>>8 倉永結叶は信じない。
……ひとまず状況を整理しよう。
なぜ、俺が神原に馬乗りになられてるのか。
理由はなんとなくわかる。浮気(実際違う)されてもう引くにも引けなくなったのか、さっき自分の半裸姿を見られて吹っ切れてしまったのか。
ともかく、平常時の神原夢望はこういうことをするタチではない。
何かが神原のリミッターを外してしまった――。
そこで俺はもう一度飲み物の入ったグラスを見た。俺は何ともなかったが、深夢が面白半分で神原の飲み物にアルコールやらなにやらを混ぜた可能性がないかと思ったのだ。
だが、違うだろう。深夢はどっちがどっちのグラスの飲み物を飲むかなんて予想はできない。しかもグラスは二つともほぼ同じ柄だ。神原にピンポイントで特定のグラスを飲ますような高等な誘導はできっこないだろう。
では、なんだろうか。見ると(馬乗りになられている状態なので顔は遠いから見ることができた)神原の目もとが潤んでいて、かつトロンとしていた。
これは確実に外から何か摂取したな。でも、飲み物の他に何か口に入れるものなんて――。
――あった。
深夢が一緒に持ってきたお菓子。金や銀のアルミホイルに包まれたそれらのそばに、もぬけの殻となったアルミホイルが十に届くか届かないか、広がっていた。
もしや、あれはブランデーチョコなのではないか?
酔うのかはわからないが、あの量だ、その可能性は十分にありえた。
ふぅ、ふぅ、と時おり聞こえる吐息にほのかに酒臭い匂いがしてそれは確信に変わる。
……あのアマ。邪魔しないことにするよ、とか言ってたくせに結局変なことしてるじゃねえか!
だがとりあえず原因がわかったことで気持ちがいくらか落ち着いた。
「ちょっと待て。いったん落ち着こう神原。冷静になるんだ」
馬乗りされて仰向けに倒れたまま、それでも両手でどうどう、と気を鎮めようとしていると、
「私、もうそろそろ限界だったんですよね」
そんな妖しいことを言って、神原は俺の胸に手をついて覆いかぶさろうとしてくる。
「やめろよ」
肩を掴むも、俺より神原の方が力が強かった。押し返すどころかむしろ接近している。
「おい、後悔するだけだぞ」
神原の意思は若干は介在しているだろうが、それは酔うことによって増幅したものだ。そう考えてなんとかやめさせようとしたが、
「もう、逃がしません……」
ついに、神原が俺に倒れかかってきた。
……攻めと受け手が逆じゃね? なんて不謹慎なことを思ってしまったが、そんなことを考えている場合ではない。
だが、俺は別段回避行動、迎撃行動を取る必要はなかった。
神原は、俺の胸に顔を埋めてヒックヒックと泣き始めたのだ。
考えちゃっていたピンク色の展開ではなくてよかった、と思いながらも残念がっている自分がいる。
「私、寂しかったんですよお……」
なんてことを唐突に言われたもんだから、俺の心臓はきっと飛び跳ねるように速く鼓動していることだろう。胸に顔を当てている神原には絶対わかられてしまっている。
「だから、もう離れないでくださいね?」
ズズ、と鼻を啜って目もとを拭き、神原は俺の胸から離れた。
「わかった。わかったよ」
こいつは、神原夢望はヤンデレなのか?
そう考えてしまうほどに今の状況は異常だった。
だが、これで終わりではなかった。
「そうです。既成事実を作らないと」
「いやちょっと待て」
俺の体はまだ解放されていない。
おい、まさか、既成事実ってお前そりゃあ、そういうことなのか!?
俺の考えていた、あのあっち系の!
なんで、顔、こっちに近づけてくるんだ……?
慌てて顔を逸らしたが、両手でホールドされて無理やり神原と向き合わされる。
目の前に顔があってどこへやって良いのかわからず視線がキョロキョロと移動するが、不覚にもその時の神原の顔が、可愛くて綺麗だと本能的に察知していた。
もう、このまま身を任せればいいんじゃないか? 後先考えなくても、なんとかなるだろ。だって神原は俺の彼女なんだから――。
――駄目だ。
そんな俺の爆発しそうな思考にこの一言がよぎったのは、僥倖だったと言えるし、現に俺は助かっていた。
再び冷静を取り戻した俺は昨日篠崎から言われたことを思い出していたのだ。
『いい? 倉永くんの疑り深さなら大丈夫だとは思うけど、決して浮かれないこと』
『夢望は別にあなたじゃなくても良かったのかもしれないの』
すうっ、と俺の体温が下がっていく気がした。俺の、リアルに対する不安が込み上げてきたのだ。そう、最近は浮かれていた。なんだかんだ言いつつも、俺はそこらのクソリア充どものように楽しんでしまっていたのだ。
外界を認識する基準を変えた俺の心は、瞬く間に俺というものを作り変えていった。
いい夢から醒めてがっかりするように、悪夢から目覚めてホッとするように、俺は最近の浮かれていた『俺』ではなく、本来もともと備わっていた『俺』という人間を呼び戻したのだ。
……世界が一瞬で、灰色になっていった気がしたのは、たぶん気のせいだろう。
ともかくも俺は顔を掴んで顔を近づけてくる神原のその柔肌に包まれた頬を掴み返して、遠くへと追いやった。
奇しくも、そのまま神原がベッドに仰向けになる格好になった。攻めと受け手が逆転したのだ。少しはだけた服と、赤みがかった肌は、男の本能をこれでもかとくすぐる様子だった。
……だが、俺はもう恥じらいどころか、あまつさえ神原をどうにかしてやろうという気には、到底ならなかった。
「結、叶くん?」
「お前、酔ってるぞ。ブランデーチョコ食いすぎたんだろ。ひとまず寝た方がいい」
「違います、そうじゃなくて……」
神原がなにか言おうとするのを遮るように、俺は小テーブルにあったブランデーチョコの入った皿と、自分の飲んでいたグラスをわざと音を立てて持ち、立ち上がった。
「きっと熱の影響がまだ残ってるんだろ。休養しろよ、別に今すぐやらなきゃいけないことなんてないんだから」
当初の浮気の件はどこかへ行ってしまったようなのでもうここは用済みだ。俺はそれだけ言い残すと逃げるように神原の部屋を出た。
「……お? どうしたの」
下へ降りてリビングにグラスをキッチンに返そうとしたらテレビを見てくつろいでいた深夢に話しかけられた。
「別に、なんてことはないです。ただ、神原の気分が悪くなっただけで」
「あ、お菓子なかったからたまたまあったブランデーチョコ入れたんだけどそれがまずかった?」
「ええ、まあ八割くらいは原因なんじゃないですかね」
あちゃー、と深夢は顔に手を当てていた。キッチンからリビングのソファまでは距離があるから窺い見ることができた。
「ま、いいですよ。あれは休んだら治るでしょうし」
「倉永くんがそう言うなら大丈夫かな」
と言って、深夢はこちらへ来い、というように手を招いた。
それに従って深夢の向かいに座ると、ふーん、と何か見定めるように近づいてきてこちらを眺めてきた。
「……君、この短時間で変わったねえ。ぶっきらぼうだった口調も今では普通に敬語になってるし」
「…………」
「あるいは、それこそが本来の君なのかな?」
どうやら、目の前の先輩サマは聡明らしい。
そうだ、さっきタメ口になってしまったのは、敬語が苦手だからという理由ではない。それは俺自身が都合よく解釈するための言い訳に過ぎなかったのだ。
もっと言えば、昨日の篠崎との邂逅だってそうだ。
いつものひねくれた俺ならば、女子と二人きりで会おうなんて夢にでも思わない。そして、先輩女子にタメ口をきこうとも思わない。
言ってしまえば、調子に乗っていたのだ。今思えば滑稽なことだが。
告白されて、俺のような人間が神原たちのような眩しいやつらと同等とでも思ってしまったから、昨日篠崎と会ったのだし、今さっきの展開に気持ちの悪いほどに反応してしまったのだし、先輩にタメ口で話しかけていいなんて錯覚してしまったのだ。
まあ、それもさっきまでの話。もう俺は立場をわきまえて一刻も早くここから出ていこうとしていた。
「じゃあ俺はこれで」
「ちょっと待って」
だが、この姉はまだ俺を帰らせる気はないらしい。
「……なんです?」
「君、まだ満足してないんじゃない? よければ私がお話してあげるけど」
「……お話することはないですけど」
「私が、よ。中途半端な時間で帰るのは気分的にも嫌でしょう?」
「はあ」
と反応しつつ、俺は浮かせかけた腰を再びおろした。
「……ところで、夢望とは何があったの」
やっぱりそれを聞くのか。
「別に。俺が自分のことを見直しただけです」
間違ったことは言っていないつもりだった。神原の下着姿を見てしまったことや、押し倒されたなど、異常な展開こそあったものの、何があったと言われればこれが一番的を射ているだろう。
「……へえ。ということはそれが倉永くんの本来の姿なんだね」
「そうですよ。この人生つまらなそうにしてるひねくれ野郎こそが本当の俺です」
本当のことだから自虐が少し入ってしまうのはしょうがない。
「……ちょっと言い方が失礼かもしれないけどそっちの方が君に合ってる気がするよ。となると、なるほどね。なんか逆に安心したよ。うん、君なら多分大丈夫だと思う」
「何がです?」
最後の意味深な言葉に俺は思わず反応を示した。
「決まってるじゃん。夢望のことだよ」
意味がわからない、と首を捻っていると深夢が補足する。
「だからさ、君みたいな人がちょうど夢望とバランスが取れるんじゃないかな、なんて思ってさ」
「なんでですか。向こうはバリバリの陽キャでこっちはこれ以上ないほどの陰キャなんですけど」
俺の思わず反応に困ってしまうようなセリフにも即答だった。
「そういうとこだよ。自分を決して過大評価しないところが、夢望とやっていけそうなの。……と言っても、君のその顔を見る今の今まで夢望と一緒にいられて浮かれてるいけ好かない野郎だと思ってたんだけどね」
そうだったのかよ。まさかそこまで俺おかしかったのか?
いや、それは置いといて。
「なんでチンケな塵のような俺が天使属性が付与されるような神原とやっていけるってことになるんです?」
「君、逆に過小評価のしすぎかも……。あ、言っておくけど私は倉永くんのこと、いい感じの少年だと思ってるから」
あんたの俺に対する評価は聞いていない。
「つまりね、夢望は俗にリア充と言われる人たちとは相性が悪いのよ。特によくいるイケイケ系の人とは。考えてみなさい、君は夢望がワーワーしてる大人数グループに混ざってるところ見たことある?」
そこで俺はハッとなった。
篠崎と二人でいる姿しか、俺は見ていない。教室の後ろでウザいほどうるさいやつらとはつるんでもいなかった。
「心当たりないでしょ。私が言うのもなんだけど夢望は高嶺の花だわ。でも、それがイコールリア充とかそれらと同列になってしまうって、どうして言えるのかしら?」
ここまで来て、俺はなんとなくだが深夢の言わんとすることがわかったような気がした。
「そう。わかりやすく言えば夢望は高くそびえ立つエベレストの山頂に咲いている花なの。普通の最高地点が富士山並みな中でね。だから、言ってしまえばあの子は孤独なの」
その言葉には妹を心配する慈愛の思いが溢れていた。と同時に、凛々しい文学少女を演じていて何か重なることがあるのか、同情の念も込められていた。
「……だから、夢望は君みたいな孤高の存在に惹かれるんじゃないかな」
チラ、と深夢の顔を窺うと、少し寂しげに微笑んでいた。
……なんだその聖母的オーラは。
「……ま、裏を返せば俺じゃなくても孤高ならいいってことですけどね」
だがここで間に受けてしまうほどには俺は素直ではない。何せ、俺は高二病のひねくれ者なのだから。
クスリ、と笑われる音がしたと思ったら当の深夢本人からだった。
「やっぱりいいよ倉永くん。そのひねくれ方、うん、夢望がなんで君に惹かれたのか一部分だけどわかった気がしたよ」
「……今度こそ帰りますね」
なんだか褒められてる感じがして、そしてそれが少し照れくさくて、俺は先ほどとは違う理由で席を立った。
「うん、じゃあね」
そして玄関まで付いてきた深夢は警察官のような敬礼をして言うのだ。
「どうぞ夢望をよろしく!」
*
まあ、さっきの話を聞く前からなのだが、俺は少し後悔していた。
スッと浮かれていた状態から平常に戻った時の、神原への対応についてだ。
やはり、あの時は口調にトゲがありすぎたように思えたのだ。そのあと何か言おうとしたのを遮って俺は退出してしまったし。
……そしてそんな心配をしていると、再び昨日篠崎が発したセリフが頭に浮かんでくるのだ。
『あなたたちにはできるだけ別れてもらいたくないってわけ』
もし、今日の一件で、神原に心の変化があって、俺と別れてしまったら篠崎は俺をどうするのだろうか。……まあ、処すんだろうな。前言撤回とかなしに。
だが、それとは別に、そもそも神原という圧倒的頂点と圧倒的底辺な俺が関係を持った時点で破綻しているのだ。俺は今日を経て強くそう思っていた。
そうだ、俺は俺なのだ。誰にも左右されないで自分の思うことを実行していけばいいのだ。
……なんて名言っぽいこと言ってるくせに自分を底辺とか揶揄している時点でそれおかしいよね、と自分で自分にツッコミながら俺は三連休の終日を終えた。
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