第5話 期待と不安の交差点


 それから屋敷に戻ってきた二人は、ビュッフェ形式の非常に豪勢な晩餐を、お互いにとって未知の世界である各々の故郷の紹介を交えながら、共に楽しんだ。


 そして数時間の時が経ち、夜のとばりがすっかり下りた頃、ミルルは椛音を屋敷の大浴場へと案内した。なおミルルは椛音と一緒にお風呂へ入りたい様子だったが、自身の両親に今回の一件を詳しく報告しなければいけないとのことで、椛音に先に入るよう薦めた。


「ええっと……これって、お風呂、だよね?」


 ミルルに『ここがお風呂よ』と案内された場所は床の一面が大理石で敷き詰められ、天井の一面は湯気でも曇らないガラスのようなもので覆われており、そこから満天の星空を見渡すことができるのに加え、浴槽の中央にはそれぞれ四方を向くように配された純金で出来ていると思しき四体の大きな獅子像があり、その口からは勢いよく乳白色のお湯が溢れ出ていた。


 そしてそのお湯が注がれている湯船の広さは、一般的な学校に設置されている二十五メートルのプールと比較しても全く遜色が無い程の、圧倒的な容積と存在感とを誇っている。

 椛音は、等間隔に複数配置されたシャワー付きの金蛇口が据えられた一角で、軽く身体を流した後、風呂場とは思えない異常な広さに戸惑いながらも白く煙る湯船にその身を浸した。


「うわっ、これ、ジャグジーってやつなのかな? すっごく、気持ちがいいなぁ……」


 それは方々から生み出されては踊る無数の気泡が心地よく触れていき、いつの間にか溜まっていた身体の疲れを、全面から優しく解してくれるようなまさに至福の一時。どうやら泡は、椛音の居る位置を感知した上で出てきている様子だった。


「誰も知らない世界にいきなり飛んで来て、一時はどうなるかと思ったけど……こうして、何故か物凄く贅沢な時間を過ごさせて貰っているっていうのが、本当に不思議な気分」


(ふふ。私に感謝しなさいよ、カノン)


 広大な浴場に居たのは、確かに椛音一人ではあったが、彼女は自分の中に別の存在が棲んでいることをそこで改めて認識した。


「そうだ、デーヴァが居たんだった……。そういえば、さっきは何故かずっと静かだったよね?」


(まぁ、あんなにお熱い光景を見せ付けられたら、流石の私もねぇ)


「あ、熱いってなに! 突然喋りだしたと思ったら、変なこと言って」


 椛音は、湯船の温度から来るものではない別の熱さを感じて、顔を赤らめた。


(それにしてもあの子、あなたとの時間を、心から楽しんでいるようだったわね)


「ミルルちゃん、直接口には出さなかったけど、お家の人が居なくて独りで寂しい思いをしていたんだと思うの。だからきっとずっと前から、誰かと楽しい時間を思う存分、共有してみたかったんじゃないかな」


 椛音は、ミルルとの買い物の途中、彼女が街の中で楽しそうな親子連れを見かける度、ほんの一瞬ではあったものの、非常に物悲しそうな表情を浮かべていたのを思い出した。


「うんと小さい頃から、なのかな……。私、こっちに来てからミルルちゃんには色々として貰ってばかりだけど、そんな私でもミルルちゃんのために出来ること、ちゃんと考えたいよ」


(そう。ただ、そんなに難しく考えなくても、答えは意外と単純だったりするのかもしれないわ)


 デーヴァの言葉に、椛音は一度だけ頷いて、

「正直言って、まだよく解らないことばかりだけれど、ここに私が来た意味、帰るまでには見つけられるといいな」

 と呟きながら、名前も知らない煌きの群れがあまねく瞬く大海原を仰いだ。


「きっと何処かに……あるはず、だから」



 ***



 それからしばらくして大浴場を後にした椛音は、ミルルから今後も自由に使ってね、と割り当てられた部屋へと戻り、ベランダで独り佇みながら涼んでいた。

 ミルルによると、今の季節は初夏であるらしいが、日中から夜に至るまで明確な暑さを感じることは不思議となく、特に夜になってからは椛音にとっては少し涼し過ぎる程であった。


「この世界の月って、二つもあるんだ。私、今本当に違う世界にいるんだなぁ……」


 椛音の目線の先で浮かぶ、二つの月。

 片方は彼女が知っているものよりも二周り以上は大きく見え、仄紅ほのあかい煌きを妖しく燈し、もう片方は美しくもどこか不気味な雰囲気を醸し出しながら蒼白く輝いていた。


「今頃、あっちでは私が居なくて大騒ぎになってるのかな……うぅ、そう考えたら急にまた心配になってきた」


 自分はいつ帰れるのか。そもそも、帰れる方法は見つかるのか。

 仮に帰れたとしても、この状況を皆にどう説明するのか。

 様々な不安と想いが、椛音の心中を駆け巡っていた。


 そんな時、耳に入ってきたのは、ドアを叩く音。


「カノン、ちょっと今、良いかしら?」


「あっ、ミルルちゃん。どうぞ」


「じゃあ、入るね」


「ミルルちゃん見て? パジャマ早速使わせて貰ってるよ。これとっても可愛いね」


 椛音はそう言うと、雪の結晶をモチーフにした柄が配されている、アイスブルーの色をしたパジャマの裾を掴みながらミルルに微笑んで見せた。


「まぁカノン、すごく良く似合ってるわ。ちょうど良いのが今は私のお古しかなくって、何だかごめんね」


「ううん、私は気に入ってるしサイズもピッタリだから、全然大丈夫だよ! それよりミルルちゃん、何か大事なお話? もしかして、セラフィナ先生から何か報告とか?」


 訳も解らないまま、別世界に飛ばされた自分が、元の世界に帰るための方法。

 それが、一日で解決できるような事案でないことは重々に承知しながらも、椛音はほんの少しの期待を胸に抱きつつ、ミルルにそう尋ねた。


「あぁ……その、先生からはまだ何も。でもねカノン、安心して。先生は必ずカノンを元の世界に戻す方法を見つけてくれるはずだから」


「うん。こればかりは簡単じゃないだろうし、ゆっくり待つことにするよ」


 するとミルルは、右手の人差し指を、ピンと立てて見せながら、

「それでね、カノン。ここで私から一つ、提案があるの」

 と唐突に告げ、椛音は首を少し傾げた。


「提案?」


「えっと、その、カノンが、自分の世界に帰る手段が見つかるまでの間だけ……私の通っている学院に、体験留学生として一緒に出てみない?」


「わ、私が、ミルルちゃんの学校に?」


「そう。一応、私の遠い親戚としてね。細かい手続きとか申請は先生が全部、巧くやってくれるはずだから」


 ミルルの言葉の一部からは、明らかに妙な含みが感じられたが、椛音にとっては純粋に興味をそそられる提案であるように感じられた。


「ミルルちゃんの行ってる学校かぁ。確かに興味はあるけど、その……大丈夫なのかな、色々と」


「実はね、先生からの承諾はもう取ってあるの。だから、カノンさえよければ……どうかなって思って」


 数秒間の逡巡しゅんじゅんを経た後、椛音はミルルの提案に対して自分なりの結論を出した。


「私は……一緒に、行ってみたい、かな」


 すると夜にもかかわらず、まるで日中の陽光を浴びたようにミルルの表情がぱっと明るく煌いた。


「ほんと? やったぁ! カノンと一緒に学院に行けるなんて……私、すっごく楽しみだよ!」


 大きな声を出しながら、心の底から喜んでいるように感じ取れるミルルを見て、椛音自身も未だ不安な気持ちは払拭できないながらも、同時にそれを遥かに上回る期待感の高まりを感じた。


「そ、そんな大袈裟な……でも、そう言って貰えると、私も嬉しい、かな」


 そしてその高まりがミルルにも伝播したのか、彼女のテンションが最高潮に上がって見えた。


「じゃあじゃあ、週始めになる明後日ぐらいから、早速行っちゃう?」

「え、ええ? あ、明後日から? そんなこと、出来るの?」

「もちろん全然大丈夫よ! 先生には後で私から連絡しておくからね!」


 完全に舞い上がった調子のミルルは、そう言うと元来たドアの方へ颯爽と歩いていった。


「え、連絡って――」

「それじゃあ、カノン、今日はおやすみ! また明日ね!」

「あ、えっと、お、おやすみミルルちゃん」


 ふふっと笑いながら椛音の部屋から出たミルルが、鼻歌混じりに間もなく屋敷の廊下を軽やかに駆けていく音が、ドア越しに聞こえた。


(それにしてもあの子、あなたのことになると途端に大胆になるわね)


「あはは……何と言うか途中からすごい勢いだったなぁ、ミルルちゃん」


 ミルルからの提案を聞くまで椛音は、これから自分の身に降りかかるであろう出来事に対し、不安や恐怖といったネガティヴな感情しか湧いてこなかったが、不意にミルルが口にした『学校』を示す言葉が、椛音にとっては自分と自分が元居た世界とを結び付ける存在となり、そしてそれが安心感にも似た感情を与えてくれたような気がしていた。

 そしてそんな時、ブルルルルと、近くで何かが振動している音が突如として椛音の耳に入ってきた。


「あれこの音って……あっ! あれ私のスマホだ! でもこれ、さっきまでここに無かったよね?」


 別の世界に居るにも関わらず、一体誰が自分に連絡してきたのか、と考える暇もなく、椛音は自分に連絡してきた相手を確かめようとした。


「これは電話の着信……? しかも通知不可能って、一体誰から?」


 椛音は、正体不明である相手からの着信に、恐る恐る受話ボタンを押した。


「もしもし? 椛音、だけど」


「あらカノン。私の声、聞こえている?」


 急に鳴りだした電話の向こう側から聞こえた声は、椛音にとって確かに聞き覚えのあるものだった。


「この声は……セラフィナ、さん?」

「ええ、私よ。突然ごめんなさいね。カノンの端末を通じて、こちら側から通信ができるかどうか、ちょっとテストをしてみたのよ」


 電話の相手が一応は見知った相手であることを知って椛音は安堵したが、同時に自分の番号を何故セラフィナが知っているのかが、いささか不思議であった。

 少なくとも、彼女に自分の番号を伝えることはおろか、自分の端末をこちら側に持ってきていたこと自体、椛音にとっては今しがた知り得た情報である。


「そうだったんですか。でも、どうして私の番号を?」


「カノンが倒れていた場所に、一緒に落ちていたものだって、ミルルが言っていたわ。それで何かの手がかりになるかも知れないから、内部をスキャンしてデータ解析をしたのよ」


「あぁ……なるほど。それで、こうやって連絡ができたんですね」


「あとは、こちら側とより詳細な通信ができるように、ちょっとした改良もね。ちょっと近くのテーブルか何かの上にその端末を置いて、『立体モニター、起動』って言ってみて」


 椛音は言われるがまま、近くにあったテーブルの上にスマートフォンを置き、

「ええっと、立体モニター、起動?」

 と、口にするや否や、端末のディスプレイから浮かび上がるように大きな立体画面が現われ、そこに今まで通話していたセラフィナの姿が鮮明に映し出された。


「あらカノン、可愛いパジャマね」


「すごい……画面が、浮いてる」


「とまぁ、こんな風に通信できるようになったわけ。それにしてもミルルはカノンにこのこと何も説明していなかったのね。あの子にしては珍しいけれど……」


 どうやらミルル自身は件の提案をすることで頭が一杯で、セラフィナに説明するように言われていたことを失念していたようだった。


「ところで、ミルルからの提案は聞いたかしら?」


「あ、はい。明後日から一緒に学校に行かないか、って話ですよね」


 それを聞いたセラフィナは、自らの額を右手の人差し指で押さえながら、苦笑混じりにその眉根を少し歪ませているように見えた。


「全くあの子ったら。そちらの件は忘れずに、ちゃんと言ってあるのね……それで、カノンの答えはもう?」


「私なりに色々考えましたけど、私は一緒に行きたいなって、そう答えました」


「そう。早くて、勇気のある決断ね。無論カノンにとっては、触れるもの全てが未知で不安に違いないだろうけれど、敢えてそれに飛び込んでみるのも悪くはないはずだから」


 ミルルの通う学院で、初対面の瞬間から明らかにそこの教師だとは思えない容貌であったセラフィナ。

 そしてその印象は、画面越しでも依然として変わらなかったが、彼女の発する声からは何故か全ての不安を取り除き、そして優しく包み込んでくれるようなある種の包容力とも形容できる、不思議な暖かさが感じられた。


「それで、あの……ミルルちゃんが、手続きとかはセラフィナさんが全部してくれるって言ってましたけど、こんな私のために色々として頂いて、本当にありがとうございます」


「事の原因は、全てこちら側に責任があるの。だからカノンが気に病むことは何もないのよ。それに何よりあなたは、私達にとって大切なゲストなのだから」


「私、きっとこれから、セラフィナさんに一杯迷惑をかけちゃうと思いますけど、今の私にできそうなことがあったら何でも精一杯頑張りますので、どうかよろしくお願いします」


「大丈夫よカノン。失敗を恐れずに、まずは何でもやってみるといいわ。せっかくこのエスフィーリアに来たのだから、カノンがここでしか出来ないと思ったことは特に、ね」


 別の世界から来た自分が、ここでしか出来ないこと。

 それが一体何なのか、椛音自身には想像もつかなかったが、彼女はまず今の自分に何が出来るのかを探すことから始めようと考えた。


「それじゃ、あまり話が長くなってもいけないから、短いけれどこの辺りで失礼するわね。ではまた、学院で会えるのを楽しみにしているわ」


「はい、セラフィナさん。おやすみなさい」

「ええ、おやすみカノン」


 セラフィナとの通話が切れるとほぼ同時に、立体モニター上には通信が終了したとの通知が表示され、何も無い空間に浮かんでいた画面が瞬時に消失した。

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