第18話 原初の記憶と、明日への扉


 エリスは一呼吸を置いてから、眼前で耳を傾ける椛音とその視線を強く結ぶと、やがてその口を通して訥々とつとつと語り始めた。


 エリスが生まれたのは、今からおよそ十年ほど前。彼女が自我に目覚めた時、両親と呼べる存在は自身の近くには認められず、ただ一人、自分よりも一回り幼いティナという少女が、彼女にとって家族と呼べる唯一の近しい存在だった。


 壁一面が白に覆われ昼も夜も存在しない空間で、ティナと二人、白い装束に全身を包み、顔を窺い知ることの出来ない者達から文字の読み書きをそれぞれ習い、食事は彼等から与えられるものを決められた時間に摂取し、定められた時刻通りに入浴、並びに就寝と起床を繰り返す不変の日々を、エリスは黙々と過ごした。


 そんな生活が何年か続いた後、エリスは時々、ティナとは別に単独で連れ出され、その先で瞑導術クオリムの教育を受けた。それに一体何の意味があるのか、考える意思も持たず、ただひたすら受動的に、彼女は与えられた課題をこなす存在であり続けた。

 

 一方のティナは、エリスが瞑導術の指導を受けている間、何らかの特別な教育を施されていた様子だったが、彼女がその全容を自ら口に出すことは無く、そしてまたエリスも、それを彼女に尋ねることはついぞ無かった。関心が全く無かったわけではないが、聞くほどの理由もまたエリスには無かったからである。


 ちなみに課題を上手く達成した日の食事には、いつものそれとは異なり、エリスとティナの両方に、甘味ドゥルキスと呼ばれるものが振る舞われた。それは、それまでにただの言葉とでしか認識していなかった『甘い』という感じを、初めて意識する嚆矢こうしとなり、またそれと同時に胸中を未知の感覚が駆け巡る不思議な体験をエリスにもたらした。

 

 そしてそれはティナにおいても例外では無かったようで、甘味を口にした彼女の顔は、いつか映像を通して見た太陽という存在の如く、周囲にさながら光を放るように明るく見え、またその様を目の当たりにしたエリスは、甘味を初めて摂取した時とはまた異なる不可思議な感覚に、自身の深奥が満たされていく体感を認めた。


 それからエリスには、ティナが見せるそのかんばせをもっと長く見てみたいという漠然とした想いがいつしか萌芽ほうがし、瞑導術の教導に際して課される題目を、より高い評価を以って完遂できるように、エリスは自らが持ちうる能力の総てを巧妙に活かそうと創意工夫を図り、そしてそれは程無くして実を結んだ。


 しかしある日を境にして、起居を共にしていたティナが急な体調の不良を示し、彼女の異変を認めた者達は間もなく彼女の身体に精密検査を施した。その結果、ティナの瞑核カルディアに原因不明の突発的異常が発見され、またそれによって彼女の全身が瞑力の循環不全状態に陥っており、さらに生体にも多臓器の衰弱という形で、その影響が如実に及び始めているという事実が明らかになった。


 ティナの瞑核に認められた異常は既存の医学が司る範疇の外側にあったため、日ごと衰弱の深みを増していく彼女に対し、有効な手段を持ちうる存在にはエリス自身を含め、その周りの者達も誰一人として成り得ず、エリスはまた床に臥せるティナの姿を見つめながら、やがて沸々と湧いてきた新たなる感覚に思考を奪われ、自らが執るべき次の行動をその霧中で見い出せずに居た。


 仮にティナがエリスのもとから失われた場合、エリスがいつしか自らの拠り所としていたティナの笑顔もまた、永遠に不可逆的な時の彼方に埋没してしまうことは、現在の延長線上に立脚する現実となってエリスにさらなる未知の感覚を与えた。


 そんな時、ティナが抱えていた不退転の砂時計を、流転させ得るすべを知るという存在がエリス達の前に招かれた。自らをユベールと名乗ったその人物に、エリスは初めて自らに生じた確かな欲求を彼に訴え、そして間もなく彼は、それに応えるようにティナとエリスとを引き取り、その後の面倒の一切を看ることを確約した。


 ユベールはエリスに告げた。彼の見出した、ティナを救うことが出来る唯一無二の術とは、『往古の秘奥デーヴァ・リーラー』と呼ばれる、失われた知識の泉にこそ在ると。そして、それを手中に収めるために必要なものは、何をも恐れず、ただ只管ひたすらにそれを己が手にせんとする、絶対的な意志の力であると。


 そうしてティナ共々、エリスがユベールに連れて来られたのは、異空間に遊弋ゆうよくする巨大な建造物で、彼はそれを『瓊葩の荘園センティフォリア』と呼称した。其処にはそれまでエリスにとっては書物を通してでしか見たことが無い数多の植物をはべらせた庭園と豪奢ごうしゃな噴水とがあり、壮厳な雰囲気を放つ屋敷がその中央の座を悠然と占めていた。


 ユベールによると、その庭園は彼が自らの手で生み出したという人造生命体バイオノイドが独りで管理しているとのことで、エリスはユベールが往古の秘奥の在り処を特定するまで間、その管理者と会話を交わす機会が幾度もあった。なぜなら、その管理者はユベールの命を受け、ティナの看護も引き受けることになったからである。


 管理者は自らを『シルファ』と名乗り、エリスとティナの両者に自然とその一部である生きとし生けるものが、いかに美しく、力強く、そしてまた儚い存在であるかを説き、それに反して自分自身は自然の一部から乖離した、不自然な存在であることに強い違和感なるものを抱いている、と二人に吐露した。


 そう述べたシルファの顔は、床に臥せるティナが時折見せるような、形容し難い色を浮かべており、さらにそれを見たエリス自身も、自らの胸中にえも言われぬ奇妙な、しかし決して快いものではない感覚が拡がるのを実感した。


 そしてある時、エリスがユベールにその感覚の正体を尋ねたところ、彼はそれが『感情』という人間にとって最も不必要な欠陥であり、種としての進化に際し、最大の障害となっている腐食部分だと表現した。


 ユベールは、自らの中に生まれた異質を排除することで秩序を保ち、その淘汰の末に進化を遂げてきた人類が、消えない汚点しみのようにいつまでもその内面にこびり付く、感情という異物を拭い取る決断が出来ない矛盾に失望し、それを排した完全なる生命を創りだそうと考えた結果、シルファが創製されたのだという。


 しかしその試作品シルファは、最近になって、ユベールが最も嫌悪していた感情の芽を顕し始めたため、近く廃棄し、より自身の理想に忠実で完全な改良型の製造に着手する考えを持っていることを、ユベールはエリスに明かした。


 それを聞いたエリスは、ユベールに対してある提案をした。それは、せめてティナが元気を取り戻すまでは廃棄を延期して欲しいということに加え、またその間、自らがシルファに対して調整を試み、その結果もしもユベールの理想に近づいたのであれば、その廃棄の是非を再度検討して欲しいということであった。


 エリスの話を聞いたユベールは、一頻ひとしきり思案する素振りを見せた後、やがて渋々ととその提案を呑み、また往古の秘奥を回収する際には、技術者として豊富な知識を持ち、また高い戦闘能力をも有すると評したシルファと共に事にあたるようエリスに命じた。


 その後エリスはシルファに、感情というものを自分はまだ良く理解はしていないが、それをユベールに見せれば彼の理想に反するために、いずれ排除される未来が確定することと、一方で感情が無いと思える振る舞いを見せ続ければ、その定めから逃れられる可能性があることを自らが持つ言葉を以って示した。


 エリスは、シルファが感情というものが如何なるものか、その普段の話振りから、自分よりも深い段階で認識している節が感じ取れたため、自らの存在意義に対し、兼ねてより強い疑問を抱いていたシルファ自身に、その存在の終着点を何処に定めるか、今一度委ねることにしたのである。


 そしてまたそうすることが、シルファ自身がひらく道筋をして、感情というものの真の正体、即ちティナが甘味を口にした時に見せた、あの顔の意味を知る手掛かりとなるのではないかと、エリスは考えていた。


 それからしばらくの後、何処からか往古の秘奥の所在を掴んだユベールは、エリスとシルファに保管施設への潜入、及び目標の奪取を命じ、間もなくエリスはシルファと共に作戦を遂行し、実際に往古の秘奥を発見したが、自己防衛機構に阻まれて奪取に失敗すると、そのまま異次元へと消えゆく目標に対し、止む無く追行使役獣トラッカーという人工生命体を送り込むに留まった。


 その後、追行使役獣の反応が途絶えた先の空間で、周辺に残留していた瞑力を調査し、再びエスフィーリアへと逆戻りすることになったエリスだったが、分析の結果、往古の秘奥と融合している人間が存在するであろう領域はある程度絞られたため、ユベールは広域に作用する、ある特殊な装置の起動をエリスとシルファに命じた。


 『ラプラスの審眼』と呼ばれたその装置は、対象領域に特殊な構成式を予め分散して配置し、外部から得た莫大な瞑力を利用して起動した後、効果範囲内に存在する総ての存在が放つ気紋を読み取り、実施者へとその情報を還元するというもので、ユベール曰く、目標が存在すると思われる地域で近く行われるという広域空間調査に乗じ、エリスはシルファを帯同してその起動を実際に試みることになった。


 そして装置の起動に成功し、炙り出した目標の前にエリスがその姿を現した時、其処には自分と同年代と思しき少女がもう一人の少女と共に佇立しており、そこから間もなく事の成り行きで、彼女達とエリスは戦闘状態へと突入することになったのだった。


「それから後のことは、知っての通り、だと思う」


 一頻り話し終えた様子のエリスを見詰めながら、一度だけゆっくりと頷いた椛音は、それまで聞き手に徹して噤んでいた唇をようやく縦に開いて、言葉を紡いだ。


「……そう、だったんだ。所々、何のことを言っているのか、解らない部分はあったけど、エリスちゃんが持ってる、一番大切な想いは、よく分かった気がする。エリスちゃんは、きっと、ただ――」


 椛音は、その双眸そうぼうを閉ざし、ほんの少しの間沈思すると、間もなくその両瞼を緩やかに開くと共に、椅子から立ち上がってエリスの傍らに歩み寄ると、その口から二の句を迷いなく継いだ。


「ティナちゃんにもう一度、笑って欲しいだけなんだ」


「わらっ、て……」


「だったら今から取り戻しに行こう。これから大切な人と、一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に甘いものを食べるの。そのために必要な力が私にあるのなら、きっとできるって、私はそう信じてる。だから、エリスちゃんも……ね?」


 そう言いながら、椛音がおもむろに自身の右手をエリスの右肩へと乗せ、その熱を伝えると、深雪を湛えた野原が愛日あいじつを受けて暉々ききと照り映えるかの如くエリスは両の頬を紅潮させ、また雪解ゆきげの純水が在るべき場所へと自然に流れていくように、彼女の明眸から独りでに湧出した透明な雫が、ただあるがままの姿を保ちながら、其処を滔々とうとうと伝わっていく。


「あり……がとう」


 消え入りそうでいて、しかし確かな温かさを持ったその声は、椛音の胸にこだまして拡がり、そして彼女の心を柔らかく包み込んだ。

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