第1話 現実と非現実と


 頭の中に、突如として入り込んで来たのものは、声。


 それは紛れも無く人の、それも何処か威厳の感じられるような女性の肉声。

 しかし椛音かのんの両足は、何故頭の中で人の声がしたのか、また一体それは誰の声なのか、等といったことを考えるよりも先に動いていた。

 

 確かに、へと向かって。


「何、これ……何、なの」


 椛音の両眼が捉えたモノ、それは人でなければ動物ですらなく、表面に幾重にも重なる蛇の模様が描かれた分厚い辞典のような書物であった。

 そして、それを包み込むように沸き立つ蒼白い炎が、風前の灯の様に今にも消えてしまいそうな程儚く揺らめきながらも、どこか屹然きつぜんと其処に在り続けようとしている。


 「何で、こんなところにこんなものが……さっき空から落ちてきたのが、本当にこんなものだっていうの?」


 戸惑いを隠せない椛音を尻目に、彼女の頭の中で再び声が鳴り響く。


(この――、――私の姿が、見え――)


「私、一体どうしたらいいんだろう……」


 持ち主の判らなかったその声の輪郭は、

(――の声が、もし聴こえているなら――返事をして頂戴)

 蒼白く燻る大きな書物の目の前に来て、ついに確かなものとなった。


「えっ、ええっ? や、やっぱりこの声ってこの本から? 私、ひょっとしてまだ夢を見てるんじゃ……って、痛たたた!」


 今ある現実を夢だと疑った椛音は、非常に古典的な方法ながらも、念のために自分の頬をつねって確かめてみたが、其処から得られた痛みを伴う答え自体は彼女の眼前で広がる奇景が決して夢ではなく、紛れもない現実で起きていることの証明に他ならなかった。


(ごめんなさい、今の私には時間が無いの。早急にこの……尋常ならざる事態を許容して、この今だけは何も疑わず、私に協力して欲しいの)


「うわあぁっ! や、やっぱり、やっぱりこの本が喋ってる!」


 そう叫びながら大慌てでその場を走り去ろうとした彼女だったが、その退路の前にはこの世のものとは思えない、異形の存在が既に立ち塞がっていた。


「い、いやぁあああ! な、ななななんなの……あれ!」


(本当に厄介ね、こっちの世界までついて来るなんて)

 

 現実の中で次々と生じる非現実に狼狽する椛音を他所に、書物の様相を呈したそれは、彼女の恐怖を振り払い、怯えきったその心に冷静さを取り戻させるかのように先程からは考えられない、轟雷の如き大音声だいおんじょうを彼女の頭の中に響き渡らせた。


(あなた! 死にたくなければ今すぐ私を手に持って、頭上に掲げながら私の言う通りに唱えて!)


 何も信じられない世界で、今はその声だけが、椛音にとって自分を導く灯火のように感じられた。

 そして椛音はその声に教え導かれるまま、目の前で横たわっているくだんの分厚い書物を震える手で一息に拾い上げると、それをそのまま頭上に掲げてみせた。


「こ、こう?」


 そうして持ち上げた書物は、見た目に反して驚く程に軽く、重さが全く感じられない不思議なものだったが、椛音はそれと同時に自分の胸にとても暖かいものが広がっていく感覚を覚え、先程まで自身を支配していた恐怖が嘘のようにその鳴りを一斉に潜めた。


(いいわ。とにかく落ち着いて、私の言葉の後に続いて唱えるの! いくわよ!)


 不規則にうごめきながら迫り来る異形の物体を前にして、椛音はただ強く、声の主に頷いた。


(我、邃古すいこ叡智えいちを受け継ぎ、往古おうこ秘奥ひおうを御するに値せし者なり)


 危機的な状況の中で浴びせられる、意味の分からない言葉とその羅列。

 しかし何故か椛音は、その言葉の後に続くことができた。


黄泉よみ氷鏡ひょうきょうに誓い、は我が一部と相巡りて、無辜むこなる黔黎けんれいを救う盾と成り――)


 注がれた水が乾いた大地へと流れ込んでいくように、不思議な言の葉は、椛音の奥深くへと吸い込まれていく。


野卑やひなる愚物ぐもつほふる、光のつるぎと成らん)


 その時、椛音の目先にまで迫り来ていたこの世ならざる存在は、ついに自らの四肢をかたどり、躍らせ始め、間もなく三つの瞳を妖しく開くと、猖獗しょうけつを極めた気息と共に、その涎末ぜんまつを口角から方々へと激しく撒き散らしながら椛音を自らの獲物だと定めたのか、彼我ひがの距離を一息の内にゼロ近くにまで縮めた。


(我が躯命くめい果てるその刻まで、いかなる時も共に在らん事を)


 醜い幻妖の深く剥かれた牙爪が、椛音の白い肌を紅く染めようとした、四半秒前。


「開け、デーヴァ・リーラー!」


 椛音の声と、かの書物から発せられる声と思しき音とが完全に同期し、桜色の閃光がたける異形の獣を、一息に吞み込んだ。


「グギャァアアァア!」


 降りかかる火の粉を退けたのは、椛音の足元から突如として湧出し、そのまま上方へと向かって円筒上に伸びた、煌々と輝く桜光の柱。そしてやがてその光は炎の如く揺らめき、彼女の全身を庇護するかのように目まぐるしく躍動し始めた。


(どうやら……上手くいったようね)


「一体何がどうなって……あれ、さっきの化け物がいつの間にかあんなに下の方に……って、ええっ!」


 頭の中で響く、その落ち着き払った声とは裏腹に、椛音の思考は受け入れがたい情報の連続に対して、既に停止寸前の状態にまで追い込まれていた。


「あの、まさかこれって、私、空に浮い……ちゃってる?」


 椛音は空に立ち、つい先程まで自らが足を付けていたはずの公園内を鳥瞰ちょうかんしていた。だが彼女にその風景を悠然と眺めていられる余裕は欠片程も無く、その身体は眼前に広がる非現実的な光景を前にして、動く事を完全に忘れていた。

 そもそも一体どういう理屈で自分の身体が空中に浮いているのかさえ、椛音にとっては皆目見当もつかない。


(すっかり驚いているようだけれど、これは、あなた自身の力なのよ)


 許容し難い現実の怒涛に翻弄されつつある中で、椛音は頭の中に響くその声だけが、不思議と今だけは一番信頼できるような気がしていた。

 そしてその声に少しの冷静さを取り戻した彼女の中で、凍りかけていた時の針が再び動きだす。


「ちょ、ちょっと待ってよ! 私自身は今、自分が一体どうなって、何が起こってるのか、頭の整理が全然追いついてないの!」


 上空に逃れた獲物を再び自らの視界に捕らえた獣は、三つの瞳を鮮血のような赤に染め、大きく開けた口から、空を震わせるような咆哮ほうこうと共に、唾と思しき液体を椛音の居る方向へと飛ばした。


(危ない、避けて!)

「ひあっ! な、なんなのよ!」


 かの獣が突然吐き出したそれは、咄嗟の回避行動に移った椛音の傍らを掠めながら放物線を描き、やがて公園内の屋外灯へと直撃したが、それを受けた屋外灯は瞬く間に溶解していき、僅かばかりの残滓だけを遺してその大部分が完全に蒸発してしまった。


(恐らくは強酸性の溶解液ね。まともに受ければ、骨すらも残らないわ)


 つい先程まで屋外灯だった何かを眼下に捉えた椛音は、その残骸を思わず自分の姿に重ね合わせてしまい、間もなくその全身を彼女にとって未知の戦慄が襲った。


「じょ、冗談じゃないよ! は、はは、早く何とかしないと!」


(大丈夫。これから、あなた自身の力を用いて、転身するのよ)


「その、てんしん……っていうのをすれば、あいつをやっつけられるの?」


(当然よ。自分の胸に手を当てて、こう強く、命じなさい)


 未だ正体の判らない声と共に、心の深奥から別の意識が流れ込んでくるような感覚が、今成すべきことは何なのかを椛音に伝え、まるで息をするように言葉が自然と溢れ出す。


霊装変化アヴァターラ!」


 その後間も無く、桜色の光炎に包まれた椛音は、全身に熱と莫大な力が漲るのを感じ、自分という存在そのものが別の新しい何かに置き換えられていくような感覚に囚われた。

 そしてやがて彼女を厚く包んでいたたけほむらが、白い靄と共に一陣の爽涼な夜風によって浚われると、それまで頑なに隠されていた深奥が遂にその姿を覗かせた。


(上出来よ、お嬢さん)


 椛音が改めて自分の体に目を配ると、先程まで着ていた衣服、明らかに違うものに変化していた。


 それは淡い白を基調とし、奇妙な金紋様が描かれた、ドレスローブのような衣装。

 妖精の羽の如くしなやかに伸びた前開きのスカートが、薄暗い夜空に揺れ舞い、桜の花弁にも似た猛き残炎の燐粉を、粉雪と見紛う様相で大地へと降らせていた。


「すっごい……体の中から熱い、力みたいなものが溢れてくる。それにこれは……杖、なの?」


 いつの間にか椛音の右手に握られていたのは、杖のようなもの。

 それは、木なのか化石なのか、はたまた金属なのか、一見では判別のつかない物質で構成されていた。そしてその先端には太陽のように燦然と光り輝く光玉が紅焔の如き煌めきを放っており、更に三日月状に歪曲したフレームがそれを包み込むような形になっていた。


「この不思議な服もそうだけど、この杖もまるで空気みたいに軽い……」


(色々説明したいところだけれど、詳しい話は後よ。今はとにかく、前を見て!)


「えっ、前って言っても、あの化け物はまだ下に居――」


 椛音に化け物と形容されたその異形の物体は、もはや彼女の眼下ではなく、彼女の前方、約十数メートルの位置にまで迫ってきていた。


「ちょっ! あ、アイツも空飛べるんじゃない! 話が違うよ!」


(あれが飛べない、とは一度も言っていなかったはずよ。何にせよ奴はここで片付けないと)


「片付けるって……それは、私が?」


(ええ。あなたはまだ自分の力を巧く扱えないでしょうけれど、あの程度の相手であれば必ず勝てるわ。さぁ、その両手に持った杖を、今すぐ前方に構えて!)


 椛音の前方に居たはずの物体は、既に彼女の眼前数十センチの距離にまで迫っており、その鋭利な牙歯げしを一気に突き立てる。だが、それらが彼女の肉体を穿うがつことは叶わなかった。


「くあぁあっ! お、重い!」


(気をしっかり持って! 防御障壁シールドを貫かれるわ)


「そ、そんなこと言ったって! くっ、ええいっ!」


 すると椛音の意志に呼応するかのように、既に結成されていた障壁が破砕したのと同時に強烈な衝撃波が前方に発生し、僅か半秒前まではその目の前に居たはずの獣を遥か眼下に広がる地面へと叩きつけていた。そしてそれによって強烈な衝撃を受けた獣が、呻き声とも取れる奇声を発しながら一時的にその動きを止めた。


「えっ、今の私、が?」


障壁爆砕シールドブラスティング――あなた、感覚だけでやってのけたようね)


「あいつが倒れてる……なら、今こそ攻撃のチャンス、だよね!」


(ええ。今のあなたが持ちうる限りの力を全て、アレにぶつけてやるといいわ)


 考えるよりも先に体が動く。それは不可思議ながらも心が躍る、そんな感覚。


「この体の奥から沸いてくる、不思議な力を杖の先に集めて……」


 杖の先に集束してゆく光の粒が、一つの大きな光球を急速に形成してゆく。


(そう、自身の力を一点に集中させながら、瞬間的に練り上げるのよ。そして――)


「解放する!」


 一つの大きな光球から三つに分裂した光弾は一気にその弾速を増し、地面に力無く横たわる獣の姿を完全に捉えた、はずだった。


「ええっ、何でなの!」


 高速で放たれた三つの光弾が、その目標に向かって一斉に着弾するよりも一秒ほど早く、獣の体が急に横方向へと動き、それらをことごとく回避した。


(きっとまだ力の制御が甘いんだわ。いいこと? あの光の弾は放たれた後でも、あなたの意志通りに動いて――)


 頭の中に響く言葉よりも先に、椛音が持つ杖の先では再び光の粒が集約されてゆく。先程よりも更に速い形成速度と遥かに強大な力場とを伴って。


「今度は絶対に、当ててやるんだから!」


(これは、彼女の持つ力が……収束、している)


 杖の先で形成された力場の内側では、遠方から視認できるレベルにまで集約された高密度のエネルギー体が生成され、間もなく周囲の空間そのものまでもがさざなみのように流出する桜炎のうねりで僅かに振動し始めていた。

 そしてその力場が制御限界を迎えようとしていたまさにその時、突如として急速に息を吸い込んだ椛音は、その双眸そうぼうをかっと見開くと、その崩壊寸前の力場を一気に解き放つための号令を轟かせる。


「当たれえっ!」


 桜花の光彩を湛える強大な力の奔流は、御伽噺の空を翔ける蛇竜ワームの如くひとえ蜿蜒えんえんと伸び続け、再び空中へ浮上しつつあった獣を捕らえると、大地を猛烈な勢いで抉りながらその異形の物体を容易くほふり、最後は耳をつんざく程の爆轟と共にその悉くを完全な灰燼と帰した。


「や、やった! 当たった、当たったよ!」


(大したものね、あなた)


 遠方で土煙と共に沸き立つ桜色の煌きを満足そうな面持ちで眺めながら、やがて地上にゆっくりと舞い降りた椛音は、そのまま崩れるように地面へとへたり込んだ。またそれと同時に右手にあった杖は忽然と消失し、先程まで纏っていた服装もまた元の普段着へと戻っていた。


「あ、あれ? 何だか急に力が……抜けて」


(あれ程の力を、一気に放出した直後なんだから、そうなるのも仕方ないわね)


「うぅん……何だかものすっごく眠くなってきちゃった。はは、早く家に戻って寝なお……さなきゃ」


 極度の恐怖と緊張との後に、入れ替わるようにして訪れた大きな安堵感によって椛音はその場に膝を落とし、そのまま眠りに落ちてしまった。


(どうやら、眠ってしまったようね……あら?)


 椛音が倒れた辺りの空間が俄かに波打ち始め、やがて半円状の多面体を形成すると、シャボン玉の表面に浮かぶ虹彩のように不規則で且つ歪な流れが、その多面体の表面全体を巡るように生み出された。

 そして間もなく強烈な閃光が空間内部から発され、その光が椛音を完全に吞み込むや否や、彼女の姿ごと跡形もなくその場から消失させた。

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