第 9話  新世界

9  新世界


 空は風がおいしかった。

 日の光も心地よかった。

 そして、今までいた険しい岩山も上から見るとその形まで良く見ることができた。

 目を凝らすとその岩山の始まるところに大きな木々があって森がある。その先に点々と見えるのがヒタキの住む村だ。

「あたしの家だ、なんて小さいの!」

 村の中心に幾分大きく見える赤い屋根。

「すごい、空から見るとこんな風に見えるんだね」

 首元に話しかける。

 クグックググ鳥の返事が返ってくる。

 ヒタキの身体は生まれたての柔らかい羽に埋もれて、冷たい上空の風から身を守られている。

 ふわふわと温かいぬくもりがまるで、自分が空を飛んでいるような錯覚さえ思わせる。

「空って素敵だね」

 もう一度、クグックググと鳥が答える。

 島の周りに茶色の草原が映った。ストローグラスの草原。

 幼い頃からこの草原の先に何があるのか知りたかった。その先にいつか行ってみたかった。

 ヒタキは地上に目を凝らした。

 枯れた色と所々黄緑色の草原はどこまでも続いていた。

「この草原は昔海っていう水に満たされた湖のような物だったってとうさんが言ってたよ」

 鳥は、急に旋回した。方角を北にとると流れてくる風に乗った。しばらく同じように薄茶色の草原が続く。

「あ、あれはなに?」

 ストローグラスの林はそこだけぽっかり穴が開いていた。その真ん中にさっき飛び立った岩山よりもっと大きな岩でできた山が見える。山肌は黒い岩で埋め尽くされてところどころにストローグラスが突き出ている。そしてその頂上に茶色の草が敷き詰められた平坦な場所がある。

 強い風が吹いているらしく、草が風になびいている。

 ピィ~、と鳥が鳴いてその上を一回旋回してゆっくり近づいていく。

「えっ!あれって、ピィと同じ」

 ヒタキは目を見張った。そこにあるのは、ヒタキが岩山で見たのと同じ卵だったから。それも三つかたまって巣と思われる中に置いてある。

 ゆっくりと降りて行く、思ったほど風は強くなく寒くもなかった。

 頂上の巣の周りを形作っている草の上に降り立つと、黄緑色の草を手にしてみる。それは柔らかいけれどストローグラスに間違いなかった。こんなに柔らかければ、ストローグラスはただの草なのに。

 そう思っているヒタキを呼ぶ声が聞こえた。

「ヒタキ、行かないで」

 背後からの声に振り返ってヒタキは驚いた。

うずくまって横になっているのは、アジサシだった。

その時まで夢のような出来事の連続で、わくわくしてどきどきする胸を押さえ切れなくてヒタキはアジサシの事をまったく忘れていた。

「アジサシ、鳥につかまってたの?うわ、こんなに冷たくなって!」

 アジサシの身体は冷たく凍りついているようだった。手も足も感覚がなくなっているようで、立つ事も起き上がることもできなかった。

「どうしよう」

 たった今までの胸の高鳴りは、罪悪感に変わった。

 アジサシはあたしを追って心配して、あの頂上まで来たんじゃなかったの?なのにあたしは、外の世界にようやく一歩を踏み出したことでアジサシの事を忘れていた。

 ヒタキはアジサシの身体をさすってみたけれど、冷たい皮膚の下で体温は更に下がっていくように感じた。

 死んじゃう、アジサシが死んじゃう。

 小さな頃からずっとヒタキの後を追いかけてきたアジサシ。いつもいつも先を走るヒタキを追いかけてきて肩で息をしながら、言っていた。

『いつかヒタキを守れるようなたくましいおとなになって、ヒタキより早く先を走ってやるから!その時になって驚くなよ』

 そしていつもあたしは答えてたっけ。

「ははは、頼もしくなるのを待ってるからね。いつになるのかわかんないけどさ」

 まだ、あたしより早く走ることできてないじゃん。たくましいおとなになってないじゃない。

 ヒタキはアジサシの身体を抱きしめた。ヒタキの体温が冷たい氷のようなアジサシに奪われてゆく。

 アジサシの身体は温まる事がない。

 このまま、どれくらいもつんだろう。どうしたらいいんだろう。


 キュイ~~、鳴き声で岩が振動した。

 顔を上げるとピィが頂上の真ん中に向かって声を上げている。もう雛の鳴き声じゃない。いつのまに生えたのか、頭の上に四五本の白いしっかりした羽が持ち上がっていてとさかのように見える。

「おまえは、もうおとなになったんだね。アジサシはもう、おとなになれないのかな?」

 ヒタキの頬を涙が流れていった。

 二人はずっとずっと一緒だと思って生きてきた。疑いもしないで。

 その時、ミシミシと音がして巣の中の卵が壊れ始めた。ヒビが入って中からつついている雛のくちばしがみえた。

 一つの卵からまだひよこの毛になっていない、つむったままの大きな目玉の雛が顔を出す。

 ヒタキは驚いて、アジサシを抱きしめながら見ていた。

 するともう一つの卵も、その隣の卵も割れて中から雛が飛び出した。

 皆、ピィと同じ鳥に違いないと思った。

 けれどヒタキは体温が奪われ感覚がなくなって目にしている光景がゆがんでぼんやりしていくのが、なぜなのかわからなかった。


 あれ、ピィが心配してあたしのこと見てる。心配なんかすることないのにね。あたしはいつでも元気で強くてタフなんだからさ。

 ピィに乗ってここまで来られる女の子なんて、きっと世界中探したってあたしだけだよね。

 ああ、すごく楽しかった。世界が小さく見えて自分のいた場所がちっぽけなのが良くわかったな。

 こんな小さな世界で人間は争ったり憎んだりして、生きているなんてね。ばかみたいだよね。

 ストローグラスに覆われてるけど、あたしにはピィがいるからどこへでも行ける。

 昔、父さんが言ってた人に害を与える雲も風も水も、無かったよ。

 空もうんと澄んできれいだったよ。太陽はぴかぴかで暖かかったよ。

 でも、今はちょっと寒くてちょっと眠くなってきた。

 少しだけ眠ったら、ピィとまた空を飛びたいな。そして、ハヤブサの生まれた異国の地まで連れてってもらいたい。あれ、オオタカはどうしたかな。顔見ないままここまで来ちゃったんだっけ。

 少しだけ、心配してるかもしれない。ちょっと位、心配させといたほうがいいかな。

 アジサシ、一緒にお昼寝しよう。一緒に眠ったらきっと温かくなって元気に起きられるね。


 ヒタキは目を閉じた。

 遠くのほうで鳥の羽ばたく音がした。

 冒険の後の心地よい眠りに入る時と同じような気がしていた。

 アジサシの笑顔が何か言っている。

 うん、起きたら遊ぼうね。

 それまで、おやすみ。

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