第16話 独りきりの晩餐会


「あ、れ……カノ、ン?」


 椛音の手に触れたのは、確かな温もり。それは彼女の指先から体の深奥へと緩やかに伝わってくる、厳冬の暁闇ぎょうあんから太陽が顔を出したような、暖かく優しげで、またどこか懐かしいような心地の良い感覚。


「ミルルちゃん、私……は……」


 やがてゆっくりとその身を起こしたミルルは、眼前で二の句を継げずに震えだした椛音の身体を、自身の両腕でそっと包み込むように抱擁ほうようした。


「何にも心配いらないよ。何にも。ただこうすれば、言葉なんて無くたって……全部、伝わるの」


 ミルルの腕にいだかれて、椛音は自身の中で渦巻いていた濁色だくしょくの感情が、天穹てんきゅうに澄み渡る青の如く精神の重力から解き放たれ、何処までも高く抜けていくような感覚にその心身を満たされた。


「ふふ……カノンがくれた光のお布団、とっても暖かかったよ。きっと必死になって、私のこと、護ってくれたんだよね。ありがとう……カノン。 ありがとう……」


 椛音はいつの間にか自身の双眸から離れ出た熱が、両の頬を止め処なく過ぎり、やがて顎先に集ると、間もなくそれが零れ落ちていくのを感じた。


「うん……うん……」


 ミルルを救いたい、ただその一心で彼女に降りかかるはずの運命を拒絶した刻、椛音には放たれた時の矢が定められた的に達するよりも早く、自分が自分では無くなっていく感覚の中で、何かを掴んだ感触が確かに在った。


 それは、絶望の只中に在って尚、現象を流転させるに足り得る、絶対的な力。

 それに身を委ねれば、此岸しがんから足を踏み外した者でさえも彼岸へ至らしめることなく、己が下へと手繰たぐり寄せることが叶うのであろう。ただし恐らくは、自己の総てと引き換えに。


 やがて我に返った時、椛音は自身の震える右手に底知れぬ恐怖を認めた。其処には自分のものでは決して無い、しかし確固たる殺意の残滓がくすぶっていたからである。

 椛音はもし仮にセラフィナの介在が無ければ、自身が眼前に力無く伏した無抵抗の存在を、一切の躊躇なく一撃のもとに葬っていたであろうと想像し、そして実践しようとしていた忘失の自己を畏れ、骨の髄まで戦慄わなないた。

 

 今、眼前に居て、しんの鼓動を交わしている暖かな少女は、そんな自分を未だ知らないのかもしれない。しかし例えそうであっても、この今だけはその優しい温もりの中に己の総てをひたしていたい。

 椛音は、そんな想いに暫しの時を忘れ、ただひたすらにその心身を委ねていた。


 それからどれ程の時間が経過したのか椛音には実感が無かったが、彼女がふと気が付くと、その傍らには憂心をたたえた面持ちの少女が佇んでいた。


「大丈夫ですか! カノンさん、ミルルさん!」


 その声に漸く時を思い出した椛音は、目の前に在る少女が自らの見知った顔であることに気が付き、口を開いた。


「あなたは……ノエル、さん?」


「セラフィナ先生からの一報を受けて、飛んで参りましたの。ですがもう、心配は要りませんわ。さぁお二方とも、こちらを……」


 そう言って閉目したノエルが自身の両手を正面に掲げると、彼女は間もなく柔らかな若草色の光を其処に紡ぎ始め、まるで蓮糸を織るような手つきでその煌めきを束ねては椛音達のもとへと送り出していった。


「すごい……体が軽くなって、宙に浮かんでいくみたい」


 椛音は、ノエルから注がれる光に、草原を駆ける一陣の爽涼な風のような感触を覚え、またそれと同時に自身の四肢に点在していた傷創が、見る見るうちに跡形もなく塞がれていく様を目の当たりにした。


「……っと、こんなところでしょう。瞑力の消耗まではさすがに回復できませんが、通常の創傷や打撲の大半は、これでほぼ治癒したはずですわ」


「ありがとう、ノエルさん。おかげで体は随分と楽になりました。きっと、ミルルちゃんの方も――」


 そうして傍らのミルルに椛音が視線を移すと、ミルルはいつの間にか転身が解除された状態で、穏やかな表情を浮かべたまま、静かに寝息を立てていた。


「ミルルちゃん、眠ってるみたい……それじゃあ、起こさないようにして」


 椛音は自身に回されていたミルルの両腕を緩やかに外し、ミルルの身体を横にすると、そのまま自身の両腕を以って優しくそっと抱き上げた。意識の切れたミルルの身体は驚く程に軽く、また地面に落とせば壊れてしまう硝子細工の如く儚い存在であるように椛音には感じられた。


「ではカノンさん、こちらへどうぞ」


 ノエルに先導される形で、椛音はミルルを抱えたまま医療船と言われた乗り物へと移動し、其処に備え付けられた寝台に、ミルルの身体を下した。


「それでは念のため、表面上からは確認できない生体の損傷や瞑核カルディアに異常がないか確かめますので、ミルルさんの身体をスキャンしますね」


「かる、でぃあ……?」


「ええ、私たちの瞑力を司る中枢であり器そのものですから、一つの異常でも致命的に成り得ます。後顧の憂いを絶つためにも確認し過ぎて良いくらいですわ」


 すると寝台に乗せられたミルルの身体に、天井に在るライトから青い光が差し伸べ、それは間もなく縦横無尽に往来し、そこから得られた解析情報と思しきものがミルルの操作していた立体モニター上に表示されていた。


「さぁ、カノンさんも隣のベッドにどうぞ。すぐに終わりますから」


 ノエルに言われてカノンもついでにと身体検査を受けたが、程無くしてモニター上の情報を注視していた様子のノエルが、急に驚いたような声を上げ、その表情に困惑の色を滲ませ始めた。


「え、これは……カノンさん、は……」


「……私から説明するわ、ノエル」


 椛音が寝台から声のした方に視線を移すと、そこにはセラフィナの姿が在った。


「カノンは非常に珍しい特異体質、でね。私達の瞑核とは全く異なる形態を持った、極めて特異な核を持っているの。彼女が長く療養していたのも、これが原因よ」


「そう、だったのですか……私、このような核は、これまでに一度も見たことが無いもので、思わず驚いてしまいましたわ」


「初めて見れば、驚くのも無理はないでしょう。さぁ、二人のことは私が看ているから、ノエルは向こうの被疑者を診てあげて貰えるかしら?」


 セラフィナからそう指示を受けたノエルは言葉短かに返し、セラフィナに会釈すると間もなく医療船の外へと出て行った。


「今のはとても……危うかった。瞑核のことは完全に私の見落としだったわね。この私としたことが、あまりにもうっかりとしていたわ」


「セラフィナさん、その、かるでぃあというのは……一体、何なんですか?」


「ああ、それはね……」


 セラフィナ曰く、瞑核というものは瞑力を司る者全てが持つ、第二の心臓のようなもので、生体の心臓に何ら問題が無くても、その瞑核に異常があれば最悪死に至るケースがある程の極めて重要な、非物質の超高エネルギー集積体であると言う。


 そして椛音の持つ瞑核に相当するものは、エスフィーリアに住まう者が持つそれとは著しく異なる形態を持った存在で、さらに恐らくはデーヴァとの融合によって常人が持つ瞑核と比して、遥かに逸脱したレベルのエネルギーをそこに泰然と保持している状態がこちら側の人間には驚愕に値するのだと述べた。


「そうだった……私、自分がこの世界の人間じゃないってこと、この数日ですっかり忘れちゃってた、みたいで」


「いいえ、これは完全に私の落ち度よ。ともあれ、これだけでカノンが別次元の人間であるとは夢にも思わないでしょうから、幸いさしたる問題には成らないわ」


 セラフィナは、ミルルと椛音には生体上における致命的な障害は認められないものの、ミルルにおいては瞑力の消耗が特に激しいため、今日のところは大事を取って医療機関に入院という措置を取ることになった一方で、対照的に目立った消耗が見られなかった椛音は程無くミルルの屋敷に独りで戻ることになった。


 その後、椛音はセラフィナに送られて、ミルルの屋敷へと帰宅したが、一足先にセラフィナからの連絡を受けていた屋敷では、椛音の夕食が用意されていた。


「すごく、おいしい……けれど、とっても、静か……」


 昨日までは同じ場所に屈託ない笑みを湛えたミルルの姿が対面に在ったが、今、椛音の眼前に広がるのは、独りで食べるには少し余りある程の豪勢で絢爛な食事と、食器の摩擦音のみが宛ても無くこだまする伽藍がらんとした空間のみだった。


(そうか……ミルルちゃんは、いつも独りで、この中に、居たんだ)


 椛音は独り、その中に居て、そこに居たミルルのことを想った。


 口の中で踊るは、恐らくは一流のシェフが最高の素材を凝らし、最適の時機を見計らって出したであろう料理の数々。しかしそれでも、彼女の心が真に満たされることは無かったのだろう。ただ一つ、決定的に足りないものが其処に無いが故に。


 彼女は一見、恵まれているように見え、それ以上の多くを望むのは傍からは傲慢であるようにも映るだろう。しかし彼女のみが知り、感じ得たものが其処には確かに在り、それがきっと彼女自身をあそこまで動かしたのだろう。


 たった独り、誰も知らない世界で目を覚ました、一人の少女のために。

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