迷宮へようこそ
コムが口走った通りに、その先は「迷宮」と呼ぶべきものだった。
石レンガで積み上げられた壁に、規則的に魔術灯が配置されている。床も石畳で、ところどころ欠けていたり汚れていたり苔むしている。「迷宮」という表現を余儀なくされたのは、通路が無意味に枝分かれしているように見えたからである。
人を惑わすためだけの悪意。今思えばあからさまに怪しかった。にもかかわらず、なぜ無警戒にもうっかり足を踏み入れてしまったのか。その答えもすぐにわかった。
「誘引魔術が働いてたみたいね。警戒が甘かったわ。ちゃんと感覚保護していれば……」
「なんなの、ここ……」
不安そうな声を漏らすのはレシィである。
「さっきもいったけど……、凪ノ時代以前の遺跡かも知れないわ」
「遺跡?」
「あたしも詳しくは知らないけど。軽く習ったことがあるだけで。凪ノ時代の遺跡は、なにかの作用で複雑迷宮化してるって」
「凪ノ時代……って、なんだっけ?」
「だいたい四百年から六百年前を指す時代よ。“イニアの断絶”のせいで史料がいろいろ失われてて」
「“イニアの断絶”?」
「……なにも知らないのね、あなた」
「だって、そんなこと習わないよ」
「キールニールっていうのは知ってる?」
「んーと、なんだっけ。昔のすごく怖い魔術師だっけ」
「理解がふんわりしてるわね……。まあ、別にそれで間違ってはいないわ。つまりね、その魔術師が大暴れしたのが凪ノ時代。で、彼は“名を呼ばれるために力を増す”という固有魔術を持ってた。厳密には違うけど、だいたいそんな感じ。
だから、もう二度と彼の名が呼ばれることのないよう本名をこの世から消し去るために各国が協力して、ある疑似叡海干渉魔術を発動させたの。その結果が“イニアの断絶”。彼の名だけを消せればよかったんだけど、それ以外にも様々な知識をあらゆる人々の記憶や文献から失われてしまった。そのうちの一部がこうして遺跡として残っている――といわれているわ」
「え、あれ? じゃあ“キールニール”って呼んじゃダメなの?」
「話聞いてた? それは便宜的な仮名。本名は不明よ」
「そっか。へえ。って、あれ? キールニールって昔の人だよね? 結局倒せたの?」
「んなわけないでしょ。世界中が協力して立ち向かったけど、彼にはまるで敵わなかった。だから飽きたんだって。“千年経ったら起きるから”――そう言い残して眠ったって」
「千年。えと、それが四百年前だから……」
「起きるのはだいぶ先ね」
もし、キールニールが目覚めたとしたら。
ふと、ミナセはそんなことを考えた。
彼ならば、機兵群をも蹴散らしてしまうのだろうか。それはある意味で、魔術師の勝利といえるのだろうか。あまりに虚しい空想に思えた。
「うーん。で、ここがその時代の遺跡かもしれないってことは……えと、つまりどゆこと?」
「わからないわよ。いろいろ考えられはするけど。たとえば、キールニールに対抗するための施設――とか」
「ねーねー。早く行こうよー」
先走って二人を呼ぶのはコムだ。
「まったく。あいつ」
軽率な行動ではある。だが、立ち止まっていても埒が明かないのも確かだ。
「迷宮、ね」
イヴァナス家は代々皇族の近衛として仕える一族である。ゆえに、最低限の教養というものは必要になる。ただ、遺跡の知識というものが直接的に影響する事態はあまり考えられない。危険な遺跡になど、そもそも近づかなければよいのだから。
しかし、なにが起こるのかわからないのが人生だ。こんなことなら、もっと幅広く学んでおくんだった。と、ミナセは思う。
もっとも、こんなことになるなど予想もできるはずがないのだが。
「……一応、慎重に行くわよ。あたしが前に出るから」
なにがあるのか。想定を巡らせる。
魔物が棲み着いている。十分ありうる。防衛機構としての魔獣。それもありうる。
そのとき、果たして戦えるのだろうか。
臓腑が、静かに冷えていくかの心地だった。
「二人とも、武器を抜いて。一応ね」
歩き出す。出口が閉ざされた以上は奥へ進むしかない。
そうして、やはり「迷宮」と呼ぶのが的確だと思い知る。
曲がりくねった通路に、いくつもの分かれ道。場合によっては行き止まりまである。なんらかの利便性を意図した建築とはとても思えない。迷わせるためだけの構造。ゆえに迷宮である。
これが意図的なものであるのか、複雑迷宮化と呼ばれる自然現象によるものなのかはわかならない。前者だとすればその意図はなにか。たとえば地下牢で、脱獄防止としての機構。あまり考えにくい。ただ、後者だとしても、迷宮としてあまりに合理的にすぎる。通路の幅が一定で、空間を余すことなく迷わせることに最適化されている。自然発生の迷宮でこういった形はあまりない。はずだ。
やはり知識不足である。根拠の乏しい推論でしか思考を繋げられなかった。
「ミナセ。ちょっと、あれ」
後ろからレシィが肩を叩き、指を差す。その先には。
壁の隅、影になっているあたりに、なにかが転がっていた。距離もあり、よくは見えない。人の形でもあるように見えた。ただ、それは生き物、あるいはその死体というよりは、なんらかの物体――そんな印象を受けた。
「うそでしょ」
一歩、二歩と近づき、目を凝らし、その正体を確認する。
機兵の残骸である。これまでも目にしてきた、青の皮膚素材を持つ、いわゆる「汎用型」のものだ。
「なにかに、引き裂かれてる……?」
顔も、首も、胸も、四肢も、とにかく乱雑に引き千切られたように、バラバラの残骸となっている。得体の知れない粘性の液体も付着している。もはや完全な機能停止に疑いの余地はない。
それだけではない。そこまで歩み寄って気づいたのだが、そのさらに奥。同様にして残骸となったもう一体の機兵が横たわっていた。
「どういうこと?」
「……まずいわね。確かにそうだわ。無意識に、少なくともこれで機兵からは逃れられるなんて考えてたのかも。甘かった。連中も、ここに入って来られる……」
「そうじゃなくて、誰がこんな――」
「あれじゃない?」
クコロロロロロ……。
そんな、奇妙な声が鳴り響いた。
曲がり角の向こうから、その影だけが見える。そして、金物同士を打つような足音、が、聞こえてきた。
動けなかった。本能的に危険が迫っていることは察せられた。しかし、手が震え、足が震えた。ただ、それが姿を現わすのを、待つことしかできなかった。
まず、壁の向こうから見えたのは、刃物のように鋭い脚。それだけで、人間の体躯を上回る存在であることは理解できた。それが八本。うち、二本の前脚は攻撃的に前方に向いている。
見た目の印象は、巨大な蜘蛛である。頭部には六つの赤い瞳が並ぶ。無機質なる捕食者の表情。口吻からは酸性の涎が垂れていた。
ミナセは剣を構えた。
ただ、それが無意味な行動であることはわかっていた。
機兵のあの有様は、こいつの仕業に違いない。で、あるなら。
単純に考えて勝てる見込みはない。ミナセは、機兵には勝てないからだ。
――いや、しかし。
考える。そもそも、機兵に挑んだことなどないではないか。
ただ、これまで大勢の人々が殺されたのを知っている。愛するもの。尊敬するもの。皆がただの一発で殺されていった。ミナセはそんな人々に守られながら逃げて生き延び、あとは長らく機兵に“保護”され、恥ずかしながらぬくぬくと過ごしてきただけ。
レシィはどうか。彼女は、機兵に挑んだことがある。
それを誇らしげでもなく語る。彼女は自身を過小に評価している。彼女は強い。
――弱いのはあたしだ。
足りないのは勇気。この絶望的な世界で生き延びるために、なにより必要なのは勇気だ。
ミナセは、剣の柄をより強く握り込み、蜘蛛の怪物を睨みつける。
脅威は、刃のように鋭い脚。そして牙。捕まればあとはない。問題は、どの程度動けるのか。あの巨体で素早くは動けまい。様子を見るべきか。しかし、その場合は初手を躱しそこねれば死ぬだろう。こちらから先手を打って仕掛けるべきか。しかし、その場合でも――。
クコロロロロロ……。
再び、低く奇妙に鳴り響く声が蜘蛛から漏れ聞こえてきた。
「ミナセ。ダメだよ」
「ダメって。なにが」
「戦おうなんて考えないで」
その一言で、ミナセは正気に返る。
見たままだ。勝てる相手ではない。かといって、だから、どうする。
「威嚇している……?」
気づく。ずいぶんと長いこと睨み合いを続けていることに。
力量差はハッキリしている。少なくともミナセにはそう感じられた。しかし、相手にとってはそうではない。互いに未知であるには違いない。ゆえに、警戒している。
――いや、違う。
蜘蛛の怪物が魔物なのか、魔獣なのか。それで答えは変わってくる。
魔物は生き物だ。襲ってくることがあるとすれば、その目的は捕食か防衛反応。
魔獣は生き物ではない。なんらかの目的を果たすための機構。考えうる目的は、迷宮そのものの防衛。であれば、侵入者がいれば躊躇わず襲ってくるはずだ。魔獣は死など恐れないのだから。
蜘蛛は襲ってこない。睨み合いが続いている。ならば魔物か。しかし。
ではなぜ、機兵を襲ったのか。
機兵は捕食対象などではないはずだ。機兵から攻撃を受けた? 機兵が不用意に縄張りに入った?
いずれにせよ、こちらから仕掛けないかぎり安全なのではないか。
意を決して、ミナセは半歩、後ろへ下がる。
蜘蛛の怪物は、さらに下がれと言わんばかりに唸り声を上げる。
ただ、距離を詰めようという気配はない。追いかけてくる素振りはなかった。
「……逃げるわよ。あれはただ、この奥へ進むなと威嚇してるだけ」
「そうなの?」
「多分ね」
一歩、二歩とじりじり後ろへ下がる。警戒を怠らず、様子を見ながら。
やはり、追ってくるわけではない。少なくとも捕食目的ではない。そう思う。
緊張に冷や汗を流しながらも、一歩一歩確実に。やがて蜘蛛の怪物もそれに満足したのか、下がっていく。曲がり角の向こう側へと引っ込んで行った。
考えは当たっていた。あれはただ、追い払おうとしていただけだ。
そこでようやく、彼女たちの緊張は解ける。
「いや〜、こわかったねー。まさか魔獣がいるなんて」
「え?」
コムの何気ない言葉にミナセは首を傾げる。
「コム。なんであれが魔獣って?」
「ん? 挙動を見たらわかるじゃん。たぶん、あの先になにかあるんだろうねー。もしかしたら、この迷宮はそれを守るためのものなのかも」
「……そういうの、わかってたら教えて欲しかったんだけど」
「なんのこと?」
「あれが魔獣だったってこと。下がれば襲っては来なかったってこと」
「あー。ミナセちゃんもわかってると思ってた」
「……わかってなかったのよ。次から、頼むわよ」
気を取り直して、別の道を行く。ひとまずの危機は去った。
やはり、ここは危険だ。一方で、ミナセはもう一つの発想があることに気づいた。
あの蜘蛛は機兵すら倒す。こちらからは近づかないかぎり害はない。もし、あの蜘蛛が機兵の侵入を許さないのだとしたら。
この迷宮は、むしろ安全な拠点となるのではないか。
「また分かれ道だよ。どうする?」
「どうするもこうするも、どっちかに進むしかないでしょ」
まずは、この迷宮がなんなのかを知らなければならない。落ち着ける場所も必要だ。食糧はなにか得られるだろうか。まだ、不安も多い。
「あ」
大きな空間だった。まだ迷宮の中には違いない。ただ、途方もなく広い空間だった。息苦しい閉塞感を解放してあまりあるほどの、広く大きな空間だ。
だが、それだけではない。少女たちはみな目を疑った。
なぜなら、そこには。
木造の戦列艦が、難破したかのように横たわっていたのだから。
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