邪なる導き手④

「な、なんですかあれ……?!」

「“闇”が……王城から……」

「ど、どんどん大きく……街も、人も飲み込んで……」

「なに……? なんなの……?」

「こ、こっちまで迫ってくるんじゃないですか……!?」

「あれはいったい……? ジルジル様ぁ!」


 窓の外を眺めながら、信者たちは慌てふためいている。恐怖と恐慌のままに、身を捩りながら押し合い圧し合い窓の外を眺め、益のない言葉を吐き続けている。

 一方で、ジルジルは悠然と歩み、祭壇の前に、説教台の上に立った。


「皆さん。心を安らかに。まずは席につきましょう」


 落ち着き払った、穏やかな声でそう告げる。音楽のように心地よい声は、信者たちの心に清流のように染み渡っていく。ゆっくりと振り返り、言われるがままに彼らは、ぞろぞろと席についていった。


「目を瞑り、呼吸を意識してください。そして、祈りを捧げましょう」


 先ほどの狼狽が嘘のように、彼らは静かに、手を合わせて祈る。頭を軽く下げ、一律に同じ姿勢となる。

 そのうちで、理解できずに狼狽えたままでいた男がいた。かつてスターライトホテルの住人として、一斉に“狂国入り”させられたうちの一人だ。国の情勢を鑑みて、「冷静な判断」としてジルジルに下るのが生き残る術だと考えここにいる。

 むろん、教会での生活はまだ日が浅い。


「な、なにをしてるんだお前たち……お前たちも見ただろう……」


 力なく、つぶやくように。

 だが、なにを見たというのか。きっとそれは、世界の終わりの風景。

 逃げ惑う人々が、またしても“闇”に飲まれて消えていくのが見えた。あれほど巨大に屹立していた王城がもはや“闇”に覆われ影も見えない。ただその大きさだけで、臓腑の底から凍えるような恐怖と、背骨の軋むような不安が、男を震え上がらせていた。

 あれはなんなのか。なにが起こっているのか。どうすればいいのか。状況を整理し、それぞれの知識を持ち寄せ、対策を論じなければならないときに、数十人もいる信者たちは木偶のようにただ祈りを捧げるだけである。


「だ、誰に……! なにに祈るんだよ! お前たちは……」


 もはや誰一人として彼の言葉は聞こえていないようだった。深い集中力によって、信者たちの意識はもはや現実にはない。話ができそうなのは、ただ一人。


「ジルジル様……! あ、あなたも見たはずです! あれは、あの“闇”は……先ほどの男だって、自死したのではありません! “闇”に飲まれれば死にます! きっとそうだ! そ、それともあなたは……我々に死ねというのですか!?」


 大声で、唾を撒き散らしながら訴える男に対し、ジルジルはただ優しく微笑みかける。ただ、静かに、穏やかに。澄んだ蒼い瞳は、吸い込まれそうなほど深く、美しかった。


「あなたは死にません。大丈夫です」


 信じたい言葉。彼がそういうならと、信じてしまいたい言葉。だが、欲しかった言葉ではない。現実主義の選択として男は今ここにいる。そんな言葉だけでは、とても信じられるものではない。


「なにを根拠に!? い、今すぐ逃げないと……! ジルジル様も、みんなも!」

「逃げるというのも、一つの選択です。ですが」


 ジルジルは説教台から降り、一歩ずつ、丁寧な足取りで男のもとへと歩み寄ってくる。その振る舞いだけで目を奪われてしまう。男はただ、息を呑んで、彼の接近と言葉を待つほかなかった。


「私を信じてください」


 両手を肩に置き、真っ直ぐと男を見つめる。

 その瞳には一点の曇りもない。思わず目を逸らし、横目でチラリと窓の外を見る。やはり、“闇”は大きくなる一方だ。拡大の勢いは止まる気配がない。時間の問題だ。このままではじきにこの教会も飲み込まれるだろう。

 男の理性は、今すぐ“闇”から逃げるべきだと告げていた。たとえ逃げ場などなくとも、可能なかぎり生存率を上げるにはそれしかない。だが。

 ジルジルの言葉と態度が、そんな「冷静な判断」を払いのけた。


「わ、わかり、ました……」


 そうして男もまた、席に座る。目を瞑り、息を整え、手を合わせて祈る。

 なす術がないのであれば、あとはもう祈るしかない。


「皆さんの心は一つになりました。あとは、私を信じてください。私を、愛してください」


 そして、ジルジルはただ一人教会にて立つ。

 先ほどの身廊に生えた果樹がやや邪魔ではあったが、説教台の高さからでなら教会全体が見渡すことができた。あとは、訪問者を待つだけである。

 彼は冷静だった。彼もまた、“闇”の正体についてはなにも知らなかった。それでも、心には恐怖の翳りもなかった。たとえ“闇”がどのような脅威であれ、「死」以上のことは起こらない。

 ならば、彼にとっては恐れるようなことはなにもない。


「おっと」


 不意に、教会が闇に包まれる。まるで一斉にすべての明かりを落としたように。夜の月が朧に隠れるように。目を閉じていた信者たちも、瞼越しの薄明かりが消えたことは察することはできた。

 だが、動じることなく。

 きっとすべてを救ってくれるであろう、ジルジルを信じた。


 ジルジルはしばらくただ立っていたが、目の順応などというものは一切期待できない性質のものであることを理解した。目の前にある祭壇、あるいは手のひらが辛うじて見えるくらいか。信者たちの顔も、誰一人として見えなくなっていた。

 彼は静かに待った。この“闇”には主がいる。報告に来たものの言葉によれば、たしか「青肌の女」だ。今のところ、“闇”に覆われただけでは特に危険はない。視界が極端に狭まるだけだ。むろん、それもたいそう不便だが、直接の死因にはなり得ない。

 死が齎されるのは、おそらくその女が現れてからだ。

 やがて、待ち人が現れる。

 教会の大扉を開いて、幽火のように闇に浮き、一糸すら纏わぬも堂々とした立ち姿には畏怖すら覚えてしまう。これまで多くの人間に接し、観察し、求める言葉を与え、導いてきた彼であったが、その女がこれまで見たこともない人ならぬ存在であることを認めぬわけにはいかなかった。

 それでも、彼は。動じることなく、いつもと同じように。優しく、穏やかな声を。


「ようこそ、いらっしゃいました」


 返事はない。言葉もなく、ただ見つめ合うだけだ。闇の中、ただ二人で。

 いや、女は。そもそもこちらを見てもいるのか。伏し目がちの瞳からは一切の表情が読めない。


「いくつか、質問をよろしいでしょうか」


 やはり、返事はない。教会に足を踏み入れてから、それ以上近づく様子もない。敵意も感じられないが、かといって好意など一欠片も期待できない。憎悪も、憐憫も、愛も、どんな感情も読み取れない。きっと、そのすべてから無縁のところにいるのだろう。


「あなたも、狂王陛下によってここへ?」


 返事がないのはわかっている。ただ呼びかける。

 一言一言、様子を見ながら口にしているため、彼女が現れてからすでに一分近くは経つ。

 だが、なにも起こらない。それが妙だった。彼女自身もなにかしようという様子がない。にもかかわらず、街は狂騒に包まれ、おそらくは死者が多く出ている。

 彼女が一個のわざわいであることは間違いない。だが、その性質がわからない。


「私も狂王陛下によってこの国へと降り立ちました。もう四年にはなるでしょうか。その当時には、まだいらっしゃいませんでしたよね?」


 三度目の質問である。

 彼自身には知る由はない。それは「昏倒」の条件だ。

 なにもわからぬままに疑問を口にし、倒れ、その異常はさらなる疑問を生み、推測の材料を与え、目覚めたものはわずかでも核心に迫る言葉を手にするだろう。

 すなわち、「闇に飲まれるのは危険だ」「あの女を見たら倒れた?」「疑問を口にしたら倒れたのか?」と。

 たとえ独り言でも、言葉を発したのならその心臓には魔の手が迫る。その命を吸って、闇はさらに拡大する。真相を察したものは口を噤むだろう。理解できぬものは叫ぶだろう。「なぜ黙っているんだ」と。それは核心に迫る言葉だ。

 たとえ誰かが命を賭して忠告を叫んだとしても、闇の中ではその「結果」を広く見せることもできない。一度闇に囚われたなら、たとえ外へ出ても楔は打ち込まれたままだ。

 すなわち“闇”とは、中途半端に知識を与えて効率よく命を吸うための装置なのである。


「ぐっ、あ……?」


 男が、倒れた。祈りを捧げていた信者の一人だ。闇の中でひっそりと、胸を押さえながら倒れ伏していた。


「なるほど……?」


 ジルジルは無事である。あたかも、信者が彼の身代わりとなったかのように。

 見えはせず、音が聞こえたのみだったが、それでも彼は核心に迫る判断材料を手にすることができた。


「あなたに疑問を投げかけると、倒れてしまうのですか?」


 今度は、教会に新たな果樹が芽吹いた。


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