ない。それに、あの時のあの子を見ていたからこそ、今の私があるに違いない、から。例え本当に可能だとしても、私は、その力を、使わない」


「そうか……君なら、そう言うと、思った、よ……はは、ははは……は」


 次の瞬間、心臓を右手で押さえていたユベールは、ゆっくりと仰向きに倒れると、気息奄々きそくえんえんとして、その衰弱が急速に進行した様子を露わにした。


「ユベール!」


「もう、何も見えん……私の描いた、理想は、全て……この、砂上の楼閣と共に、間もなく、泡と消え、雨となって……彼らに、降り、注ぐ、だろう」


「雨……?」


浄罪の雨カタルシス。持つ者達を腐らせ……毒気の、血で、その全身を蝕む、瞑核カルディア、不全ウイルスだ。ウイルスといっても、人体の細胞を用いて増殖するのではなく、瞑核を中心に……体内を巡る、瞑力そのものを、媒体として……増大する。その有効性は、エリス、君の妹で既に……実証済みだ」


「私の妹って、何を……言って……」


「私が、事を成せなかった場合に、備えた……保険だ。今頃は、専用の輸送船で、ウイルス散布用のコンテナと共に、エスフィーリアへと……迫っているだろう。彼女には、試作型のウイルスを用いたが故に、症状はもう、収まっているはずだ」


「ユベール、その船を止める手段を教えて! 今からでもきっと、出来ることが、あるはず!」


 ユベールは、息も絶え絶えになりながらも、既に光が失われた様子の虹彩を閉ざすことなく、再びその口を開き、椛音へと言葉を返した。


「浄罪の雨を、止める手段など、存在しない。少なくとも、それが、生み出されるよりも早く、エスフィーリア中の、持つ者達を喰らい尽くす、ことだろう。ただ――」


「何か……方法が?」


「あるには、あるが、それは……君達にとって、最も残酷な手段と、なろう」


「残酷な……手段って……それは」


「輸送船と、休眠状態、にある浄罪の雨、は……生体ユニットによって、連結制御、されている……故にそれを破壊してしまえば、全てを、白紙に戻せる。しかしただ取り外せば、コンテナから、活性化したウイルスが……即座に散布されるだろう」


 すると、話を聞いていたエリスが矢庭に表情を曇らせ、そしてその強張った様子の唇を開くと、ユベールに対し明らかに震えた声で、言葉を紡いだ。


「そ……その、生体ユニットって、まさか……!」


「あぁ……君の妹だよ、エリス」


「う……そ……そんなの、嘘……だ」


 エリスはそう言うと、まるで全身の力が抜け落ちたかの如く、地面へと倒れ込み、両膝と両手とを其処に突きながら、愕然とした面持ちで呆けたような口を開け、そして全く定まらない虚ろな視線を、空虚な宙に投げかけていた。

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