第一章 新たなる日々
第3話 セラフィナ・モルガーナ
それから十数分後。
ミルルに導かれた椛音が屋敷玄関にある
それから間もなく車が緩やかに発進し始め、両脇に鮮やかな色を湛える
そしてさらに
なお同施設への移動中、椛音はミルルに自分が覚えている限りの全てを自分なりの言葉で伝え、そしてミルルはその内容を良い相談役と形容した何者かに、電話越しに連絡している様子であった。
「さぁ、行きましょうカノン。ここは私の通っている学院で、今日はお休みなんだけれど、先生に連絡したら今も研究室に居るって仰っていたから」
そう言ったミルルに案内されるがまま、椛音は見知らぬ校舎の中を歩き、いくつかの階段を越え、長い廊下を経た先で、先生が居るという部屋の前へと辿り着いた。
そしてミルルが、間もなくその部屋のドアをノックした。
「先生、ミルルです。先にお電話でお話した子を連れて参りましたわ」
すると部屋の向こう側から、先生という割には随分と若い、椛音たちとほぼ変わらないぐらいの声音をした返事が聞こえてきた。
「ドアなら開いているわ。入っていらっしゃい」
「カノン。こちらが私の教わっている、セラフィナ先生よ」
ミルルに紹介されたセラフィナという女性は、桃色の髪が左右に
加えて、その背丈や先に聞こえた声音からして、ミルルが先生と呼称していた彼女の外見年齢自体は、まだ小中学生ぐらいにしか見えない様相を呈している。
またセラフィナは、椛音達が部屋に入ってきた時から、背をこちら側に向けたままの格好で、大きな黒板に描かれた奇妙な記号や数式と思しき文様、無言で眺めている様子で、どこか声を掛けにくい雰囲気を醸し出していた。
「えっと、初めまして、セラフィナ先生。私は、椛音といいます」
「初めましてこんにちは、カノン。セラフィナ・モルガーナよ。ミルルから大体の事情は聞いているわ」
そう言って振り返ったセラフィナは、
「あなたは……一、今自分の居る場所が判らない。二、どうやって来たかも覚えていない。三、おまけに頭の中で変な声がする……といった、実に
と、一つ一つ数えるように指を立てて見せながら、椛音にそう尋ねた。
「は、はい。その通りです」
セラフィナはうんうんと、小刻みに頷き、
「そんな中であなたが覚えていることは、蛇の文様が入った奇妙な辞典を見つけ、突然大きな力を手にし、眼前に迫る異形の獣をその力で退けた……と」
そう言いながら椛音に向かって指を差し、その瞳の先に射抜くような視線を投げかけた。
「で、今はその子の中に居るんでしょ? あなた」
セラフィナが尋ねた相手は、明らかに椛音の中に居る正体不明の声の持ち主であり、そして彼女の問いかけから間もなく、
(まさかこんなにも早く、この子の前に戻ってくるとはね)
と、頭の中からセラフィナの問いに対して肯定の意とも取れる返答が聞こえた。
「あの、セラフィナさんはこの声の正体を知っているんですか?」
「ええ。それの名前は『デーヴァ・リーラー』。又の名を
セラフィナが言った『デーヴァ・リーラー』という名称に、椛音は自らのおぼろげな記憶の中で、それが微かに聞き覚えのあるものだと感じた。
「この辺りで少しは詳しい説明があってもいいんじゃないかしら? カノンにとっては特にね」
(是非もないわね……ほら、これであなた達にも聞こえるでしょう)
それまで椛音の頭の中だけで響いていた声が、部屋の中にいる者達全てに共有されているのか、ミルルの表情からは明らかな驚嘆の色が見えた。それに対してセラフィナは表情はおろか眉根の一つさえも動かさず、
「ええ、感度良好よ」
と、だけ返答し、その指に自らの巻き髪を絡ませて見せた。
そして椛音は、自分の中に棲む存在に一番の疑問を投げかける。
「あの……どうして、私を?」
(あの時は、他に選択肢がなかったから、ね。私自身が単独で存在を維持できるのは、特定の次元世界の中だけ。それ故に消滅から逃れるためには、一刻も早く誰かと融合する必要があった。だけどそれは私があなたを選んだ理由としては、半分でしかないわ)
「半……分? じゃあ、もう半分は何、なの?」
(それはあなたが、私の声を感じ取ることが出来たから、よ)
それを聞いた椛音が思い出したのは、自然公園で地面に蒼白く
「確かにあの時、私を呼ぶ声が聞こえた……けど」
(実はね、私の声を感知できるのは、私を宿すだけの資質がある、ごく一部の類稀な存在だけ、なのよ)
しかし椛音は、今現在、この部屋にいるセラフィナやミルルもデーヴァの発する声が届いていることに注目した。
「だったら、私なんかよりも、同じようにあなたの声が聞こえているセラフィナさんが、持つべきものなんじゃ――」
(現に今、こうして他者に私の声が届けられているのは、あなた自身が声を中継する媒体になっているからなのよ。そしてそれもまた、私を宿す資質がある者だけが成せる技ね)
するとそこまで椛音とデーヴァとのやり取りを静観しながら傾聴していたセラフィナが、納得した様子で口を開いた。
「なるほど。でもこれで二つハッキリしたわね、ミルル」
「ん? 二つ……ですか?」
「ええ。一つは椛音が別の世界の住人であるということ。そしてもう一つは、椛音に瞑術の資質があるということよ。それも恐らくは、桁違いのね」
それを聞いた椛音は、根本的な疑問の存在に気がついた。
「べ、別の世界? でもセラフィナさん、それって、おかしくないですか?」
「あら、それはどうして?」
「だって……私とセラフィナさん、そしてミルルちゃんも、私と同じ言葉で普通に会話ができてるじゃないですか」
セラフィナは、ふんと鼻で笑いながら、椛音の疑問に返答する。
「簡単なことよ。あなた自身はきっと、無自覚でやっているのでしょうけれど、それは瞑術における応用術の一つ、
「ぐろそ、らりあ?」
「人の声が持つ音素には、それを発した者の思念イメージが含まれている。
するとその話を聞いていたデーヴァが、誇らしげな調子で椛音に付け加えた。
(ちなみに、この世界の言葉なら全て私の中に入っているから、カノンは手書きの文字でなくても瞬時に読み取れるわ。それが例え古代語だとしてもね。それに、頭に言葉を思い描きながら何かに手で触れれば、文字として起こすことも可能よ)
「……だ、そうよ。良かったわねカノン。会話はもとより、文字の読み書きにも苦労はないわ。ひょっとすると私達より良く出来たりしてね」
そう言うセラフィナにポンポンと肩を叩かれた椛音は、どんどん進んでいく話の中で、当事者である自分自身だけがいつの間にか置いていかれているような、ある種の不安感を募らせていた。
「いや、あの……それは有難いんですけど、そもそも、くおりむとかっていうのが何なのかもはっきりとは解らないし、何よりその、私が自分の世界に戻る方法っていうのは、ある……んですか?」
するとセラフィナは口元に人差し指をあてながらその視線を上に向け、少し考えるような素振りを見せながら、椛音の質問に答えた。
「ふむ……前者に関しては幾らでも教えてあげられるけれど、後者に関しては難しい話ね。デーヴァ、カノンが元居た世界の次元階層と、転移前の空間座標は解る?」
(残念ながら、その情報は記録されていないわね。私自身、保管場所が襲撃を受けた時、自動発動型の瞑術によって、別の空間に緊急転移することになったまでは良いけれど、その途中、周囲の空間に妙な歪みが生じたことで、さらに予期せぬ場所に飛ばされることになったのよ)
「そうなると一つ解せないのは、カノンは一体どういう手段を用いてこっちの世界に来たのか、ってことね」
(それは、私の所有者となったカノンが、心身共に消耗した状態で意識を失った際、自己防衛機能が働いて本来最初に移動するはずだった場所へと飛んだのよ)
椛音にとっては、セラフィナとデーヴァの間で交わされる会話の内容が、依然としてほとんど理解できていなかったが、両者の言葉から推察される結論は、何となく感じ取ることが出来ていた。
「よく解らないけど、つまり私は、元の世界に帰れない……ってこと?」
「今すぐには、無理ね。だけどその辺りは私が何とかして見せるわ。先日までデーヴァが保管されていた周辺空間の分析結果が出れば、何かしらの手がかりは得られるはずだから」
「ほ、本当ですか! なら、帰れる可能性、まだ少しはあるんだ……」
失われかけた希望が、まだ微かに残存していることを知って、椛音は未だ払拭できない不安の中でも少しだけ安堵した表情を浮かべることが出来た。
そしてセラフィナは、がくりと落ちる寸前だった椛音の肩に両手を乗せると、
「だからそれまでは、ミルルの所でお世話になりなさい。ミルル、それで問題ないわよね?」
と、それまで黙って話を聞いていたミルルの方に視線を向けながらそう尋ねた。
「勿論ですよ先生! カノンが大変なことに巻き込まれてしまった以上、一番最初に見つけたこの私が、最後までしっかり責任を取りたいと思いますわ!」
セラフィナのあまりにも突然すぎる提案と、それを即刻快諾したミルルにやや
「ん、良い返事だわ。さて、それじゃあ私は色々と新しい用事が出来たみたいだから、あとのことはミルルに任せるわね」
と、そんな椛音を尻目に、セラフィナは
「ありがとうございました先生、カノンのことはお任せを!」
「あっと、セラフィナさん……その、今日は本当にありがとうございました。私、突然ここに押しかけて来たのに、色々と話を聞いて下さって嬉しかった、です。これからもきっと、色々セラフィナさんには、ご迷惑をおかけすると思――」
椛音の言葉を制するように、セラフィナは彼女の唇に左手の人差し指を当てた。
「それ以上は大丈夫よ、カノン。それより――」
セラフィナは椛音の唇に当てた指を戻すと、
「私達の世界、エスフィーリアへようこそ、カノン。私達は、あなたの来訪を心から歓迎するわ」
握り返した時に触れたセラフィナの手は、とても暖かく、そして不思議と大きく感じられた。
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