第4話 とても甘くて、ほろ苦い


「ミルルちゃん達の居るこの世界は、エスフィーリアっていうんだ?」

 

 帰りの車中、椛音は不安が大半を占めつつあった自身の心中で、わくわくとした気持ちが徐々に大きくなっていくのを感じていた。


「そうだよ! ちなみに私が住んでいるこの辺りは、アヌール地方って言うの」


「へぇ、そうなんだ。山とか緑が多くて自然が豊かだし、ミルルちゃんのお家で朝、窓から山の香りがして良かったな。それに、ここの街並みがとっても素敵だなって思ったよ」


「ほんと? 田舎って思われるんじゃないかって考えてたから、カノンに気に入って貰えたのは嬉しいな。あ、カノンが住んでる場所はどんな感じなの?」


 椛音はつい二週間ほど前に引っ越してきた、玉響市の風景を心の中で思い浮かべた。今は近くて遠い、新しいのに懐かしい、でも空の高さはこことよく似た、故郷と呼ぶにはまだ早いそんな風景を。


「実は私、今の家には引っ越してきたばかりなんだけど、近くに海があって、そこに広がる港町の風景とか、潮の香りがする風だとか、あと海鳥の声なんかも個人的にはすごく気に入ってる、かな」


「へぇ、家から海が見えるんだ……いいなぁ! この辺りには海はないけど、少し遠くに、クウェルっていう大きな湖ならあるんだ。今度、一緒に行こうよ。とっても水が綺麗なの」


「うん、もちろん。私も見てみたいな、その湖」


 ミルルは、その紫瑪瑙むらさきめのうのような大きな瞳を燦々と輝かせると、とても嬉しそうな表情を見せながら弾んだ声で椛音に話しかけた。


「それでね、カノン。今日は私にとっても、せっかくのお休みだから、この後街で一緒にお買い物とか、甘いものを食べたりしない? その、もちろんカノンが良かったら、だけど……」


「ふふ、それは楽しそう。ミルルちゃんが案内してくれるの?」

「するする! 案内案内! 任せてカノン!」



 ***



 しばらくして椛音がミルルと共にやってきた街は、石畳で築かれた道に人が行き交い、そこにネコやウサギ、馬等の動物を象った特徴的な看板を出す小さなお店が立ち並び、そして風に乗った鐘の音が遠方から優しく鳴り響いてくる、とても趣き深い場所であった。


「さぁカノン、一緒に行きましょ!」


 ミルルは椛音の手を引っ張りながら、水を得た魚のように軽やかなステップで石畳の上を早足に歩いた。それまで彼女は明るく振舞いながらも、時折どこか少し陰が差したような表情を浮かべていたが、今の彼女からはそんな気配は微塵も感じられなかった。


(ミルルちゃん、すごく嬉しそう)


 それからしばらく歩いた二人は、ミルルのお気に入りだという洋服店に入った。


 店内は外観以上に広く、カジュアルなものからミルルが今まさに着ているようなゴシック調のドレスまで、実に幅広いジャンルのものが数多く展示されており、また友達連れだと思われる、椛音と同年代と思しき女子が、楽しそうに洋服を選んでいる様子が見て取れた。


「それじゃあ今日は、カノンのお洋服を選びましょ!」


 椛音はミルルにそう言われたものの、自分がこの世界の住人ではなく、ましてやそこで使える通貨などは一切持ち合わせていないことを改めて思い出した。


「でもミルルちゃん、私、この世界のお金なんて持って――」

「そんなの気にしないの! ほら、どれでも好きなの選んで!」


 それはさすがに、と言おうとした椛音の唇をミルルは指で制し、

「私はね、今の私に出来ることがしたいの。自分のことを誰も知らない世界に、たった独りぼっちで来たカノンが、少しでも喜んでくれたらって。だから……ね?」

 と、右目をぱちりとウインクして見せながら椛音に微笑んだ。


「ありがとう……ミルルちゃん」


 椛音はミルルが自分に対して、どうしてそこまで親切に接してくれるのかその理由がはっきりとは解らなかったが、事実、自分のことを知っているのは自分しか居ないこの孤独な世界で、そんな彼女の真っ直ぐな気持ちが伝わってきたのかその瞳をじわりと潤ませた。


「え、カノン……? 泣いて……るの? 私、何かカノンの嫌なことを……?」


「ううん、全然違うの。ミルルちゃんがすごく優しいから、何だか自然に涙が出てきちゃって……」


 一瞬、沈んだ顔をしたミルルだったが、椛音が見せた涙の理由が解った彼女は、弾けるような笑顔を見せながら薄い桜色のハンカチを取り出し、

「もう……カノンったら、可愛いんだから! 涙なら、私が拭いてあげる」

 と言いながら椛音の涙を優しく拭い取っていった。

 そしてそんなミルルのハンカチからは、仄かにさくらんぼのような香りがした。


「さ、元の可愛い顔に戻ったところで……改めて、お洋服選びの、スタートよ!」

 椛音は、ミルルの優しい気持ちを決して無碍むげにはしまいと、彼女と一緒に自分好みの洋服を探し始めた。


 そして、椛音が目当てのものを見つけては試着を行い、ミルルがそれについての感想を言うという、そんなやり取りが何度か繰り返された。しかしそんな中でミルルが突然、何かを閃いたような表情で椛音に対して口を開いた。


「カノンはすっごく可愛いんだからさ、もうちょっとだけ冒険してみない?」


「冒険って、例えばその……ミルルちゃんが今着てる、みたいな?」


 その一言を待ってましたと言わんばかりに、ミルルが笑壺にった嬉しそうな表情を浮かべると、間もなく椛音はミルルのコーディネートによる、いわば着せ替え人形と化すことになった。

 そしてその様子をちらちらと見ていた他の客たちも、次々と変わっていく椛音の衣装にいつしかその視線を集中させ始めていた。


「あぁ、カノン、なんて可愛いの! 次はこっち、いやあっちも……いえ、もう全部ね!」


 そう言いながら、一人で興奮していたミルルは完全な暴走状態に入っており、椛音に試着させた洋服をあろうことか全て購入しようとしていた。

(あはは……あれ全部買っちゃう、のかな。そういえば私、何着かは自分で着てるとこ、じっくり見てなかったかも……)

 その後、洋服の注文とその配送の手続きを済ませたミルルは椛音と共に店を後にし、自分の一押しだというオープンテラス様式のクレープ店へと彼女を案内した。


「あはは……ごめんねカノン、私さっきはちょっと暴走しちゃってた……かも」


 椛音と共にテラス席についたミルルはそう謝罪すると、生クリームの上に幾重にも注がれたチョコレートソースと、アーモンドスライスがまぶされたクレープに小さな口を大きく開いてかじりついた。


「ううん、私ならぜんっぜん、気にしてないよ。むしろ今まで着た事がない可愛いお洋服がたくさん着れて、すごく嬉しかったぐらいだから」


 椛音はミルルにそう返すと、カスタードクリームの中に大きなリンゴがふんだんに入れられたクレープを頬張り、間もなく幸せそうな表情を浮かべた。


「ミルルちゃんオススメの店だけあって、ここのクレープ、すごく美味しいなぁ」


「カノンの方もすごく美味しそう……あ、そうだ。一口ずつ交換してみない?」


「うん。それはいいかも。ミルルちゃんの方も食べてみたいな」


 するとミルルは、自分のクレープを椛音の口元へと差し出し、

「それじゃあ、私からね。はいカノン、あぁんって、して」

 何の臆面も無く、微笑みながら椛音にそう告げた。


「えっと……それ、じゃあ……あぁん」


 椛音は少し頬を赤らめながら照れくさそうにそう言って、ミルルが差しだしたクレープを食べた。


「……あ、こっちもおいしい! チョコもいけるね!」

「ほんと? じゃあカノン、次は私の番! ほら、食べさせて?」


 そう言って目を瞑り、口を開けたミルルの姿を見て、椛音は自分たちが行っている一連のやりとりが、急に小恥ずかしく思えて来た。


「う……これって意外と恥ずかしい、ね。何だか、恋人同士みたいでさ……何気にその、間接キスにもなるし」


 その椛音の言葉に、少しの間を置いてから急に何かを意識してしまったのか、ミルルはその顔を仄かに紅潮させた。


「……間接、キス? も、もう、変なこと言わないで! ほ、ほら、カノン、早く」


「う、うん。じゃあミルルちゃん、あぁんして」


 ミルルに促されるまま、椛音がその口元へ自分のクレープを差し出すと、急に振って沸いた照れくささを誤魔化すように、彼女はその小さな口を再び大きく開けて、目一杯に齧り付いた。


「んん! これ、しゅっごくおぃひいね! カノン!」


 大きく頬張りながらもごもごと感想を述べるミルルは、リスが口一杯に木の実を頬張っているようにも見えて、椛音からは思わず笑いが溢れた。


 その後もアクセサリー類が多く置かれたファンシーショップや、椛音用にと立ち寄った食器店等で、明らかに他と桁の違うものを何の躊躇いもなく勧めてくるミルルに、椛音はその都度驚かせられながらも、非日常であるはずの中で感じられる日常的な時間を、今の自分に提供してくれているのは他の誰でもない彼女であると再認識し、その彼女のどこまでも真っ直ぐな想いを心から嬉しく感じていた。


 そしてそのせいか、時の流れは椛音の想像以上に速く、椛音がふと気づいた時には既に陽が傾いていた。


「今日は本当に楽しかったね、カノン! 私のお買い物にも付き合ってくれて、どうもありがとう!」


「ううん、ありがとうを言わなきゃいけないのは私の方だよ。ミルルちゃん、今日は本当にありがとう! それに私、ミルルちゃんにあんなに一杯買って貰っちゃって……何だか悪いなぁ」


 今日一日で、ミルルに買って貰った品物の総額が一体どれ程の金額になっているのか、椛音自身全く想像がついておらず、ミルルの勢いに気圧された一面もあったとはいえ、彼女の世話になり過ぎている自分が非常に申し訳ないという感情が、その胸中で沸々と大きくなっていた。

 しかしミルルは、先ほどまでと変わらない調子で極めて明るく椛音に返した。


「そんなの気にしなくていいから! 私達は知り合ってまだ一日しか経ってないけど、二人で色々話をしたり一緒にお買い物を楽しんだり、食べ比べまでしたりして……それってもう、友達でしょ? 私、友達が困っているなら、やっぱり助けてあげたいから!」


「うん、ありがとう……いつか何かの形で、ちゃんとしたお返しが出来ればいいんだけれど」


「私はね、カノンと一緒の時間が過ごせてとぉっても楽しかったんだよ? 本当、私にとってはそれだけで十分だから!」


 紅み差す夕陽に照らされたミルルの顔は、屈託のない笑みで満ち溢れていた。


「それじゃあカノン、そろそろお屋敷に戻りましょう。ここの近くに車を待たせてあるから!」


 そして間もなく車へと乗り込んだ椛音とミルルは、先程までお互いが共有していた楽しい時間をもう一度味わうように、取りとめのない話に花を咲かせた。

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