第2話 夢の夢は、夢なの?


「んん……」


 瞼の向こう側から柔らかな拡がりを見せる、明るい光が満ちた暖かな世界。

 微睡まどろみの園から一歩進めば、心地よく耳に触れてくる鳥達の優しい歌声。

 そして頬をくすぐる爽やかな涼風からは、仄かに山の香りが感じられた。


「いい……匂い」


 出来ることなら時を忘れて、このまま常しえに沈んでいたい。

 しかし新たな朝の訪れは、平等に、突如としてやってくる。

 カァァン、コォォン、カァァン。コォォン。カァァ――。


「え?」


 次の瞬間、開くことを忘れていた瞼の帳が一息にその幕を開けた。


「これって、鐘の音、だよね……?」


 はっとして辺りを見回した椛音は、自分の部屋だと思っていた場所がそれとは明らかに違う様相を呈していたことに気がついた。


「そうだ、窓……」


 側にある大きな窓から周囲の様子を伺おうと、椛音はベッドから飛び起きた。


「ここ……って、一体、どこ、なの?」


 普段ならば、自室の窓から見える風景は、蒼く広がる海とそこに面した大きな港、まだ見慣れてはいない街並み、そして自然公園一帯の森林のみであったが、今椛音の眼前に映し出されたそこには、中世の様式と思しき豪奢ごうしゃな建築物に噴水のある広大な庭園が広がり、少し遠くに見える大きな時計台からは、鐘の響きが今もなお耳の奥に流れ込んでくる。そして更に遠方には、緑一面の山々が盆地のように連なっているのが確認できた。


「えっと、これって夢……だよね。それに確かさっきまで何だか変な夢を観てて、でもその前に確か一度夢から起きて……ええっと、夢の夢は、夢……なの?」


 自身がおかれた現状を理解しようと、目覚める前の記憶を整理し始めた椛音だったが、彼女はその中で零れ落ちる自分の言葉が全く理解できないでいた。

 そしてそんな中で、椛音の頭の中に鐘の響きとは異なる音がこだました。


(おはよう、眠り姫さん。やっとお目覚めかしら?)


「そうそう、確かいきなりこんな声がして……って、ちょっと待って!」


(あら、どうしたの?)


「この声、聞いたことがある! けど、それも確か夢の中で……」


 椛音の頭の中で、断片的ながらも次々と再生されていく夢と思しき記憶の欠片。

 おぼろげな記憶を手繰り寄せていく中で、彼女は異形の獣に強烈な一撃を見舞ったこと、自身の服装が変化して莫大な力が溢れたこと、分厚い辞典のようなものを見つけたこと、そして夜に流星のようなものを見つけて、その軌跡を追いかけたことなどを順々に思い出した。


(残念だけれど、これは、夢じゃないのよ)


「はは、えっと、嘘……でしょ? というかそもそも何で、私の頭の中に声が?」


(私とあなたは契約して、融合体ネクサスとなったの。これは、その影響よ)


「ねくさす? それよりも今、私は――」


 そのまま続けようとした椛音の言葉を遮るようにして、コンコン、と部屋のドアをノックする音が彼女の耳に届いた。


「あ……う、えっと、は、はい!」 


「あ、目が覚めたのね! それじゃ、入るわ」


 ドアの奥から聞こえたのは、女の子の声。

 だがそれは、全く聞き覚えのないものだった。


 間もなく開かれたドアから現われたのは、椛音と同年代と思しき少女。

 真っ直ぐに伸びた、とても長い濡羽色ぬればいろの髪に紫瑪瑙むらさきめのうの煌きを宿した大きな瞳を輝かせる彼女は、ゴシック調の黒く優雅なドレスを身に纏い、きょとんとした表情の椛音の顔を覗き込みながら、

「えっと、まずは……おはよう、からだよね。じゃあ、改めて。おはようございます!」

 と、開口一番、元気な挨拶を椛音にして見せた。


「あっ、う、うん。お、おはよう、ございま……す?」


 椛音は、自分のおかれた現状が全く理解できないながらも、見知らぬ少女から発されたいきなりの挨拶に、素のままで挨拶を返した。


「ふふ。私は、ミルル・アンテリージェ。ミルルって呼んで」


「ミルル、ちゃん?」

「そうそう! それで、あなたは?」


「私は……かのん、彩月椛音あやつきかのんっていうの」


「カノン……カノンっていうんだ。素敵なお名前ね」


 何故か成り立っている不思議な会話に戸惑いながらも、椛音は今の自分がおかれている状況を知るべく、目の前の少女からその手かがりを探ろうとした。


「あ、ありがとう。それであの……私は……」


「ああ、いいの。私が爺やに言って、ここまで勝手に連れてきちゃったんだから」


「じいや? 連れてきたって、私は……その、一体どこにいたの?」


「カノンはね、近くの教会で倒れていたの。それを早朝の礼拝に来た私が見つけたのよ。きっと貧血か何かかなって。心配しなくてもこの後、ちゃんとお家まで送っていってあげるわ」


 ミルルが話した内容から、椛音は自分が今居る場所とその周辺の様子が、自分の知っているどれとも合致しないことを改めて実感した。


「えっと、それは、とってもありがたいんだけど……」


「今日はお休みの日だから、学校に遅れる心配もなくて良かったじゃない。とにかく一度顔を洗って、さっぱりするといいわ。それでもしよければ、私と一緒に朝食でもどうかしら?」


(ふふ……何だか不思議な展開になってきたわね、カノン。私はしばらく見守っているわ)


 依然として、何よりも不思議な正体不明の声が、自らの頭の中で鳴り響く中で、椛音はミルルに連れられるがまま大きな洗面所へと導かれ、そこで洗顔を済ませた後、彼女に朝食が用意されているという部屋へと案内された。


「さぁ頂きましょ、カノン」


「あ、うん。いただきます……」


 椛音が着いた、ロココ様式にも似た長いテーブル上には、バスケットに入った焼き立てのパン、スクランブルエッグにベーコンやソーセージ、スパゲティなどもあり、さらにはコーンスープと思しきものに加え、サラダやフルーティな香りを放つ水果の盛り合わせといった、より取り見取りの彩り豊かな朝食が整然と並べられていた。


(何だか、見たことない食べ物や果物もあるけど……どれもおいしそう)


「どうか遠慮しないで食べてね。それと、飲み物は私と同じものでも良い?」


「う、うん……ミルルちゃんと同じで」


 すると、後ろに控えていた使用人と思しき年配の男性が、

「かしこまりました」

 と、流れるような動きでその色味から察するにグレープジュースと思しきものを椛音のグラスへと注いだ。


「あ、すみません……ありがとうございます」


 椛音の言葉に、彼は笑顔で会釈だけを返すと、そのやんわりとした物腰のまま後ろへと引き下がった。


(ミルルちゃんのお家って、きっとものすごいお金持ちなんだろうなぁ……でも)


 椛音はある違和感に気づいた。朝食であるというのに、広いテーブルに用意されたのは自分とミルルがいる席だけのもので、彼女の両親の気配が全く感じられないのである。


「あれ、ミルルちゃん。お父さんやお母さんはもう、朝ごはん先に食べちゃったの? そういえば私、まだ挨拶もしてな――」


 椛音の問いに、ミルルの表情がほんの一瞬、暗く沈んで見えた。


「あぁ……私のパパやママはね、お仕事の関係で外国に滞在していることが多くって。だから、どっちもほとんど家には居ないの」


 ミルルの返答に、椛音はしまったと感じたと同時に、屋敷内に漂う人の居る気配が、使用人のそれを含めても極端に希薄だったことに納得がいった。


「そうなんだ……何だかごめんね、いきなり変なこと聞いちゃって」


「ううん、いいの。たまに外国からお土産を送ってくれるし、よく画面通話とかもしてくれているから、そこまで寂しくはないもの。それに、今はそれよりも――」


 そこまで言って、ミルルの暗く沈みかけていた顔が、椛音の瞳の中で急に明るく映った。


「カノンのことが気になる、かな」


「えっ、わ、わたし?」


「カノンって、きっとこの辺りの人じゃないのでしょう? 一体どの辺りから来ていたの?」


 先程の話から、久方振りの客人であろう椛音にまさに興味津々といった感じで、その大きな瞳を更に大きく弾ませながら、ミルルはそう尋ねた。


「私は、玉響ってところに住んでるんだけど」


「タマ、ユラ? やっぱり聞いたことがないなぁ。この辺りからは、遠いの?」


「それがその、私、ここがどこか……よく分からないん、だよね」


 ミルルはその椛音の言葉を聞くや否や、非常に驚いた様子を見せると、非常に心配そうな表情で彼女を見詰めながら口を開いた。


「それって、ほんとなの……? 一時的な記憶喪失っていうものなのかな……」


「ここに来る前にきっと色々あったと思うんだけど……どうも、まだ完全には思い出せてなくて。それにこんなこと信じて貰えないかもだけど、さっきから頭の中で変な声が、するの」


(変な声とは失礼ね。私は美声よ?)


 タイミングよく響いた例の声に、椛音は自らの頭を指先で何度か叩きながら『今もね』と、ミルルに囁いて見せた。


「私は信じるよ、カノン。それにそういうことなら私、とても良い相談相手を知っているわ!」


「えっ? いい、相談相手……?」

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