第14話 時計の針が停まる刻


 そしてエリスと視線を結んだミルルが手に生み出した大槌を構え直し、そのまま攻撃態勢を明確に示すと、エリスもまたそれに呼応するかのように迎撃態勢への移行を見せたが、次の瞬間、エリスの真下から途轍もない瞑力の奔流が、間欠泉の如く巍然ぎぜんと立ち昇った。


「これ、は!」


 転瞬の間にエリスの元へと到達した奔流に対し、彼女は瞬速の反応で自らの足元に障壁のようなものを幾重にも配したが、砂上に築いた城が押し寄せた波間に鎧袖一触がいしゅういっしょく没するのと同様に、圧倒的な眩光げんこうの洪水を前にしてエリスの姿は障壁もろとも完全に呑み込まれた。


「あれは、カノンの……それなら、あの光ごと!」


 そして間もなく、閉じていく光の中から現れたエリスの全身には、オパールの如き遊色効果を示す物質で構成された縄状の光が何重にも巻き付き、今にも反撃に転じそうな勢いを見せるエリスを牢として戒めていた。


 しかしエリスは一目で判る程の凄まじい瞑力をその身に滾らせながら、今にもその拘束を打ち破らんとする烈々たる闘志をその双眸から発していた。


「こんな……こんな、もの……!」


 そしてその様子を目の当たりにした椛音は両手を正面に突きだすと、更なる桎梏しっこくを宙空に生み出し、それをそのままエリスの五体に向けて咬ませた。


「今だよミルルちゃん! 私が、あの子の動きを封じている間に!」


 地上より立ち昇る白煙の中から現れた椛音が大きな声でミルルにそう告げると、その言葉を受けた彼女は、大きく頷いて椛音へと返し、沖天ちゅうてんの勢いで上空へと駆け昇り、やがて巨大な瞑導陣クオルトを形成した。


「我が元に集いし雷霆らいていよ……今ここに、審判の門は開かれる」


 暴発の寸前とも感じられる程の、莫大な雷光を自らの頭上に蓄えたミルルは、巨大な瞑導陣の中に立ち、自由を奪われたエリスの居る方向へと向けて、その掲げていた両手を一斉に振り下ろした。


「来たれ雷槌いかづち天崩てんほう……落瀑襲らくばくしゅう!」


 その瞬間、封域の全ては白一色に包まれ、大地はその輪郭を完全に失った。

 そして雷光一過、爆轟を追いかけるのは、耳をつんざくような破壊的音響。

 露わな四肢に感じるは、山荒の針毛を浴びたかの如き、痛覚の慟哭どうこく


 未だ完全には復元されていない聴覚の中で椛音の視覚が最初に捉えたものは、全身の力という力をほぼ失い、其処に浮いているのが漸くと見えるミルルの疲弊しきった姿であった。


「はぁ……ぐっ、あ、はぁ……っ」


 それから程無く呼吸さえままならない様子だったミルルは、意識の糸が断たれたように脱力し、そのまま重力に引き寄せられる形で空から落ちた。


「危ない!」


 そして落下したミルルを反射的に空中で受け止めた椛音は、そのままゆっくりとした速度で地上へと舞い降りた。


「あれ……カノ、ン」


 やがて片目を微かに開いたミルルは、椛音の膝元に横たわりながらその手を彼女へと伸ばし、椛音もそれに呼応するかのようにミルルの手を取り、そして握った。


「待っててミルルちゃん、今、私の力を送るから」


 椛音は自らの力を相手に受け渡す具体的な方法など、まだ何も教わってはいなかったが、ただ自然と伝わるイメージを念じるだけでそれが出来るような気がした。


「封域が……解けて、る。カノン、私達……やったのね」


 そのミルルの言葉に、椛音は崩壊したはずの大地が元通りになっていることに気が付いた。そしてそれは即ちエリスの封域が解かれ、元の空間に遷移したことを意味していた。


「ミルルちゃんが、私のためにここまでしてくれたから、何とか倒せたんだ……」


 そう言いながら隅無くぼろぼろになるまで綻びたミルルの衣装を目にした椛音は、自身の双眸に熱をもったものが自然と込み上げて来るのを感じた。


 片や椛音に膝枕をして貰う格好になっているミルルは、

「でもこの体勢は、何だか少し、恥ずか、しいね……はは」

 と、俄かに照れたような表情を椛音に見せていた。


「だけど、もう少しこのままでも……悪くは――」


 ミルルがそう続けようとしたその時、何処から飛来した凶光が椛音を直撃し、彼女はその身を大きく弾き飛ばされ、数メートル先の地面に落着した。


「カノ……ン? ウソ……うそ、嘘!」


 程無くして震える腕を杖に辛うじて半身を起こした椛音が、凶光の発せられた方向に目を向けると、そこに捉えられたのはシルファの姿だった。


「あ……あの人、は……」


 シルファが纏う鎧のような漆黒のドレスは大きく破損しており、複数個所から出血している様が見て取れ、さらにその傍らには土埃と煤と紅にまみれ片膝を付きながらも尚、力強い視線をこちらに向けているエリスの姿も在った。


「そん……な、あれだけの、攻撃を受けて、まだ、ああして……」


 やがてシルファはこちらに向かって歩き始め、未だ地面に横たわるミルルの首根を強引に掴んで持ち上げると、一切の躊躇なくその頸部に自身の剣先を向けた。


「十秒だけ、考える時間を差し上げましょう。ここで投降するか、この子が死ぬか、二つに一つ」


「逃げ……て、カノン、早く……早く、逃げてぇ!」


 何処までも一方的で残酷な宣告と、ミルルの悲痛な叫びとを突然同時に受けた椛音は間もなく立ち上がり、シルファの姿をじっと見据えると、

「考える時間なんて、私は、いらない」

 とだけ口にし、自ら揃えた両手首をシルファに向けて差し出した。


「賢明な判断に感謝します……では、エリス」


 するといつの間にかシルファの傍から姿を消していたエリスが、椛音の背後から音も無く現れ、彼女の手首に拘束具と思しきものを装着した。


「どうか、悪く思わないで。今はこうするしか、ないの」


 エリスがそう言うや否や、椛音は全身の力が抜けていくような感覚を覚え、またそれと同時に転身の際に顕われた衣装も、元の制服へと戻ってしまった。


「カノン、ダメ……そいつらに、付いて行っちゃえば、あなたは……あなたはもう! ……うぐっ!」


 シルファの手から落とされたミルルは地面に這いつくばり、そして追いすがるようにして椛音に向かって声を上げたが、椛音はただ形容し難い複雑な表情を浮かべたまま、

「きっと大丈夫……ミルル、ちゃん。私、必ずまた、ここに戻って……来るから」

 とミルルに残し、両脇に佇立するエリスとシルファに連行される形で、やがて発生した大きな光の渦に、その姿が今にも吞み込まれようとしていた。


「……カノンは、カノンは絶対に、あんた達なんかに渡さない!」


 そう叫んだミルルの足元から瞑導陣が雷樹と共に地面から立ち昇り、彼女はかがんでいた姿勢から一気に猛烈な勢いを付け、椛音のもとへとその身を投じた。

 そしてそれに対し、シルファが無言のままミルルの向かってくる方向へと人差し指を突き出すと同時に、その指先が妖しく煌めいた。


「シルファ……それは!」

「――っ、だめぇええええ!」


 椛音は叫びながら抜け落ちてゆく力を振り絞り、シルファの前に立ち塞がろうと足を踏み出したが、それよりも少し早くシルファの指先から鋭い光が放たれた。


「――ぁあ……あ、あ、あぁぁああああ!」


 緩やかに流れ出した時の中で椛音の眼前に映るものは、自分だけを見詰めながらこちらへと向かって来るミルルの姿と、迫り来る獲物を射ぬかんとする勢いで傍らより放たれた光の矢が、空間を滲ませながら標的への距離を縮めていく、現実の光景。


 そしてそのやじりが、ミルルと咫尺しせきかんにまで迫った、その瞬間。

 椛音の視界が雷閃に包まれたように突如として真っ白に染まり、彼女の中で流れていた時が、動くことを止めた。


(情け、ない……私は、守られてばかりで……結局、何も、守れなくて……)


 真っ白な空間の中で椛音の胸を過ぎるのは、誰も知らない世界で自分のことを最初に見つけてくれた、少女の笑顔。


(会って間もない、こんな私のために、いっぱい楽しい時間をくれて……なのに私は、あなたにまだ……何にも、返せていなくて)


 心の枡が、不安と寂寥せきりょう感とで今にも溢れそうな時、彼女と一緒に過ごした甘くもほろ苦い時間が椛音を絶望の淵から拾い上げ、独りではないことを教えてくれた。


(そんなあの子が、最期に独りぼっちで……居なく、なるなんて、そんなの……)


 慈愛に満ちた彼女が、笑顔の中にも時折覗かせたうら寂しげな面差し。その向こう側に手が届く前に、彼女はこのままただ露と消え去ってしまうのか。


(いやだ……いやだ……! いやだ嫌だイヤダ、ゼッタイニ、イヤダ!)


 総ての感覚と感情とがい交じり、真っ白だった空間が七色の煌めきに満たされた刻、停まっていた時が再びその針を前へと進めた。


「な……」


 シルファが放った光は物理的な障害が介在できる余地など微塵も無く、確実にミルルの身体へと到達していた、はずだった。

 しかし彼女はおろか、その隣に立つエリスでさえも、眼前に広がる光景を前に次に続く言葉を見つけ出せない様相だった。


「あ……れ……カ、ノン。私、は……」


 俄かにほうけた面持ちでそう呟いたミルルが在ったのは、七色の光輝を総身に纏い、穏やかな表情を浮かべた少女、椛音の腕の中だった。

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