第四章 七色のクオリア

第28話 ディソリエント・ガーデン <前>


「あれは、何……なの? 一体、どこから……」


 ミルルが異様なものを見るような目つきでそう零すと、

「あれは……魂の揺籃ゼーレ・ベヘルター。制御コアに生体ユニットを用いる機動兵器です。かつてマスターが、対イネイト戦用に開発していました」

 とシルファがその物体の詳細を知っている様子で、ミルルに対しそう述べた。


「せいたい、ユニット……? さっきの声は、ユベールに違いない、けれど」

 椛音がシルファに対してそう尋ねると、彼女は再びその口を開いた。

「生きた有機体を制御媒体とする機構のことです。恐らくは今、マスター自身が、その生体ユニットとなっているのでしょう」


 すると間もなく、件の物体から椛音達に向けて、

「君達は皆、ここから出る事なく、その一生を終えることとなるだろう」

 とユベールの肉声に一致する音素を伝え、そしてその異様に長い両腕を、正面へと突き出して見せると、周囲の空間全体が、矢庭に変容し始めた。


「これはまさか……封域!」


 ミルルが吃驚した面持ちでそう言ったのも束の間、椛音達の眼前に拡がっていた光景は間もなくその原形を失い、石鹸の油膜が水面を漂流するかの如く異様な光彩が混濁する世界を映し出し、そしてそれは程無くして渾然こんぜんと交わり合って、やがて歪な輪郭線を其処に描き始めた。


惑乱の外苑ディソリエント・ガーデンへようこそ、カノン君」


 椛音達が引き込まれたユベールの封域と思しきその空間は、椛音にとって自分が立っているのか浮いているのかすらも認識できず、加えて上下や左右の概念すらをも感じ取ることが出来ない、極めていびつで底が知れない場所であった。


 また、周辺の空間には建造物の残骸と思しき物体が宛ても無く宙を漂い、そして遠方に拡がる雲海の間隙には、幾筋もの遠雷がその姿を閃かせている。


「エレナはどうやら、カノン君に、瞋恚しんいの総てを焼かれたようだね。しかし、足止めの役目自体はしっかりと果たしてくれた」


「あの人は……エスフィーリアの人に対して、物凄く強くて深い、憎しみの感情を持っていた。でも、あの人をそうさせたのは……」


「その力を通して、見たのだろう? かつての彼女を」


 椛音の脳裏に過ぎるのは、エレナの記憶を通して観た、彼女の過去。

 それは、負の感情と不快な感覚だけに支配されそうな瞬間の連続体。

 しかしその最後にあったものは、死でも無でもない、仄かな暖かさ。


「ユベール……あなたが、その手で、彼女を絶望の淵から救い上げた……」


「私は、利用したに過ぎないさ。あのまま、アルカヌムの玩具おもちゃにさせておくには、あまりにも勿体ない存在だったのでね」


 ユベールは言う。シルファのような人造生命体バイオロイドの研究が、アルカヌムの下部組織において極秘裏に行われる以前、人間の受精卵から遺伝子操作を行うことによって、驚異的な能力を生まれながらに付与された調律体アジャスターなる存在が造られていたのだと。


 そして研究者達は、それが持つありとあらゆる能力を評価するため、非人道的な生体実験を昼夜問わずに繰り返し、その過程において死に至らしめられる者や、あるいはその精神を破壊されて廃人同然となった素体も数知れないのだという。


「やがて、私がありのままに伝えた事実を嚥下えんげした彼女は、私と利害の一致を見せ、互いに共通する目的を遂げるべく、行動を共にしたというわけだ」


「でもあの人は……その後もずっと、葛藤していたの。他者を傷つけるごとに、痛みを感じて、そしてその感覚を、非情の仮面を自ら被ることで、遮断していた」


「ふ……とんだ名役者だな。あの執行官すらも、気づけなかったわけだ」


「あなただって、本当は痛むんでしょう……その、心の、奥底が。あの時、あの人が、その手に感じた温もりは、きっと嘘なんかじゃない……」


 エレナの記憶を通じて椛音の手に伝わって来た熱は、嘘偽りの感じられない、まるで親が我が子に触れるかのようにとても柔らかで、優しいものだった。


「きっと、それまでに与えられたことの無い感覚を得て、彼女の中に残っていた生存欲求が、水を得た魚の如く、高揚感にも似た安らぎを、彼女に与えたのだろう」


「ううん、あれは、そんな言葉では表せない……そう、ただ伝わってきたの。あなたの手を通して。あなたの中にあった、いや、今もきっとまだ残ってる……温もりが」


 すると椛音達の眼前にあった人の形を見せる物体が、突如としてその異様に長い金属質の腕を、自らの正面で交差させた。


「話はここまでだ……カノン君。私は、私の目的を遂げさせて貰う」


 ユベールの声と共にその交わった腕が一気に解放された瞬間、椛音達はさながら台風の最大勢力圏内に放り込まれたかのように、四方八方を出鱈目に吹き荒れる暴風にその身をさらわれ、椛音は上下左右の空間識を失いつつあった。


 そしてさらにそうしている間にも、目には捉えられない風の刃が、剃刀のように薄く細々と、しかしその身を確かに刻々と切り裂いていく。


「くっ、方向感覚が、掴めない……何とかして、早くここから抜け出さないと」


「私は、苦痛の延長を、是とはしない。故に一瞬で終わらせる」


 身体の自由を取り戻せない様子の椛音達を尻目に、ユベールの化身から複数の小さな飛翔体が次々と分離し、方々へと流されている彼女達を暴風圏外から隈なく取り囲むようにして位置取ると、間もなくその各々が鋭い光を燈し始めた。


「これより、瞑力を用いた複数のレーザーを一点に集束した後、予め捕捉した熱源体に向けて照射し、対象を即、死に至らしめる。しかし喜びたまえカノン君。君に対してのみ、非殺傷の設定で行う」


「そんな……あいつ、これから私達を順番に焼き殺すつもりよ……!」


 狼狽した様子の声色でそう叫んだミルルを余所に、上下左右の区別もつかない宙空の中で常時著しく変化している互いの位置を把握することは状況的に至難であり、その活路を見出すために与えられた残り時間は限りなく少なかった。


(ここで下手に力を使えば、ミルルちゃんやエリスちゃん達を巻き込んじゃうかもしれない、一体どうすれば……)


「……私に、考えがある! カノン、シルファ、ミルル。お互いの姿ではなく、その瞑力の位置だけを、しっかり心の中で感じて、捉え続けていて」


「エリスちゃん……分かった、ここは任せる!」


「ん……この後、とても寒くなると思うけれど、少しの間だけ、我慢していて」


 するとエリスはその瞳を閉じ、右手人差し指だけを立て、残りの指で輪の形を作ると、その右手首を左手で押さえるような恰好を見せ、その口を静かに開いた。


「我紡ぐは、氷霧の迷宮……」


 やがてエリスの身体から薄い霧のようなものが生み出され、そしてそれは吹き荒ぶ烈風に溶け込むようにして、急速に暴風域の全体へと循環していく。


「この意思が描くままに、遍く拡がり、熱なき熱を満たせ」


 瞬く間に隅々を席巻した霧はその濃さを急速に増し、間もなく身を刺す程の冷気を纏い始めると、椛音の体温を凄まじい速度で奪い去っていった。


 そして椛音が、それに酷似する感覚と眼前に拡がる光景との共演に、かつて一度だけ遭遇したことを、そこに来て想い出したまさにその時、エリスの一際大きな声が、白亜の霧中にこだました。


「開け、霧棺ネーベルザルク!」


 その刹那、椛音達を散々に翻弄した凄風の怒涛が、突如として、凪いだ。

 視界そのものは乳白色の霧壁に覆われ、何物をも見通すことは出来ない。

 しかしながら椛音は、近くから発せられる複数の脈動を、確かに感じた。


「分かる……何処に居るのかが、手に取るように、感じられる」


 椛音は自らの感覚に従って、直近で反応を見せていた存在へと近づくと、間もなくその双眸に一際目を引く、豪華絢爛なゴシックドレスが映し出された。


「あれは……ミルルちゃん!」


「やっぱりカノンね! これは、前に私達が閉じ込められた……エリスの封域だよ! あの子はきっと、封域の中でさらに自分の領域を、限定展開したんだ」


 すると、そのミルルの声に招き寄せられたようにして、エリスとシルファの両者が、それぞれ異なる方向から、その姿を揃って現した。


「……その通り。私の封域はその性質上、他者の封域内でも、限定的に展開することが出来る。そしてその有効範囲が、暴風圏のそれとほぼ、重なっているみたい」


「ですがここで悠長に話している時間はありませんよ、エリス。一刻も早く、次の手を打たなければ……」


 シルファがそう言ったのも束の間、椛音の隣で佇んでいたミルルが、その手の内に顕現させた大槌を首根に携え、凛然と胸を張ったような恰好で言葉を紡いだ。


「それなら次は私に任せて。椛音達ばっかり活躍してずるいんだから。私だって、出来る女子だってところ、皆に見せてあげるよ」


「だけどミルルちゃん、ここは皆で一斉に仕掛けた方が……」


「ごめんなさいカノン、正直に言って、さっきから身体中に、力がたぎって仕方がないの……だからここはどうかこの私に、切りひらかせて」


 ミルルの全身とその大槌からは、既に雷雲を纏ったような瞑力が、溢れんばかりの勢力を以ってほとばしっており、彼女は今にも内側から暴発しそうなその圧を、必死に抑え付けている様子だった。


「分かったよ、ミルルちゃん。どうかその力で、突破口を開いて!」


「ええ、もちろんよ。一際大きな風穴を開けてやるわ。エリス達も、いいわね?」


「ではミルルの突撃を合図にして、私達もそれに続きましょう、エリス」

「ん……了解」


 全員からの了承を取り付けた形のミルルは満足そうな笑みを浮かべると、大槌を首根に据えたままの恰好で右脚を前に出した状態のまま屈み、その姿勢をとりながら自身の顔だけを椛音の方へと向けた。


「それじゃあカノン、行ってくるわ! せえぇ……のっ!」


 次の瞬間、ミルルは影の追随すらをも許さない疾風迅雷の如き勢威を以って、音が伝播するよりも一足先に、椛音の視界からその姿を消した。


「それじゃあエリスちゃん、シルファさん、私達も後に続こう!」


 そして即座に頷いて返した二人を見た椛音はその手に大杖を顕すと、今しがたミルルによって円筒状に穿たれた空洞に向け、全速力で駆けていった。

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