>>7 神原夢望は手放せない。

 ……ゴクリンコ。

 ゴールデンウィークの前半休みの終わる、月曜日。

 俺は一筋の冷や汗を流しつつ、道端にただ一人立って唾を飲み込んでいた。いや、一人なのはもはやデフォだと考えると俺は一筋の冷や汗を流しつつ、道端にポツンと立って唾を飲み込んでいた、が適切か。

 まあ、それはいい。大事なのは俺が立っている場所と今から行う行動にあるのだから。

 俺は昨日の流れからして当然というか、半ば義務感でここまで勇んでやってきたのだが。

 ……怖くなってきた。しかもよくよく考えると俺は今度は女子の部屋に訪問するってことじゃん。なんで最近難易度高めのミッションが多いのだろうか。

 そう、俺が今立っているのは神原の家の前だ。表札に筆字で書かれた『神原』の字が俺の精神を圧迫する。

 この場所は昨日篠崎に聞いた。本人に確認をせずに住所を教えてもらうのはどうかとも思ったが、いかんせん緊急事態だ。多少のモラルは欠如してしょうがあるまい。

 とにかく、来てしまった。そりゃあありもしない浮気を疑われたら来るしかないのだろうが、俺は若干後悔していた。

 昨日、『ここは俺がなんとかするから』って言い出した手前、引き下がることができなかったし、あのあと篠崎に対して『お前が行っても疑われるだけだしその後の関係が心配だ。だから俺に任せておけ』なんて格好つけてしまったのだ。

 最近、女子と二人きりになるシチュエーションといい、俺の異常さレベルが群を抜いて急上昇している気がする。それがここ数日間だけで、というのも異常だ。たとえるならユーチューバーを始めたばかりの新参者が一本目の動画で即日急上昇ランキング一位を取るくらい異常だ。……うーん、わかりにくかっただろうか。

 ……そんな話は置いといて現実を見ろ俺。いくら意識を外へ追いやったって超能力者じゃあるまいし、勝手には何も変わらないんだから。

 ゴクリ。もう一度唾を飲み込んでから指をインターホンへと伸ばす。

 ピンポーン……。

『はーい』とスピーカーから聞こえてきてまもなくドアが開いた。

 緊張が高まっていく中、そこから出てきたのは。


「あ、倉永くんじゃない。どうしたのいきなり」


 神原の深夢の方だった。

 ホッという安堵といっそ神原が出てこいよというもどかしい気持ちがないまぜになりながら、俺は挨拶がわりに手をあげた。もちろん、視線はうわの空である。


「ちょっと神原と会いたくて」


「神原って私のことかしら?」


「なわけないだろ。神原といったら向こうの方だ」


 完全に口調がタメになってるのは致し方ない。俺、敬語苦手なんだ。先生とか年離れてるならともかく先輩とかだと。


「へえ。意外と熱いところあるじゃない」


 ニタァ、という効果音が聞こえそうなほどニヤけてるのがわかる声音で深夢が感心してくる。


「そういうのはいいから。今大変なんだ」


 俺がせかせかしているのを見て何かしらは察してくれたらしい。


「……それじゃあとりあえず上がりなよ」


 その言葉に甘えて、俺は神原家の門扉を潜った。


 ……家の中はいい匂いで充満していた。なんだ、これ。女家族が多いと家の中はこうなるものなのか?

 少なくとも母親と小学生の女がいる俺の家ではこんな匂いはしない。

 なんだろう、こう、俺のような一男子高校生を惹きつけていくような……。

 ……変態じみてきたのでこれ以上はやめておこう。


「えっとね、実はまだ夢望起きてないのよ」


 ひとまずリビングへと案内されて椅子に腰を下ろした頃に深夢が申し訳なさげな声を発した。


「ちょっとここで待っててくれる? 今準備させてくるからさ」


 深夢はそう言って席を立ち、リビングから出ていった。奥の方から階段をのぼる音がする。

 手持ち無沙汰になった俺はなんとなくスマホを出して起動しつつ、さて実際に神原に会ったら何から始めれば良いのやら、と考えていた。

 本当にどうするかね。誤解なんだ、から始めたらもうそこでダウトを叫ばれそうだし、かといって何もなかったように振る舞うとそれはそれであなたは浮気に抵抗ないんですね、みたいなことを言われそうだ。この程度はなんとなく想像がつく。

 じゃあどうすればいいのか、と行き詰まって俺はグーグル大先生に頼ることにした。『浮気 勘違い 言い訳』で調べてみる。

 ぞろぞろぞろ、とサイトが並ぶが、なんか妻とか恋人に疑われた時という結構重い感じだったので即座にタスクから消した。

 ……うん、やっぱりネットには頼らない方がいいな。あくまで自分で解決策を見つけなければ。

 結局、俺が疑われてるのって全くの勘違いなんだよな。これは俺にとって大きなアドバンテージになりうる。

 そう、これを俺の高二病思考回路ネットワークに繋いで演算すると……。

 結果は出た。つまり俺は後ろめたいことなど何もないのだから、おどおどせずにただ堂々としていればいいのだ。必要があれば、篠崎を叶人と付き合っているという設定にすればなお良い。前、あんな仲良さげだったんだからそれは大いにありえるだろ。

 ……と、ちょうど俺が作戦を決めたところで、今度は階段を下がる音が聞こえて、まもなく深夢がまたリビングに入ってきた。


「起こしてきたわ。まあ、付き合っているのだし、積もる話はいろいろあるでしょうから、夢望の部屋でゆっくりしていきなさい。ついてきて」


 その手招きに応じて俺はリビングから出て、すぐ側の階段を深夢に続いてのぼった。ところどころある窓辺にちっちゃい小物が置いてあったり、装飾を施された額縁が壁に掛かっていたりして、やはり俺の家とは違うということを思い知った。隅々までおしゃれが行き届いていていっそ清々しかった。

 階段をのぼり終わると、いくつかあるドアの内のひとつで深夢が足を止めた。


「ここよ。私飲み物とか準備してくるから。じゃあごゆっくり〜」


 いつかどこかのギャル的女子から聞いたことのあるようなフレーズを俺に浴びせると、深夢は階段を降りていった。


「うーん、あの人は無口系のガチ清楚キャラだと思ってたんだけどなあ。意外とおどけてたりして見た目と合ってない気が……」


 やはり二次元のような見た目との完全な一致をリアルに求めてはいけないな、と自省して、俺は戦場へ向かうべく目の前のドアを開いた。


「……あ」


 と、思っていたらまさかの光景。


「あわ、あわわわわ……」


 部屋の奥で屈むような態勢になっていた神原は、そのまま硬直して顔どころか体も真っ赤にしながらプルプル震えていた。

 それもそのはず。この状況をシラフで乗り越えることができる女子がいるとするなら、それは相当のビッチかもしくは同性愛者だろう。

 そう、体も真っ赤ということは、俺からその透き通った白い素肌が見えているというわけだ。

 つまり、一言でいえば神原は着替え中だった。

 白いレースの下着姿で屈んだ状態で指にパジャマのようなものをかけて脱いでいることからそれはわかる。実はこれは重要なことだったりする。なぜなら、もし下着に手をかけていたなら神原は寝る時に完全にフリーダムな格好になる変態(偏見)になってしまうからだ!!

 ……というわけで俺は有無を言わさず目の前のフィクションじみた展開にただ釘付けになってしまっていた。


「……ハッ」


 男子の欲望に逆らえず神原の顔の真下の白い布に釘付けになっていると、唐突に俺の理性が何をやっているんだと喝を入れた。ナイス、俺の理性。なんだかんだで俺は常識をわきまえている。それは勇気がないとも言えることはさておいて。

 ジリジリと俺は後ずさってバタン、と勢いつけてドアを閉めた。


「は、早く着替えろ!」


「……あ、す、すいませんっ!」


 そう怒鳴ると俺はなにかの番人のようにドアに背を預けながら腕を組んでじっと神原が着替え終わるのを待っていたのだった。

 ……そこで先ほど見た映像が蘇ってきてしまったのは不可抗力だ、と言い訳しておく。



「ど、どうぞ」


 部屋の中からこんな声が聞こえてくるのと同時に階段をのぼってくる深夢の声がした。


「ん、あれ、まだ入ってないの?」


 飲み物の入ったグラスと小皿に入ったお菓子が載っているお盆を携えている。


「高校生なんだし、ここはいっちょおっぱじめてるのかと思ってたけど」


「おい」


 その言い方からすると今のはあんたの差し金か!?

 あと高校生の認識不純すぎるだろ、全ての男子高校生が煩悩爆発ボーイばかりだと思うな!


「ちぇ、つまらないな」


「もうそろそろ怒っていいか?」


「怖いよ。それ先輩に向ける感情じゃないよ?」


 なんて言葉の応酬を続けていると、中から怪訝な声がした。


「……あの、どうかしたんですか?」


「ああ、いやなんでもない」


 とっさにそう反応して、とにかく着替え終わったと聞いたことだし再びドアを開いて今度こそ俺は神原の部屋へと足を踏み入れた。

 ……さっきはそれどころじゃなかったが、改めて見渡してみるとなるほど、これが女子の部屋かと納得してしまいそうな部屋だ。

 淡いパステル系のカラーで部屋をまとめていて本棚にはきっちり綺麗に本が並べられている。俺のようなライトノベルではなく純文学系の本だ。その奥の勉強机は清潔感があり、とても集中できそうで、機能性に溢れていた。そして向かいのベッドもシーツがめくれ上がっているようなことはなく、綺麗に整えられて先ほど見えたパジャマが折りたたまれて置かれていた。

 ほへー。女子の部屋と言ったら結梨の部屋しか見たことなかったけど、やっぱりJSとJKじゃ違いがすぎるな。


「あの、あまりジロジロ見ないでください……」


「ああ、ごめん」


 神原の恥ずかしげな声が聞こえて俺は慌てて顔を俯かせた。

 俺たちが気まずくなっているあいだに深夢がそそくさと隅にあった小テーブルを中央へ持ってきて、持ってきていたお盆の中身をその上に載せた。


「尊いねえ。そういうの私は好きだよ。これはからかうのはナンセンスだね。今日は私は邪魔しないことにするよ。じゃあゆっくりしてって」


 なんてセリフとともに余ったお盆を胸に抱いて深夢が部屋から出ていった。


「…………」

「…………」


 なんとなく、気まずい。さっきの事件もあるからなおさら。

 なんとか状況を打破したいと適切な距離関係にある俺が神原を窺い見ると、あちらはあちらで目もとを紅くしてチラチラとこちらを窺っていた。

 お互いの吐息が聞こえるのではないかと錯覚してしまうくらいに深い沈黙が続く。


「……、――」

「……あ、あの」


 俺が飲み物を飲み、神原がお菓子を気を紛らわすように食べるというのが何周か続いたあと、息を少し多く吸っていざ言葉を発しようとしたら、同じタイミングで神原が話しかけてきた。なんだか神原とは変なところでタイミングが合う。


「……さっき、見ちゃいました……よね?」

「うっ」


 あまりにストレートな確認に俺は思わず呻いてしまった。


「やっぱり……」


「あの、な、違うんだよ、不可抗力ってやつ」


 俺は『ならしょうがないよね』で済ませられる最強の言い訳を試みたが、どうやら駄目のようだ。


「ほぼ裸を見られた……もうお嫁にいけない……」


 顔に手を当てて蒸気でも出そうなほど恥ずかしがってテンプレなセリフを呟いている神原を見ていたら、伝染して俺まで顔が熱くなってきた。

 とにかくこのままでは埒が明かない。


「……今日来たのは昨日のことなんだけど」


 話題転換を図ってすぐに後悔した。これ、墓穴を掘ったってやつじゃないか?


「そうでした。結叶くんは昨日浮気をしてたんでした」


 瞬く間に神原の声が凍っていくのがわかって、俺は戦慄を感じて冷や汗をかいた。


「で、どうなんですか。言い訳するなら今のうちですよ」


 適切な距離からズリズリ近寄られて俺の視線はベッドの上に置いてあるパジャマへと移行する。


「あれは、話をしてただけなんだ、信じてくれ」


 結局、こういう他あるまい。何せ俺は嘘をついているわけではないのだから。


「……嘘をついてるわけじゃなさそうですが、いえ、そう信じたいですが、それじゃ駄目です。彼女を持ってる男の子が他の女の子と一緒にいるのは罪ですよ、ギルティです!」


「あ、それは、ごめん」


 うわー、なんだか理不尽な説教だな。そんなの誰が決めた、って声を大にして言いたいところだけどそれを言う度胸もクソもないので俺は言われるままに謝る他ない。


「しかも、一番許せないのはですね、愛華を家に招いたことですよ! とぼけようったって妹さんのセリフでわかっちゃってますからね。なんで私より先に愛華を入れちゃうんですか! 初めてくらい私にくださいよ!」


「……ごめんってば」


 なんて平謝りしつつも、俺は神原が結構依存するタイプなのだな、と理解し始めていた。こいつは何でもかんでもベタベタ引っ付きたいらしい。それにしても初めてって言い方はよくないと思う。

 その後もさんざん怒られ続けてそれに謝り続けるということを繰り返して、事態はいったん平静を取り戻した。


「とにかくですねえ、私抜きで結叶さんが他の女の子といるのが嫌なんですよお」


 何度目だろうか、神原が似た趣旨のことをまるで酔っ払いのように呂律の回らなくなってきた口で吐き捨てた。……本当に酔ってないだろうな。飲み物にアルコールは入ってなさそうだけど。


「ねえ、聞いてるんですかあ?」


 と、パジャマを凝視している俺の視界に神原が入り込んできた。そしてまた目をそらすとそのそらした先にまた神原が入ってくる。


「それも早く治してくださいよお。私はもっと結叶くんと目を合わせたいんですから」


 それでも俺が目を合わさないでいると、神原はついに思い切った行動に出た。


「あ、そうだ」


 神原は俺に急接近し、俺の顔の横をすり抜けるようにして囁いてきた。その吐息と囁きに耳から全身がゾワゾワ、と震えた。

 そのまま、肩を掴まれ押し倒される。ん、押し倒される?


「いいこと考えました。結叶くんを浮気させないためにはを作ってしまえばいいんです。そうすれば勝手な行動は取れないでしょう」


 そのまま俺に馬乗りになって神原は言うのだ。


「さあ、を作りましょうか」


 ……なんだ今日のエロコメ展開!?

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