第二章 それぞれの願い

第11話 霧の向こうに立つ少女


 その後屋敷に到着した椛音は、その日の疲れが一気に出たのか吸い込まれるように自室のベッドに倒れ込んだ。そしてミルルの声で次に彼女がその身を起こした頃には、既に時計の分針が約三周半分も進んでいた。


「カノン、随分と深く眠っていたようだけれど、もう身体の調子は大丈夫?」


 椛音は、まだ若干の眠気が残ってはいたものの、眠りに落ちる直前まで全身に纏わりついていた重りのような感覚はもはや無く、気力的にも思いのほか充実した気分だった。


「うん、何だか思ってたよりは、ずっと体が軽い感じ、かな?」


「それは何よりだよ。もうちょっとしたら、先生の言っていた場所に移動するから、これから一緒にその準備をしよっか」


 それからややあって、計測のための準備を終えた二人は屋敷を後にし、予めセラフィナから指定されていた地点へ向けて、飛翔術による移動を開始した。


 なおミルルによると、登下校時に飛翔術を使わないのは、同様の術が作戦行動や緊急時などの場合を除き、その使用が制限されているからだという。しかしその一方で、それが何故なのかについては、少し歯切れの悪い様子で輸送ドローンとの衝突事故を回避するためなど、様々な事情があってのことだと説明していた。


「ねぇミルルちゃん、先生は順調なら三十分ぐらいで終わるって言ってたけど、本当かな?」


「まぁ先生はああ見えて、必要な時間の見積もりに関しては結構、アバウトなところがあるからね……」


 夜の帳が降りたことで、地表では人々の営みを示す灯りが煌々と浮かび上がり、そして飛行を開始してから二十分余りが経過したところで、二人は目標地点へと到達した。


「指定された場所はこの辺りだよ、カノン。こちら側の準備が出来るまで、ちょっとだけ待っていてね」


 そしてミルルは観測機器を起動させ、最初に必要な設定項目を手際よく入力し終えると、間もなく訪れる指定の時刻までそのまま待機するよう椛音に指示した。


 なお事前に決めていた手筈としては、ミルルが観測機器による空間データの計測および監視を行い、片や椛音は指定区域の空間を計測する目的で人工的に展開した領域を、自らの瞑力によって安定維持させる役目を担うことになっている。


「じゃあカノン、開始時刻になったから、早速始めるよ!」


 ミルルの設定により、指定時刻を迎えると同時に機器は観測を開始し、椛音もまた展開された領域に自身の瞑力をゆっくりと伝播させ始めた。


「ねぇミルルちゃん、私、これで本当に合っているのか分からないんだけど、こんな感じで間違いないんだよね?」


「ふふ、いい感じだよカノン。こっちには必要なデータがどんどん入ってきているから、引き続きそのままでお願いね」


 椛音は、そのまましばらく言われた通りに自身の瞑力を展開領域内に流し続けたが、計測自体は滞りなく行われているようで、一方のミルルは立体モニターを見つめながら、時折何かを入力するような動作を見せていた。

 しかし計測を開始してから十数分が経過しようとしていた頃、ミルルが何らかの異常を解析された観測データから見つけたのか、その眉をひそめ俄かに首を傾げた。


「何かおかしい……これは、空間の歪みが、今まさに出てきているってこと?」


「あれ、ミルルちゃん、もしかして何かあったの?」

「それが、今観測中の領域内で、急に妙な空間の歪みが現れていて……どうにも様子が妙だから、一度先生に連絡を――」


 ミルルがセラフィナに連絡を入れようとしたまさにその時、上空から突如として顕われた奇妙な瞳から発せられた赤い光が、地上に居た二人を一瞬で包み込んだ。


「あれは……眼? それにこの赤い光は、一体何の……」


 そう言った椛音が、不可思議な光の溢れ出している場所を訝しげに眺めていると、間もなくその領域が周囲の光と共に歪み始め、そして間もなく彼女はその大きな眼のような何かと、直接目が合った。


(やっと……見つけた)


 聞き覚えのない玲瓏な女声が椛音の耳の中に入り込んだのも束の間、椛音達を包んでいた赤い光もまた、その眼が瞬くとほぼ同時に消失し、夜陰の中に全て溶け込んでしまった。


「ねぇミルルちゃん、今のは一体、何、だったの……?」


 椛音が呆然とした表情で、かの眼が浮かんでいた場所に視線を囚われていると、ミルルはこれまでにない程の大きな異常をデータ上から読み取ったのか、非常に慌てた面持ちで椛音の元へと駆け寄り、その腕を強く掴んだ。


「カノン、ここは、この空間は普通じゃない! 今すぐにここから離脱するよ!」

「えっ、普通じゃないって、一体どういう――」


 椛音はミルルに、今一体自分達の周りで何が起きているのかその詳細を尋ねようとしたが、椛音は彼女からの返答よりも先に非常に強い寒気を感じたかの如くその全身に鳥肌が立ち、さらに周囲の空気そのものが急激に重くなったような、得体の知れない感覚に襲われた。


「そんな……これはまさか、封域、なの?」


「ふう、いき? ミルルちゃんは、この妙な感覚の正体が、何なのか分かるの?」


 ミルルの説明によれば、彼女の言う『封域』というものは、術者となる人物が瞑力を用いて自身の想念を空間ごと強く具象化し、加えてそこに目的の相手を封じ込めることで、対象の逃亡を阻止すると共にまた自身の能力も最大限に発揮できる、亜空間結界術の一種だと言う。


「それで、ここから逃げる手段は……」


「封域は、術者の強固な意思の力によって構成されているわ。故にそれを解放できるのは、基本的にその術者のみなの」


 椛音がミルルと話している間にも、二人の居る封域ではその色彩と温度とが急速に失われ始め、そしてそれと同時に辺り一帯を霧のようなものが包み込みつつあった。


「ねぇミルルちゃん、何だかさっきからこの空間、酷く寒いよ……」


「落ち着いてカノン、大丈夫だからね。きっと先生達もこの異変にすぐ気が付くはずだわ」


 自然と互いの死角を補うようにミルルと背中合わせの形になった椛音は、凍えるような空気と先を見通せない霧の中で、いつどこから仕掛けて来るか分からない相手の動きに対して最大限の注意を払いながら、その出方を待っていた。

 しかし、そこで最も先に何かを感じたのは、椛音の目でも耳でもなく、肌だった。


「えっ、これは……もしかして雨?」


 それは雨粒と呼べるほどの大きさすらも持たない、いわゆる霧雨と思しきものだったが、周辺の気温と何処からか吹き始めた風も手伝って、椛音の体温を奪うには十分だった。


「カノン、ここは術者の支配する領域だから、何が起きても不思議じゃない。そして必ずこの封域の内側に術者は居る。だから絶対に、気を抜かないで」


 ミルルにそう言われて、周辺の異変に対して警戒態勢を維持していた椛音だったが、突如としてその頭の中にデーヴァのものではない、別人の声が闖入ちんにゅうした。


(そこの……金の髪をした、あなた)


 それは、今にも消え入りそうなまでにか細い、でも何処か芯の通ったような、鈴のの如き響き。そして先刻、奇妙な瞳と共に訪れた声とよく似た、少女のものと思しき透明な音色。


「え……? この声は、一体、誰、なの?」


「カノン、一体どうしたの? 何か、聞こえたの?」


 謎の声は、ミルルには全く聞こえていない様子で、あくまで椛音自身にのみ感じ取れる、思念通話のようなものだった。そしてその声の主は、椛音との意思伝達に支障が無いことを確認したのか、椛音の頭の中で、その音声を再び響かせ始めた。


(時間が無いから、単刀直入に、話す。私はあなたに……いいえ、あなたの中にあるものに、大事な用があるの。今はどうか何も聞かず、ただ私と一緒に、ついて来て欲しい)


「ちょっと、待って。姿も見せずに、一方的にそんなことを言われても、私はきっと、あなたの力にはなれないと思う。せめて、顔ぐらい見せて貰えない、かな?」


(ん……分かった)


 すると椛音の正面奥の方向にたちこめていた霧が、何かに吸い込まれるように消失し、さらにその奥から人影のようなものがこちらに向かって歩いてくるのが見え始めた。そしてやがて、そのシルエットは次第に明瞭なものとなっていく。


「あれは……たった今、私に話しかけてきていた、女の、子?」


 二人の眼前に姿を現したのは、両者とほぼ変わらない背丈をした、ひどく線の細い少女。彼女の纏う、新雪の如く一点の曇りもない白妙の衣装は、舞台上の白鳥を思わせる様相を呈していた。

 そして間もなく少女が、自身の左手に差していた白練色の傘を上げると、その陰に落ちていた容貌がついに浮き彫りとなって、正面に立つ椛音達の瞳へと浮かび上がった。


「はじめ、まして」


 それは、氷洋の水底に沈んだ光のように淡く煌めいている、蒼い双眸そうぼう

 それは、生きている人間の温度がまるで伝わってこない、白皙はくせき氷肌ひょうき

 それは、背筋が凍る程に流麗で左右にわかれた、銀の輝きを纏う髪。


 椛音は、この世のものとは思えないその幽娟ゆうえんなる麗姿に、思わず驚嘆の息を漏らし、ほんの一瞬、時が抜け落ちたかのような感覚に陥った。

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