邪なる導き手⑤
彼は幼少時より怪我というものをしたことがなかった。
大人しい性格だったからではない。むしろやんちゃで、無茶ばかりしていた。大人たちの制止を振り切り「冒険」と称して煙突を潜ったり、屋根に登ったり。むしろ、「なにをしても怪我をしない」というのが彼の行動を大胆にしていた。
ある日。決定的な事故が起こった。
彼は屋根の上から転げ落ち、頭から地面に激突した。首の骨が折れ、誰の目からも即死に思えた。ただ、実際にその瞬間を目にしたものはいない。だから彼はそれを不思議とも思わなかった。怪我などしたことがないのだから、首が折れたなど気づきもしない。彼はまた、特に何事もなかったかのように屋根の上に登り始めた。
安楽椅子の上で母が死んでいた。首の骨がひしゃげて、まるで出来の悪い人形のようだった。それは彼がはじめて接した「死」であった。
原因は不明。魔術的な呪殺ではないかといわれた。まだ幼い彼には理解の外にある出来事だった。人は首が折れたら死ぬらしいが、どうすればそうなるのかはわからなかった。
また別のある日、彼は馬車から転げ落ちてしまった。馬車は止められ、従者らは急いで彼のもとに駆け寄る。服は泥で汚れてはいたものの、奇跡的に彼には擦り傷一つなかった。
だが、奇妙なことに。同席していたはずの父が出てこない。
父は全身に擦り傷を残し、脊椎を大きく損傷して死亡していた。
従者は慌てふためいている。まるで当主が我が子のため身代わりになったようだと。
彼もまたそう理解した。だから試さずにはいられなかった。亡き父の腰より短剣を抜き、制止を待たずに彼は自らの首を切った。代わりに従者が死んだ。今度は心臓に突き立てた。代わりにもう一人の従者が死んだ。
そして、彼は一人になった。
固有魔術〈犠牲愛〉。彼の傷は、彼の痛みは、彼の死は、すべて彼を愛するものが代わりに引き受ける。幼少時から一つの怪我もなかったのは、すべて母が引き受けていたからにほかならない。
突如として膝や肘を擦り剥くことがあった。それが愛する息子の転倒と連動していることを理解しても、母はただ優しく微笑んでいた。我が身を奉じて息子を守れるというなら、それ以上の喜びはなかったからだ。
彼はなにも気づかずに、自らを怪我のない無敵の肉体と信じて無茶な「冒険」に明け暮れていた。自らの愚かさのために両親を二人とも失って、彼は初めてそのことに気づいた。
その日より彼は家名を捨てる。ただのジルジルとして、荒野に立つ。
彼は愛を求めた。誰かが彼のために死んでくれるなら、それこそが真実の愛だ。
彼の人生は、もはやその証明のためだけに残されている。
***
見えはしない。依然として闇は深い。
しかし、急速な果樹の生育には音が伴う。芽が瞬く間に太く幹として木化していくメキメキという音。枝から葉が出てその重みにしなりバサバサと擦れ合って揺れる音。普段は意識してもいなかったが、視界が閉ざされた今は一層よく響いて聞こえた。
彼は耳を澄まし、信者の一人が果樹と化したであろうことを知った。きっとそのものも――男か女かもわからないが――彼を心から愛していたに違いない。
「やはり、見えないというのは不便ですね」
身代わりとなったのは誰なのか。信者たちがそれぞれに座った位置までは覚えていたが、あいにく音だけではその位置がわからない。
経験的に、愛の深いものほど先に死ぬことを彼は知っていた。彼にとってそれはとても重要なことだった。なぜなら、彼は誰かに愛されるために生を受けたからだ。
「はて……。最初は倒れただけですが、次の質問では死者が出た。これはなぜでしょう?」
またしても同じ音が響く。果樹の生育する音だ。
ただ倒れただけでは、近寄って息や脈を確認しないかぎり昏倒しただけなのか死亡しただけなのかは区別がつかない。この闇ではなおさらだ。さらにいえば、闇の中で音だけを頼りにするのではその「近寄る」というのがまず難しい。
一方、果樹の種があれば生死の判定は明白だ。種は死体にのみ芽吹く。倒れただけでなく、生育していく音が聞こえたのなら、それは死亡したということだ。
これで二本目か。彼は青肌の女を見据える。やはり、表情はなにも見えない。本来であればジルジル自身が死んでいたはずだろうに、動揺も感動もないようだった。
「即死したりしなかったりするのは、犠牲となるものの抵抗力の差だったりするのでしょうか?」
誰かが倒れる。ただ、倒れるだけだ。果樹が生育していく音は聞こえない。
「抵抗力の個人差ではなく……質問の内容による、ということでしょうか?」
誰かが果樹として生育する。
この二つの対照、あるいはこれまでの質問からの挙動の差から、論理的に筋道を立てればいくらかの仮説が浮かび上がってくる。
心も感情も読み取れないその女から、動機や目的といったものを類推するのは無意味だ。
結果だけを見て考える。彼女を中心とした“闇”は、なぜこれほどまでに巨大化したのか。
突如として闇に飲まれた際に、人々が発するであろう言葉はおおよそ想像がつく。「なにが起こった」「どういうことだ」きっとそんなつまらない言葉だ。闇の中、不自然に浮き立つように現れた女を目にしたときの反応も同様だろう。彼自身がそうだったように、誰だって問わずにはいられない。
そして、多くの人々が倒れただろう。闇の中、家族が仲間が友人が倒れゆく音を聞いただろう。であれば、そこから先はもう少し芸のある言葉を発せるようになるだろう。
死者が出るのは、きっとそれからだ。
「やはり、この暗闇は不便ですね……。あなたもまた狂王陛下によって招かれた方であるなら、私も邪険にはしたくないのですが。この“闇”を、払っていただくことはできないでしょうか?」
特になにも起こらない。青肌の女に反応はないし、信者にも同様だ。質問というよりは要請、ただ語りかけるだけなら無害といったところだろうか。
とはいえ、彼女自身に“闇”を払うつもりはないことはわかる。
ジルジルは説教台より降り立ち、身廊を歩いて青肌の女のもとへと向かった。途中で邪魔な果樹は少し身を避けて、彼女のもとへ歩み寄っていった。
「一つ、とても重要な確認をしなければなりません。仮にあなたが死亡した場合、この“闇”もまた消えて失せると思って構わないでしょうか?」
果樹の音。もはや、彼にとってそれは「YES」の音にしか聞こえなかった。
これで四人。悲しいことだと彼は思った。自らを愛してくれるものを失うのは、悲しいことだ。
彼は燭台を手にした。見えなかったためうっかりしていたが、蝋燭にはまだ火が灯っているようだった。ひとまず吹き消し、蝋燭を取り外す。そうして、蝋燭を固定するための鋭い針が抜き身となる。
「たとえば、私が今からこの燭台であなたを突き刺したとします。それで、私はあなたを殺せますか?」
またしても聞こえてくるのは「YES」の音だ。
少々名残惜しいが、このあたりで終わらせるべきだろう。
彼はまた、一歩ずつ女に歩み寄っていく。殺害予告に等しい言葉を前にしても、やはり女は動じることがない。そしてそのまま滑らかに、彼は燭台の先端を、無抵抗な女の心臓へと突き刺した。
「さようなら。名もなき人」
生温い体温が真鍮の燭台越しに伝わってくる。幽鬼のように現実感のなかった彼女も、死の瞬間だけはたしかに生きていたのだと彼は知った。最期に目にした表情が、一瞬だけ微笑んで見えた。
そして、闇は晴れていく。
青肌の女は倒れ、陽炎のような灯りも潰えていく。
一つの悪夢は、ひとまずの終わりを迎えた。彼は軽く手を叩き、そのことを皆に伝えた。
「皆さん、終わりましたよ」
振り返って確認すると、教会内の果樹は七本だった。おや、と彼は思う。
報告に来て身廊で果樹となった迷惑なものが一名。それ以降、闇に対して問いかけて、返答として果樹が生育する音を聞いたのは五回だ。数が合わない。
そうか、と気づく。こんな簡単に殺せるなら、“闇”があれほど広がるはずがない。タスになら簡単に殺せたはずだ。直接攻撃もまた死を招くのだ。最後は彼女の表情に気を取られて、背後の音をよく聞いてはいなかった。
「なっ! こ、これはなんですかジルジル様!」
「教会内でこんな……せ、狭くてたまったものじゃありませんよ!」
「献身なのは結構ですが……場所は選んで欲しいものですよね」
目覚めた信者たちは変わり果てたありさまに驚きつつ、的外れなことばかり口走っている。
彼らが認識する唯一正しいことは、ジルジルを信じることの正しさである。ジルジルを愛することの素晴らしさである。
「皆さん。尊い犠牲がありました。私たちはこれに感謝しなければなりません。収穫しましょう。そして、今度はこの国を、闇ではなく“光”によって包み込むのです」
ジルジルは再び祭壇の前に立つ。
――この一部始終も、観てくださっていただけているだろうか。
彼の最終目標は、狂王に愛されることにある。
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