第17話 アルカヌムの奥底で


 明くる日、椛音はセラフィナからの連絡で学院内にて彼女と落ち合い、少しの会話を交わした後、ソル・マジョールという市内の中央部に向け、セラフィナの運転する車両で移動を開始した。


 その目的地は古代機巧管理保全総局アルカヌムという組織の本部が存在する施設とのことで、セラフィナによれば先に椛音を襲撃したエリス達が、もうすぐそこで尋問を受ける手筈になっているという。


「ひょっとしたら、あの子達から話を聞く上で、カノンの力を借りることになるかも知れないわ」


 椛音は、自身がデーヴァの融合体である事実をおおやけには秘匿ひとくされたまま、あくまで件の空間分析中にエリス達と突発的な交戦状態に陥った民間人として、アルカヌム側からセラフィナを介し協力を仰がれた形になり、椛音もまたそれを快諾していた。


 なおミルルは、収容先の病院からの情報によると非常に安定した状態で、消耗した瞑力も既にほぼ回復し、間もなく目を覚ますだろうとのことであった。


「ところでカノン、デーヴァとの交信は今も可能なのかしら?」


「えっと、それが……」


 デーヴァは先日、融合の最終段階に移行する上で、作業の完了までは意思の疎通が出来ない旨を椛音に告げてから交信を絶っていた。そしてそこからかなりの時間が経過してはいたが、今に至るまでデーヴァからの連絡は一度も認められてはいない。


「そう……となると今は、あの子達から直接、事情を訊く他なさそうね」


 車両が目的地へと近づくにつれ、車窓から流れてくる風景が非常に長い吊り橋を越えた辺りを境界として一変し、それまで見えていた中世の欧州を彷彿とさせる趣のある街並みから、天をする高層ビルがひしめくように立ち並ぶ光景へと移り替わり、椛音の感覚を通せば其処は極めて近未来化された都市であるように思えた。


「見えて来たわ。もうすぐよ、カノン」


 程無くして椛音が辿り着いた先には、薄黒いミラーガラスに全面を覆われた巨大な建造物が広大な敷地の中央に端厳と其処に立っており、そしてその周りを囲むように、セラフィナのものを初めとした車両が整然と肩を並べ合っている。


 椛音は、立入許可証と称された緑の腕輪をセラフィナから渡され、それを自身の右手首に装着すると、彼女に先導されて建物の内部へとその足を踏み入れた。


 内部は一切の無駄が省かれた極めて無機質な造りで、まるで人気が無く閑散としており、その正面には一際大きな扉が存在していたが、セラフィナはそちらではなく何故か何もない隅の方向へと椛音を導き、その口を開いた。


「セラフィナ・モルガーナ……認識番号、553010906」


 すると表面上には何も認められなかった白い壁面が矢庭に変容し、人であれば楽に通過できるほどの開口部を形成すると、セラフィナが椛音をその先へと導いた。


 そして椛音は色の無い壁のみが支配する長い通路を進み、やがて途中の二重扉を抜けると、その先にはエレベーターと思しきドアが二つあり、セラフィナが近づくと即座にその扉が左右に開き、椛音は彼女の後に続く形でその中へと入った。


「下層66へ移動」


 果たしてエレベーターであった籠内かごないには、一見して階を表すボタンのようなものが存在していなかったが、セラフィナがそう言うと独りでに扉が閉まり、程無くして俄かに下へと降りている感覚が椛音の身体に伝播でんぱした。


 エレベーターから降りた椛音は、再びセラフィナの後に付いて通路を進み、そして幾つもの扉を通過した先で、やがて椛音があるドアの前まで来た時、その中に入ってしばらく待機するように、とセラフィナから指示を受けた。


「ん? こんな感じの部屋、何処かで見たことあるような?」


 椛音が入った部屋の中には長方形の大きな鏡が壁面に配され、その鏡面をして隣の部屋がくまなく見渡せる構造となっており、彼女はそこからシンプルな白いテーブルと椅子のみが置かれている隣室の内容を把握することが出来た。

 そして椛音がしばらくそこで待機していると、隣室のドアからセラフィナと両手首に拘束具を付けられた一人の少女が、部屋の中へと入って来る光景が見えた。


「あれは、エリス……ちゃん」


 白いワンピースを纏ったエリスは、左右に結わかれていた髪が下ろされ、それを腰の辺りにまで垂らしながら椛音が最初に遭遇した際と同じ、温度の感じられない面持ちでセラフィナに言われたまま眼前にある椅子へと腰を掛け、一方のセラフィナも彼女と対面にあたる位置に着席した。


 なお椛音の眼前に広がる鏡はマジックミラーであった様子で、エリスが椛音の姿を捉えたような素振りは、彼女が席に着く前後を含め一度も見受けられなかった。


「私は古代機巧管理保全総局アルカヌムの特務執行官、セラフィナ・モルガーナ。あなたとあなたの連れには、航界法及び古代機巧管理法において重大な違反の疑いがあるけれど、今はそれよりただのお話をしましょうか」


 自らをアルカヌムに属する特務執行官だと名乗ったセラフィナは、テーブル上に置かれた電子フィルムのような書類には目もくれず、両肘を机上に突き、そこから組んだ両手の上に顎を置く格好でエリスの方へと視線を向けながら、言葉を紡いだ。


「あなたは、エリスと呼ばれているそうね。そう呼んでいるのは、お友達?」


「とも、だち? 私をそう呼ぶのは、シルファとおじさまと、あの子」


「なるほど。あの子というのは、昨日あなたと戦った子、かしら?」


「そう。戦う心算つもりはなかったけど、結果的には、そうなった」


 セラフィナはそういった調子で一連の事態における核心には触れず、エリスという人物が現在置かれている状況と環境について、外堀を埋めるように少しずつその内部へと触れていった。そして彼女達二人がやり取りを交わす中で、不意にエリスの口から彼女に妹が存在する事実が語られた。


「あら、エリスには妹さんが居るのね。お名前は何ていうのかしら?」


「ティナ。私より多分、二つぐらい、下」


「……そう。きっと今頃、エリスのこと、とても心配しているわね」


「ん……」


 そこから突然、エリスは視線を落としたまま口を噤み、外部からの刺激に対して石像のように何の応答も示さなくなった。そしてしばらくそんなエリスの様子を静観していたセラフィナがやがてゆっくりと立ち上がると、その口を開いた。


「少し、ここで待っていて貰えるかしら」


 そうして部屋を後にしたセラフィナは、間もなく椛音が居る側の部屋へと入室し、

「カノン、今度はあなたが、彼女と話をしてみて頂戴」

 とだけ告げ、椛音の右肩へとその掌をおもむろに乗せた。


 さらにセラフィナは言葉を紡ぎ、彼女が推察するに、エリスには恐らく物心のつく前から両親の存在が欠落しており、またそれによって自身と妹の正確な年齢も把握しておらず、これまではきっと孤児院のような施設での生活を余儀なくされていた状態にあり、加えて彼女が『おじさま』と呼称していた存在に妹ともども引き取られたのではないだろうか、と述べた。


「彼女、エリスの妹さんには、きっと何らかの秘密があるはず……カノン、どうかあなた自身の言葉で、彼女の中の心に触れてあげて」


 セラフィナからの話を聞いた椛音は彼女に頷いて返すと、間もなくエリスの居る部屋へと導かれ、先程までセラフィナが座っていた位置にその腰を掛けた。


「えっと……改めまして、こんにちは、エリスちゃん。セラフィナさんとのお話、近くで聞いてたんだけど、その、エリスちゃんにも、妹が居るんだね」


「ん……にも?」


「実はね、私にも居るの。二つ下で、澪音れのんって言うんだけど、とっても優しい子でね、よく二人で一緒にお菓子とか、ケーキを作ったりするの」


「おかし……一緒に……」


 エリスは、目の前でそう語る命のやり取りに等しい程の激戦を交わした相手にも自分と同じように妹が居ることを知ってか、その氷のように凍てついていた表情を、俄かに熱を帯びたようにゆっくりと、穏やかに変容させ始めた。


「エリスちゃんの妹、ティナちゃんて言ったよね。そのティナちゃんは一体どんな感じの子、なのかな? もしよかったらお話、聞かせてくれる?」


「ん……大人しくて、本が好きな、子。甘いものを食べた時、には、太陽みたいな、顔になる。あの顔を見ていると、何だか……胸が、不思議な感じになる」


「それってきっと、嬉しいとか、幸せっていう気分なんじゃないかな。自分の大切な人がとっても嬉しそうなら、こう……自分も嬉しくなっちゃう、みたいな」


「うれ、しい……? あの、感じは、うれしい、というの?」


 それはセラフィナとの会話でも感じていたことだったが、椛音は一般的な人間ならば本来持ち合わせている、或いは当たり前に表現できるであろう、純粋な感情の色が、エリスには巧く理解できていないような印象を改めて受けた。


 しかしそれらは決して、エリスから欠落しているわけではなく、あくまで彼女が、表現の仕方を知らなかっただけ、とも解釈できる余地があるものであった。


「私もね、もし自分の妹がすごく悲しそうな……えっとこう、嬉しいとは反対の、夜の真っ暗闇みたいな顔をしていたら、きっと私も胸がぎゅっと締め付けられるような、すごく嫌な……もやもやした感じが、すると思うの」


「夜みたいな、顔……いやな、感じ。それは、きっと……」

「きっと?」


「今の、ティナが、している顔……だと、思う」


 そう言ったエリスは、妹であるティナが浮かべていたであろう喜ばしくない表情を想起したのかふと自身の胸に手を当て、寄る辺の無い視線を流しながら、その端正極まった面立ちを次第に歪ませていった。

 そして椛音は確信した。眼前のエリスが自身の妹を想って今まさに感じているものは他でもない悲しみ、そしてさらにそこから生じた、苦しみであると。


「エリスちゃん……今、エリスちゃんが感じているものはきっと、ティナちゃんも感じているものだと、私は思うの。それは悲しい、とか、苦しいっていうもの」


「かな、しい、くる、しい……ティナは今、こんな感じ……なの?」


「エリスちゃんはきっとただ、ティナちゃんにもう一度、甘いものを食べた時に浮かべた、その……太陽みたいな顔を、取り戻して、あげたいんだよね」


「あの顔を、取り、戻せる…………取り、戻したい」


 その時、それまで宛ても無く彷徨さまよっていたエリスの視線が椛音の視線と結ばれ、椛音は其処でエリスが初めて一人の人間として、熱も色も、裏も表も有るその本当の顔を、ついに自分の前に見せたように感じられた。


「だから私に、教えて欲しいんだ。エリスちゃん達の身に今、一体何が起きてて、そしてこれから、何をしようとしているのかを」


「……………………」


 エリスは椛音からの言葉を受けると、その双眸そうぼうを緩やかに閉ざし、黙した。

 そしてエリスがそのまま沈思する様子を見せること凡そ一分とその半分。やがて閉ざされていた彼女の双眼が光の侵入を徐々に赦し、その視線を再び椛音の両目へと投じると、真一文字にきっと固く結ばれていた彼女の唇が柔らかく開かれた。


「わかった」


 それは本当に短いただの一言だったが、椛音にとっては常闇に暗く沈み込んで輪郭を失っていた夜陰の地平が、箒星ほうきぼしのように突如として差し込んだ一条の光明によって照らされ、其処に形あるものとして浮かび上がったように感じられた。

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