第12話 守りたいもの


 「あ……その、こちらこそ、はじめまして……えっと、あなたがさっき、私に呼びかけてきた人、なんだよね?」


 椛音は、霧と入れ替わるようにして自らの眼前に現れたその神韻縹渺しんいんひょうびょうたる少女に対し、恐る恐る声を掛けた。


「そう。こちらの指示に従ってくれさえすれば、危害を加えるつもりは、ない」


 全く以って正体不明の相手と自然に会話を交わす椛音を見かねたのか、ミルルは両者の間に腕を広げた格好で割って入ってきた。


「ちょっと、いいかしら。まず、あなたは何者なの? この封域もあなたの仕業?」


「あなたに答える必要は、ない。それに、用事があるのは、こっちの子、にだけ」


 そう言って指を向けられた椛音は、異様な緊張感の支配する空間の中で、何よりもまず相手のことを知ろうと言葉を紡いだ。


「でも名前くらいは、聞いてもいい、でしょ? 私は椛音って言うの。あなたは?」


「……エリザ、ベータ。だけど周りの人は、エリスって呼ぶ」


「そう、エリスちゃん。それでエリスちゃんは、私に、どんな用があるの?」


「あなたの中に在る、往古の秘奥デーヴァ・リーラーに、用があるの。今はそれだけしか言え――」


 その瞬間、椛音の正面約数メートル先に佇立していたエリスの手足に金色の光が出現し、そのままかせの形に変化すると同時に彼女の身体を拘束した。


「もう、十分よ。あなたの目的が何であれ、狙いがカノンだってはっきりした以上はね。ここでカノンを連れて行くなんてことは、私が、絶対にさせない」


「そう。ならまずあなたを、排除する」


「やって、みなさいよ……出来るものならね!」


 椛音はそう言ったミルルの足元に、以前学院の教科書で偶然見かけた魔法陣と思しき紋様――瞑導陣クオルトが形成されたのが見えた。


「あ……ミルルちゃん、待って!」

 

 次の瞬間ミルルは、天上から霹靂へきれきと共に飛来した轟雷にその身を撃たれた。


 そして周辺の地表が、凄まじい勢いで放たれた閃光と雷電とに包まれるや否や、その悉くが瞬時に粉砕され、さらにほぼ同時に巻き起こった旋風によってその砂塵が空中へと巻き上げらげられていく。


「これが、ミルルちゃんの……」


 そしてやがてその苛烈な雷光の陰から現れたミルルの姿は、明らかな変貌を遂げていた。


 それは、黒に微かな青みが差す烏羽からすばの色彩を湛えた絢爛けんらんたるゴシックドレス。

 胸元に配された紫紺の薔薇が蠱惑こわくな輝きを放ち、螺旋さながらに張り巡らされた純白のフリルは夜空にかがよう星々の如く、その鮮麗さを自ら主張するように妖しく揺れ舞っていた。

 

「覚悟は、いいかしら?」


 ミルルは吐き捨てるようにそう言うと、縮地と見紛う程の神速で距離を詰めると同時に先の椛音との戦いで見せた大槌を自身の右手側に作り出すと、幾何いくばくの距離もない正面の方向に佇むエリスに対し、一切の躊躇が見えない渾身の一撃を弾指の内に見舞った。


「なっ……」


 椛音はミルルがエリスを急襲する直前、彼女を鎖状の光で拘束したのが確かに見えた。つまりエリスはほぼ身動きの取れない状態であったといえる。

 そしてその一方でエリスにその拘束を解いたような動きは一切見えず、加えてミルルがそのような状態下にある彼女に対して、すぐさま瞬速の一撃を叩き込んだ。

 そこから得られる結果は、火を見るよりも明らかである。


 しかし今、椛音とミルルの眼前に広がるものは、それとは全く食い違っていた。


「あれは……さっきの、白い傘?」


 猛烈な勢いを滾らせていたミルルの大槌は、エリスが左手に差していた白い傘の前でその勢いを完全に失い、まるで空中にピンで留められたように微動だにせず静止していた。


「そんな……私は、確かに拘束までして――」


 そして間もなく降り始めた氷のように冷たい雨は、エリスの白い傘の上を踊りながら流れ伝い、蒼い煌めきだけを灯して揺らめくように消えていった。


「開け、白き陰ヴァイサー・シャッテン

 

 エリスがそう言うと、ミルルからの攻撃を受け止めた際に閉じられたままだった彼女の白い傘が一気に開かれた。

 そして同時にそこから爆発的な蒼い光が全方位に向かって解き放たれ、椛音は瞬く間に広がったその強烈な閃光に視界を奪われた。


「まぶしっ!」


 それから数秒後、椛音は自身の顔を覆う指の間から徐々に復元されていく視界の中で、エリスの姿と思しきシルエットを掴んだが、彼女はそこから明らかな異変を感じ取った。


「あれ……は、もしかして槍、なの?」


 つい先程までエリスの左手に握られていたはずの白い傘は、その姿を異形な戦槍へと変化させていた。それはエリスの華奢な身体とは全く結びつかない、非常に重厚で長大な、しかしその外殻に螺旋状の構造を持つ、ある種の様式美をも見せる代物であった。


「貫け、蒼き流れブラウ・フルス


 するとエリスの槍が持つ螺旋構造が高速回転を始め、蒼い光の渦が凄まじい勢いで槍の切先に位置する一点に収束していくのが椛音にも見て取れた。


「カノン、離れて!」


 そのミルルの声が椛音の耳に届く四半秒前に、椛音の身体は直感的に危険を察知したのか、既にエリスの前方から退避行動を取っていたが、次の瞬間、椛音達の居た空間が蒼く渦巻いた光の奔流に吞み込まれ、周辺に滞留していた霧の海を一息で消し飛ばした。


「今の、もし一瞬でも遅れて――」


 椛音はそこまで言いかけて、前方から迫り来る容赦の感じられない一撃がまさに今、自身に到来する光景を眼前に捉えた。


「はっ!」


 エリスの槍は、椛音を刺し貫かんとする勢いのまま猛烈な速度を以って殺到したが、その鉾鋩ほうぼうは寸でのところでミルルの槌に勢いを殺され、その動きを留めさせられていた。


「言ったでしょう。私が、カノンを連れていかせはしないって」


 椛音への一撃を寸でのところで防がれたエリスは、無言のまま依然として顔色を一つも変えずに、その体躯からは想像もつかない速度と圧力とで、ミルルに対し様々な角度から激しい追撃を息つく暇も与えない程の勢いで浴びせかけた。


(このままじゃきっと、ミルルちゃんも危ない……私が、私がしっかりしないと!)


 椛音は自身の安全よりも、ミルルの身に危険が及ぶことを案じ、その窮地を何とかして脱しようとする一心で、自らの気力を奮い起こし、

「私だって、戦える……守られてばかりじゃ、いけない!」

 終には、自身の意思力のみで、転身した。


 椛音の転身した姿は、かつて異形の獣と対峙した際にも纏っていた瞑力の顕現、そのものだった。そして転身によるその変わり様を目の当たりにしたエリスは、ミルルへの攻撃を中断し、ある程度の距離を取った上で椛音の姿を静観していた。


「……あなた、転身できたのね」


「エリスちゃん、私は――」


 エリスの視線と注意が転身した椛音へと逸れたその瞬間、ミルルはエリスとの距離を驚くべき速度で詰め、彼女の持つ戦槍と自身の大槌とを激しく重ね合わせ、さらに鎖状の光で両者を括り付けると、その両者が接触している部分へと一気に自らの瞑力を注ぎ込み始めた。


雷破らいは滅焦刃めっしょうじん!」


 強烈な閃光を伴って爆裂したミルルの大槌は、彼女の前方に存在した障害物――エリスの戦槍を所有者もろとも消し飛ばすかの如く、圧倒的な炸裂効果と殺人的な鋭利さを誇る衝撃波とを多角的に弾き飛ばして一帯の地表を深く抉り、そして醜く切り刻んだ。


「ミルルちゃん、あの距離からあんな攻撃を……」


 一寸先の視線も通さない程の濃さを誇る煙霧の海。それはまるで高層ビルが一瞬で倒壊した時のような勢いを保ちながら方々へとあまねく広がり、周辺の視界を悉く奪い去った。


「ごめんカノン。手加減する、暇も余裕も、無くて。気づいたら無心で、辺り一帯を……吹っ飛ばしちゃってた。あの子の攻撃を、一目見て分かったの。やらなきゃ、やられるって」


 先刻の一撃に自身の瞑力の大半を瞬間的に消耗したのか、椛音の目の前にゆっくりと降り立ったミルルは、傍目はためにも明らかに疲労の色を隠せない様子で、さらにその額からは幾筋もの汗が流れ、彼女の顎先から今にも滴り落ちようとしていた。


「それに……カノン、きっとあなたは、何とかあの子を、説得して、はぁ……これ以上の戦いを、避けようと、考えて、いたのでしょう?」


 息急き切ってそう告げたミルルを見て、椛音は先の危機的な状況を何とか打開するべく無我夢中で自身の力を奮い立たせはしたものの、心の何処かでは刻々と変化する状況の中で別の平和的な解決策を常に探し続ける、そんな自分が居たのかも知れないと感じた。


 そしてどうやらその気の迷いを、ミルルは椛音の表情や一挙一動から感じ取ったらしく、それがまた椛音自身の判断と行動の遅れとなって表れた結果、ミルルが身を挺してエリスの攻撃を防ぐことになり、さらに椛音が転身しても尚、心中の奥底で渦巻く逡巡しゅんじゅんが表に漏れ出ていたことが、最終的にはミルル自身をも巻き込むかも知れない、くだんの危険な技を使わせる事態をも招いてしまったのだと、椛音はそう考え、また同時に自身の甘さを痛感した。


「ごめんなさい、ミルルちゃん……私、この状況を何とかしなきゃって考えてみたけど、それがミルルちゃんの命もきっと、危険に晒してたん……だよね」


 椛音がそう言うと、ミルルはその首を横に振りながら椛音の目を見据えて、一呼吸を置いてから息を一旦整えた後、そっと口を開いた。


「カノンが謝ることは何も無いよ。さっきのは私が自分自身で判断してやったことだし、それに、その力を完全に使いこなせない間カノンを守るのは私の役目、だからね」


 そして、徐々に薄らいでいく煙霧の方へと再び向き直ったミルルは、先程彼女自身が炸裂させ大破したはずの大槌を瞑力を結集させて再び紡ぎ出すと、その柄を両手で強く握りしめた。


「えっ、ミルルちゃん……?」


「封域が、保たれたままなの。実際術者が気を失えば、領域はとっくに消えているはず。カノン、どうやら戦いはまだ終わっていないみたい。そのまま転身を解かずに周囲を警戒して!」


 ミルルに言われてまだ煙霧の残る辺り一帯に対し、視線を飛ばした椛音だったが、人影はおろか先程までエリスが攻撃を繰り出す度に、椛音の肌身に強く伝播していた特有の瞑力すらも全く感じ取ることが出来なかった。


「あの一撃をあの距離からまともに受けて、ダメージを少しも受けていないとは考えづらいのだけれど、カノン、相手は何よりデーヴァの――」


 その時、椛音とミルルの足元から黒い鎖のようなものが現れ、たちまち二人を拘束した。


「これは……拘束術! でも一体どこから……」


 突然の事態にミルルが吃驚した様子を隠せないでいると、二人の正面から二つの影が薄らいでゆく煙霧の切れ間からゆっくりと覗いた。


「間に合いましたね、エリス」


「ええ、シルファ」


 艶やかな翡翠ひすいの光輝を宿した長い髪を揺らしながら、琥珀こはくの如き色彩を湛えた双眸そうぼうで傍らのエリスに声を掛けたのは、彼女からシルファと呼ばれた痩身長躯そうしんちょうくの若い、しかし既に成人はしているであろう、一人の女性。


 そして彼女が持つ、横に長く尖って伸びた特徴的な耳に、鎧の如き硬質な様相を呈した漆黒のドレスからは、幾何学的きかがくてきな紋様と人工的なデザインが随所に見受けられ、椛音はどこか人間離れしたような印象をその独特な外観と雰囲気から強く受けた。


「そんな、相手の仲間が、封域外から、入って来るだなんて……それに、あの子」


 ミルルにとって余程想定外の事態が起きているのは、彼女の表情からも見て取れたが、それ以上に椛音自身も驚きを隠せなかったのは、先刻ミルルからの一撃を受けたはずのエリスの身体や衣装に、何のダメージの痕跡も見受けられなかったことであった。


 しかしそんな二人の驚きを余所に、シルファは間もなく両手から光の刃が付いた剣のようなものを表出させると、身体の姿勢はエリスに向けたまま、顔の方向だけを椛音達に向けてその口を開いた。


「抵抗した以上、強制排除します」


 次の瞬間、シルファの姿が消失し、椛音の傍らで拘束された状態のまま佇立していたミルルが、突然背後の方向から尋常ならざる衝撃を受けて前方に吹き飛ばされ、およそ二十メートル程先までの地表を破砕しながら進んだ後に、漸くその動きが停止した。


「ミ、ミルルちゃぁん!」


 椛音の視線の先、砂煙の合間から見えるものは、まくれ上がった地盤の残骸のみしか無く、そこからミルルの安否を推察することは全く以って不可能であった。


 ただ確かなのは、そのミルルを急襲したのが、いつの間にか椛音の右側に立っていた無表情の女性――シルファであるということだけだった。


「あなたは最初から抵抗しなかったようですね。引き続き、こちら側の勧告に従ってさえ頂ければ、攻撃の意思はありません」


 それは、罪悪感の欠片も、自身が行った行為への呵責かしゃくも、人間的な要素が何ら感じられない、どこまでも無機質で善悪の概念すらも介在していないであろう、至極淡々とした口調。


 ミルルは実際、先制攻撃を行いはしたが、それは椛音を守ろうとした上での判断だった。そしてそんな彼女が突然降って湧いた無色の暴力によって、ただ機械的に排除されるという、その道理に思いを巡らせた椛音は、そのまま何もかもが分からなくなった。


「――け、ないで」


「今、何と?」


「ふざけないで! 私は、一方的に要求を、押し付けて……従わないなら排除するって、そんな考え方しか出来ない人達に、絶対従ったりは、しない」


 椛音がそう言ったと同時に、彼女の全身を強く戒めていた黒い鎖が、まるで大槌で砕かれた飴細工のように脆く、その全体が一気に崩れ去った。


「私にしか出来ないことなんて、まだ分からない。けど、この力で守りたいものは、分かった気がする……だから私は、負けない!」

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