第15話 風に揺蕩う、羽の一片さながらに


 椛音は、口を柔らかく結んだまま、ミルルの身体をゆっくりと地面に下ろし、間もなく彼女を七色に変転するかそけき光でまゆ状に包み込むと、背後で静観していたエリス達に対し顔だけを向け、無色透明な視線を投じた。


「私の攻撃を、背で、受け止めている……あの、タイミング……で」


 やがて椛音は、一切の言葉を発することなく、ただ歩き始めた。一歩ずつ、ゆっくりと、しかし確かに、エリス達の居る方向へと向かって。

 すると、エリスの隣に居たシルファが、両手に紫燐を燈した光刃を表出させるや否や、そのまま攻撃態勢へと移行し、椛音へと向け、無音の速度を以って突撃した。


 椛音は、向かって来るシルファに対し、無表情のまま、ただ前へと歩み続け、回避はおろか防御をすることすらもなく、ただシルファの繰り出す剽悍無比ひょうかんむひな斬撃をその身に受けた。しかし、シルファから放たれた攻撃は、椛音からほとばしる七色の光輝を前に、その悉くが生壁なまかべの釘の如く、彼女の歩みを阻む力足り得るには、遠く及ばなかった。


「何故……何故、私の刃が届かない……?」


 シルファは、自身の放つ斬撃がまるで通じていない事実に、驚嘆の色を隠せない様子を見せながらも、攻撃の手を止めることは無かったが、黙したままで歩みを進めていた椛音が、さっと自身の右腕を前に出すと、宙空を薙ぐようにそれを横へ払うと共に、それまで噤んでいた口を終に開いた。


「鎮まれ兇賊きょうぞく瞋恚の制禦ドヴェーシャ・ニローデ


 乾いた声音で、椛音がそう呟くと、彼女の眼前で猛攻を続けていたシルファの身体が、瞬く間に拡がった七色の光炎に包まれ、彼女は間もなく、糸がぷつりと切れた操り人形のように、どさりと地面に崩れ落ちた。


「ぐっ……こ、れは、いった、い……」


 地に落ちたシルファを眼下に見やりながら、椛音は右手を自らの頭上へと掲げ、再びその口を開いた。


「神意よ、降り来たれ……碧落の天泣ディアウス・カルナー


「……っ、シルファ!」


 次の瞬間、上空に突如として広大な瞑導陣が現れ、そしてそこから夥しい数の光弾が出現すると共に、豪雨の如く地上へと降り注ぎ、そこから生じた七色を纏う激甚の狂濤きょうとうが、シルファと彼女の下に飛び込んだエリスとを、一息に呑み込んだ。


 ややあって閉じていく閃光の帳から現れたのは、まばらに燻る焦土の上に、力無くへたり込む二つの影と、玉虫色に煌めく光の繭のみだった。


「何て、瞑力……でも、何も得られずに、帰る、わけには!」


 エリスは、いつの間にか傘の姿へと戻していた戦槍を、矢庭に再び武器として転じさせると、眼前で屹立する椛音へとその槍先を向け、刺突の雨を浴びせたが、相対する椛音は、依然として無表情のまま、右手側の人差し指、その先一つだけを以って、柳に風の如く、その軌道のみを巧妙に逸らし、受け流していく。


「エリ、ス……今、加勢、します! リミッターさえ、解除すれば……!」


 既に満身創痍の様相を呈していたシルファは、やがて緩やかに立ち上がり、腰を入れた格好で紫紺に煌めく双剣を再度出現させると、突如としてそれまでに無い程の蛮声を上げ、椛音へ猛攻を加えているエリスに加勢する形で、椛音の背後から倏忽しゅっこつとして現れ、そのまま彼女を急襲した。


「はああぁあああああ!」


 エリスとシルファ、両者による容赦のない剣戟を前後から振るわれた椛音だったが、彼女にはその動きの一切が見えているのか、或いは読めているのか、凡そ人の想像し得る領域からは逸脱した体捌きと防御によって、その悉くを無に帰した。

 そして椛音は、二人からの挟撃を歯牙にも掛けず、忽然とその身を宙空に眩ませ、次の瞬間には上空へとその位置を転移させていた。


「失せよ陋劣ろうれつ聖なる逆鱗アーリア・クローダ


 色の無い面持ちで、そう発した椛音の両手から、間もなく莫大な瞑力の波濤が放たれると、それは一路にエリス達の下へと打ち寄せた。しかしエリスは、それを堰き止めるための防御行動を執ることはおろか、そこから退避する様子すらも見せず、自身の足元に瞑導陣を浮かび上がらせながら、自らへと押し寄せてくる大波に対して、その手にしていた戦槍の切先だけを向けた。


「全てを穿て……蒼の怒涛ブラウ・ヴェーレ!」


 そしてエリスは、そこに来て初めて見せる、鬼の如き形相を満面にみなぎらせながら、七色の奔流に逆巻く蒼き怒涛を解き放ち、時を移さずして、弩級を越えた勢力同士の衝突が、現実の光景を以って天地を撹拌した。


「ぬぁあああああああ!」


 割れ鐘の如き大音声だいおんじょうを張り上げながら、エリスの放った瞑力の怒涛は、椛音より打ち寄せる七色の狂瀾きょうらんに拮抗できる程の、激甚な勢いを見せていたが、それでも尚、椛音のそれは衰えるばかりか、さらにその烈度を増していき、やがてその苛烈さに押されだしたエリスの肉体が、異様なきしみを上げ始めた。


「ぐ……っ! ああぁぁああああ!」


 やがてエリスは、椛音の瞑力に押し込まれ、その莫大な圧力の伝播を直に受けると、地表に自身を支えていた足場に身体がめり込んでいき、それまで鬩ぎ合っていた勢力の均衡が、そこに来て終に、失われた。


「――っ!」


 その刹那、逃げ場を失った光彩陸離こうさいりくりたる瞑力の濁流が、制御の檻を内部から蹂躙じゅうりんし、またそこから七色に変転する光波が、全方位に向けて耿々こうこうと拡がり、周囲に光暈こううんを象るや否や、開いた傘が閉じられるように、その彩光が瞬く間に元来た方向へと引き戻され、地平線の深海に沈んでいた太陽の影が、其処へと落ちた。


 閃光と爆轟と鳴動と。


 さらわれた夜陰の上に、七色の絨毯を敷き詰めた光景は、現世うつしよの実在とは思えぬ程に、幽玄で、壮麗で、そして何より身の毛のよだつ、ものだった。

 その中に在ってこそ、確かな存在として浮き彫られたのは、ただ一人の少女。


「……」


 少女は、その瑞々しい唇を真一文字に結んだまま、次第に薄れていく残照の川面かわもへと、風に揺蕩たゆたう羽の一片ひとひらさながらに、ふわりと舞い降りた。


 そして件の少女が、川に流れる水のように、緩やかな歩みを重ねて、方々に散らばる大地の残滓、そのある一塊の前に辿り着いた時、急にその動きを止めた。


「う……うぅ……」


 微かに漏れ出た呻きの下へと少女は手を伸ばし、そこに覆いかぶさっていた巨大な石巌せきがんを、塵埃じんあいを払いのけるかの如く、右手だけを以って彼方へと放擲ほうてきした。


 間もなく現れたのは、折り重なるようにして倒れていた、一人ともう一人。

 黒い煤に塗れたボロ切れを纏った両者は、夜陰の中に在って、一見ではうつ伏せか、仰向けなのかすらも判別し難い様相を呈していた。


 そして二人の前に佇立する少女が、徐に右の掌を両者に向けて差し出すと、程無くしてその頑なに噤まれていた口を、容易く開いてみせた。


「滅せよ……」


 ただ、その一言だけを発して、少女は、右の掌に七色の煌めきを燈すと、やがてそれは大いなる熱と光とを伴ってうねり始め、今にも彼女の手を離れようと蠢いた。


 その時。


「間、一髪……といったところかしら」


 漣のように棚引く、桃色の長髪を揺らせながら、双方の間を遮り、そこに立ち塞がったのは、一人の、小柄な体躯をした、まだ少女と思しき女性。

 しかし彼女は、眼前に佇む別の少女に対し、毅然とした態度で言葉を紡いだ。


「そこまでよ、カノン。それ以上は、いけない」


 一方、カノンと呼ばれた少女は、旧態依然として顔の色はおろか、眉根の一つすらも動かすことは無く、右の手に燈した光輝を、更に前面へと突き出して見せた。


「それ以上はあの子が……ミルルが、悲しむわ」


 その瞬間、カノンと呼ばれた少女は右の手を引っ込め、そしてその手に燈していた七色の彩光を見詰めながら、矢庭に狼狽うろたえ始めた。


「ミ、ルル……ミルル? わた、しは……一体……こんなところで何を、して――」


「カノン。あなたは、デーヴァの持つ影に呑まれた、いえ……きっと委ねたのよ。恐らくは彼女、ミルルの命を救うために」

 

「あな……たは、セラ、フィナ……さん」


「私が誰か判るのなら、あなたは大丈夫。ここでの戦いはもう、終わったから」


 セラフィナがそう言った瞬間、自我を取り戻した椛音は、膝から崩れ落ち、大きく震えだした右手を左手で制しながら、燈していた光を、終に閉じた。


「うっ、はぁ……ぁぐ……っ、は、はぁぁ……」


「今はただ、あの子のところへ行ってあげて。小難しい話はその後でも出来るわ」


 椛音は、やがてゆっくりと身を起こすと、自身の周囲を見渡し、やや離れた場所に、玉虫色の煌めきを宿す何かが、其処にあるのを認めた。

 そしてそれが直感的に、ミルルの居場所であると、椛音には感じられ、彼女は黙したまま、目的地へと向けて歩き出した。


「これ、は……」


 ややあって椛音が、手に掴んだものは、たおやかな稲穂のようにたわみながらも、春の日向ひなたを想わせる、柔らかで暖かな感触を持った繭と思しきもの。

 そしてその深奥で護られた存在を手繰り寄せるように、椛音が手を伸ばすと、そこには果たして、見紛うことなき、ミルルの姿が在った。

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