○○差別
台上ありん
○○差別
差別とは、所詮は受け入れがたい他人の「好み」にほかならない。ある家の主人は醜い召使いより美しい召使いを好み、別の家の主人は黒人の召使いより白人の召使いを好むとしよう。しかし両者の違いはといえば、前者は容認できる好みだが後者は容認できない好みだということだけである。(ミルトン・フリードマン)
***
高松新司、26歳。某地方都市の市役所勤務。出身地は東京。
高校生のころから折口信夫の民俗学に取りつかれ、民俗学のフィールドワークができる地方の国立大学文学部に進学した。大学では、農村部の公民館の協力を仰いで、10月に執り行われるこの地域独特の収穫祭の研究をした。
卒業後は東京の両親のもとに帰ることも考えてはいたのだが、地方の県庁所在地という、都会と田舎の良い所も悪い所も併せ持つ地域で学生生活を送るうちに、第二の故郷とでも呼ぶべき愛着を感じるようになったため、地方公務員試験を受験し、役所勤務を希望した。
受験日前日、市のはずれにある道真公をご祭神とした天満宮に試験合格を祈願したのが功を奏したのかどうかはわからないが、とにかく無事に合格し、志望通りの職を得ることができた。
現在は、役所の経済労働部産業振興課という部署で働いている。市内で会社経営をしている人に公的な制度融資を案内したり、都会のアンテナショップへ農産品の出品を農協へ依頼したりと、忙しいがやりがいのある仕事をこなしている。
グレーのスーツを着込んで、短髪のヘアースタイル。身長は172センチで体重は65キロ。婚約者の彼女とは来年あたり結婚式を挙げる予定だ。
平凡ではあるが、充実した日々をすごす平和なひとりの青年だった。少し前までは。
理不尽も極まったような話なのだが、新司はある日を境に、差別主義者ということになってしまった。自分の言動によって差別された人を傷つけたというなら、反省しようもあろうし責任の取りようもあろうが、まったく身に覚えのないことで糾弾されるようになった。
とにかく、周囲の人間が言うには、新司は○○差別をしているらしい。
「なんとか差別」という単語を具体的に並べてみると、「人種差別」や「女性差別」や「職業差別」あるいは「性的指向差別」など、差別、という文字の前に人の属性とでもいうべきものが入ることが多いが、そもそも、○○ってなんだ。
最初に新司が○○差別者だと言われたのは、仕事が終わった後に、大学時代から付き合いがあり同じく役所に就職した後輩、北村正樹となじみの居酒屋に呑みに行ったときのことだった。ちなみに正樹は、市民サービス課という、住民票の発行をする窓口と、社会福祉協議会と連携して地域の福祉を担当する部署に在籍しているので、ふだんは役所内で会うことはあまりない。
平日の夕方ということもあり、居酒屋は客席もまばらだった。正樹は後輩とカウンター席に並んすわり、とりあえずビールと刺身の盛り合わせ二人前から始めることにした。
「かんぱい」
仕事終わりのビールは腹に染みる。
しばらく互いの近況などを報告しあった後に、
「先輩。最近、どうですか?」と正樹が言ってきた。
「どうって、まあ特には変わりはないんだが。……あ、そうだ。湾岸地区の市有地があるの、知ってるだろ?」
「新港のすぐそばのですか? 埋め立てしたはいいものの、ずっと空き地になってるっていう」
「そう。まだ取っ掛かりなんだが、もしかしたら、あそこに工場を誘致できるかもしれない」
「おお、すごいじゃないですか」
「いや、まあまだ問い合わせがあって、一度視察したいって言ってきただけだから、見込みがあるともないとも言えないような段階だよ」
一杯目のビールが空いて、二杯目を注文した。
「しかし先輩、婚約者がいるのに、俺みたいな後輩と一緒に呑んでいてもだいじょうぶなんですか?」多少、遠慮なさげに正樹がたずねた。
「え? ああ、特に問題ないよ。週に一回は、フィアンセの実家に行って晩御飯をごちそうになってるんだが、それ以外では平日の仕事終わりはけっこう自由にさせてもらってるよ。式まではまだずいぶん時間あることだし、急いで決めなきゃいけないようなことはもう決めちゃってるから」
「理想的ですよねえ。学生時代から6年越しの恋を実らせて結婚なんて。俺なんかもう彼女いない歴が6年になろうかというのに」
「いやいや、それが相手方の親や親族と関わるっていうのは、四面楚歌とまではいかないものの、なかなか居心地の悪いものだよ。当然これからも親戚付き合いしてかなきゃいけないから、イヤでもそのうち慣れるんだろうけど、やっぱり多少、気を使うもんだ。まあ、それはお互い様かもしれないけど」
「いいなあ。俺も結婚したいなあ。もし良かったら、婚約者さんのお友達でかわいい女の子いたら、紹介してくださいよ」
正樹は少し酒が回っているようで、しゃべり方が少しゆっくりになっていた。
「意外だな。お前はまだ結婚願望なんかないと思ってたんだが」
「自分でも、もうちょっと先のことかな、なんて思ってたんだんですけど、先輩のしあわせそうな姿みてたら、そりゃうらやましくもなりますよ」
注文していた鶏軟骨のから揚げが運ばれてきた。新司がざっとレモンをしぼる。
話題は変わって、ふたりは互いの幼少のころのことを話し始めた。
「先輩は都会っ子ですけど、子供のころってどんなことして遊んでたんですか?」
「どんなことって言っても、そんなに変わらないんじゃないかな。公園行ってボール蹴ったり、DSでポケモンやったり」
「へえ、意外と変わらないもんなんですねえ。夏休みは山とか海とかに行ったりはしないんですか?」
「そりゃ、それなりに遊びに行きはしたけど、海にはあんまりいい思い出がないなあ。夏休みのど真ん中だとめちゃくちゃ海水浴客で混んでて、泳ぐなんてできたもんじゃないから。まだプールに行ったほうがマシだったかも」
「僕たちはけっこう、カマキリとかバッタとか捕りに行ったりしてましたけど、先輩の実家の近所にはそういう虫とかいるもんですかね?」
「うーん。ダンゴムシとかはしょっちゅう見たけど、バッタとかカマキリはそんなにたくさんはいなかったかもしない。ちょっと遠出したら、いたけど」
正樹はジョッキに半分くらい残ったビールを一気に飲み干すと、それをテーブルの上に叩きつけるように置いて、「ガンッ」という大きな音を立てた。テーブルの振動が強く伝わり、醤油が入った取り皿が小さな波紋を表面に作った。
さすがに新司は驚いて、肩をすくめた。いったい、何だ。
「すみません、先輩。さっきから先輩の話聞いてると……、いや僕は別にかまわないんですけど、○○差別ととられかねませんよ」
正樹が新司を睨みながら言った。
「え?」
思わず絶句する。あまりに後輩の視線が鋭いため、まるで自分が批難されるべき何かをやってしまったのだろうかとひるんでしまった。
「な、なんだ? なんだよ」
「いえ……。だから、そういう発言はあんまり良くないです。先輩にこんなことを言うのは失礼かもしれませんが。○○差別と誤解されますよ」
「○○差別……?」
新司はそんな単語はこれまで生きてきて一度も耳にしたことはなかった。差別に関しては小学校の道徳の授業でさんざん言われてきたし、役所に勤め始めたころの研修で、本籍地あるいは国籍などの個人情報は極めて慎重に扱うべしと耳にタコができるほど聞かされた。
正樹はいったい、何に対して怒りを表明しているのだろう。
「そうです。まあ……相手が僕だからいいものの、あまりそういうことはよそでは言わないほうがいいですよ」
正樹は冗談を言ってるようではないようだ。
この地方独特の歴史的経緯が複雑に絡み合って、○○差別というのが発生し、それを現代の社会では禁止してでもいるのだろうか。いや、おそらくそれはない。大学四年間を民俗学に肩までどっぷりつかってすごした俺は、この地方に関する習俗については、ここで生まれ育ち歳をとった老人よりも詳しいくらいだ。○○差別などというのは、一度も聞いたことがない。
おそらく、正樹は酔ってるのだろう。
「気分を害したなら、すまない」
新司はそう言って、この場の不興をやりすごすことにした。
翌日の午後、新司のメインの仕事は「東日本酸素工業」の専務と企画部長と専務の秘書を、市内の工業用地に案内することだった。
役所を訪れた客を局長や課長とともに出迎えて、何度も頭を下げながら名刺交換をした。
市としては、空き地になっている市有地への工場の誘致は、なんとしても達成したい、いわば最優先事項と言っても良かった。
前日までにしっかり作り込んでいた資料を三人に手渡すと、専務はダブルスーツの胸ポケットから老眼鏡を取り出し、じっくり眺めた。
一通り資料に目を通した後、とりあえず現地を見てみたいということなので、新司が市の車を運転して案内することになった。
新港に通じる片側三車線の広い道路は、対向車線を大型のトラックがまばらに通り過ぎていく。
「率直に申しますと、ほかにも2、3の候補地を検討しているんですよ」専務は新司を値踏みするように言った。
「ええ、存じております。しかしご案内する土地は、国道にも近く大型船も接岸できる港もありますので、かなり利便性の高い工業用地となっておりますので」
「ほかに、そこの土地を欲しいって企業はあるの?」
「いえ、現在のところそういうお話はいただいておりません」
「そう」
到着した。
車を降りると、小学校の運動場のように造成された広い土地が目の前に広がっていて、遠くには貨物船から荷物を下ろすクレーンが緩慢に動いていた。空は若干曇っていて、湿気を帯びた潮風が弱く頬の横を左右に通り過ぎていく。
東日本酸素工業の三人は、それぞれ首を左右に振って当たりを眺めた。
「意外と、広いですね。こりゃいい土地だ。どれくらいでしたっけ?」
「およそ5200坪です」
「へえ。見た感じだと、もうちょっとあるような気がするけど、そんなもんか」専務が言った。そして、遠くを指さして、「隣のアレは、何の建物なの?」
「あ、運送屋さんですね。あの建物は物流倉庫になってます」
「そう。なかなかいい立地だね。これなら、10トントラックも難なく入りそうだし。あとは、インフラ維持にかかる経費なんだけど……」
その台詞を聞いて、新司はすぐに察した。工場建設の見返りとして自治体に要求するつもりなのだろう。具体的に言えば、水道料金の減額や固定資産税の減額、あるいは工場建設費の一部負担など。
新司には当然そんな決定を下す権限はないので、
「具体的な案をお示しいただきますと、課のほうで検討させていただきたいと思います」と言っておいた。
企画部長が、専務のほうを見ると何度かうなずき合って、
「近いうちに、提出させていただきます」と言った。
それを聞いて、新司はこの案はうまくまとまりそうだと確信した。東日本酸素工業の工場がここにできれば、市におよそ最低でも500人規模での雇用が生まれることになる。波及効果まで入れると、製造業の不振により停滞していた市内の景気に相当なインパクトを生じることは間違いない。
気が早いが、新司はすでに一仕事を終えたような気分になっていた。
その日の晩、新司は婚約者の佐藤明美の実家におじゃまをしていた。
リビングのソファに明美と並んで座り、もうすっかり顔なじみになった明美の両親と、晩御飯をごちそうになりながら日本酒の熱燗をいただいていた。
新司がやってくる日を選んでそうなってるのだろうが、出される食事は毎度非常に豪華なもので、恐縮してしまう。
「最近、仕事はどうだい?」と明美の父がおちょこに入った日本酒を飲んで、新司に尋ねた。
「ええ、特に変わりはないんですが……。今日の昼にはちょっと市内に工場建設を予定してる企業さんの接待をしてまして、なかなかいい感じで話が進みそうなんですよ」
「ほほう。いまどき国内に拠点を設ける製造業はめずらしいな。どこの会社だね?」
「申し訳ございません。それは現時点では公表できないことになってます」
明美の父は、少し驚いたような顔をしたが、
「ああ、そりゃそうだね。もっともだ。もし競合相手にでも知られたら、大変だからね」と納得した様子だった。「でも、市内のどこらへんに工場を建設する予定なのかくらいは教えてよ。それくらいは、いいだろう?」
「ええ。新港の隣です」
「へえ。あそこ、埋め立ててずっと塩漬けになってたけど、とうとう入る企業が来るのか。そりゃすごい。ということは、かなり大きな名の知れたところなんだろうね」
「はい。おっしゃる通りです」
明美が手を拍手するように叩きながら、
「すごいじゃない。正式に決まったら、教えてよね」と言った。
明美の母は専業主婦で、父は市内にある医療機器販売の会社で営業職として働いている。明美は一人っ子できょうだいはいないため、来年の6月以降は義父母となるふたりは、新司を実の息子のようにかわいがってくれる。
特に明美の父が気に入ったのは、新司の職業だった。倒産することなどおよそ有り得ない役人という職業は、一人娘を嫁がせるのにもっとも好ましいものと思ったらしかった。実際、役所は今でも年功序列がほぼ守られているし、よっぽどのヘマをやらかさない限りは、閑職に飛ばされることはあっても馘首されることはない。
将来の助役候補が配属されるのは市長の知恵袋としての役割を果たしている秘書室で、新司の所属する産業振興課は次点というところなのだが、それほど出世欲があるわけでもないし、また産業振興課でも高い点数を挙げれば秘書室に移動になることも有り得る。
「その、ちょっと気が早いかもしれないけれど、子供はいつくらいに作るつもりかしら」明美の母が何の前触れもなく言った。
「ちょっと、お母さん。まだ式も挙げてないのに、ちょっと焦りすぎよ」明美が少し大きめの声でそう答えた。
「でも……、二軒となりの大石さんところも、来年に三人目のお孫さんが生まれるらしくて、ちょっとうらやましくて……」
新司はにわかに自分の頬が赤くなるのを感じた。ごまかすように、おちょこの日本酒を煽る。
「そんなに急がなくても、私も新司くんもまだ26歳なんだから、今年来年みたいな話じゃないわよ」
「でもねえ、20代も半ばを過ぎたら、早ければ早い方がいいわよ。何も挙式を待つこともないじゃない。ふたりとも正式に婚約してるんだから」
明美はわざと困ったかのように顔をしかめている。
「まあ、それはさずかりものですから」そう言って新司はこの話題を終わらせた。
「それもそうよねえ」と明美の母は首を二度縦に振った。
明美の父が、空になったおちょこに日本酒を注いでくれた。新司は軽くそれに口を付ける。
「もう一本、頼むよ」明美の父が言った。
「はーい」明美がソファを立って台所に行った。
大皿に盛られたまぐろの刺身に箸を伸ばす。わさびをたっぷり溶かした濃い口しょうゆにそれを軽く浸して、口のなかに放り込んだ。
「ところで新司君。きみのご両親なんだが、来月の連休あたりにでも、もう一度こちらにおいでになったらいかがだろう」明美の父が言った。「いや、特に用事があるわけじゃないんだが……。とにかく両家で懇親を深めておくことは、悪いことじゃないからね」
いきなりの提案に新司は一瞬、何と答えてよいか迷ったが、
「ええ……。それは、そうですね」と調子を合わせるように答えた。
「なんせうちも、娘を嫁に行かせるなんてことは初めてだから、相手方のご実家とどのように接していいか、まだよくわからないんだ。遠いから、無理にとは言えないけれど」
「はい。式の前にもう一度くらい、そういう機会があっていいですね。両親に伝えておきます」
うんうん、と明美の父はうなずいた。
「そういえば、新司君はゴルフはしないの?」
「それが、役所に勤務し始めたころに何度か打ちっぱなしで挑戦はしてみたことはあるんですが、ボールがぜんぜんまっすぐ飛ばないんですよ。右に飛んだり左に飛んだり、たまにまっすぐ飛んだかと思うと、50ヤードくらいから急にカーブしたりで」
「はははっ。でもまあ、うまくボールに当たるようになったら、とりあえず初心者は脱したと言ってもいいよ。最初は空振りばかりだからね。もう少し練習してみれば、上達するかもしれないよ」
明美がお盆の上に乗せたお銚子を運んできた。そして新司に、
「そうよ。一度、お父さんと行ってみたらどう? 道具は一通り持ってるんでしょ?」と言った。
「まあ、安物だけど……。それでは、そのうちご教授願います」
表面がまだ熱を持っているお銚子を手に取って、新司は明美の父にお酌をした。
明美の父は、新司の「ご教授願います」という発言がいたく気に入ったようで、両の頬を持ち上げた笑顔を見せた。
「ウチは接待ゴルフするのも仕事みたいなものだからねえ。営業職ってのは、休日も仕事みたいなもんだよ」
「僕もたまに役所の先輩から誘われることはあるんですが、この際、お義父さんに教わって本格的に初めてみることにします」
「ゴルフができなきゃ出世できない、なんてのはもう前時代的な考えかもね。夏は暑くて冬は寒いが、デスクワークだけじゃどうしても運動不足になりがちだし、やって損なことはないよ」
「ええ。おっしゃる通りです」
夜の九時過ぎあたりまで明美の家に滞在した後、新司は暇を請うた。
スマホで代行運転を呼んで乗り込む。玄関の表まで出てきた明美が手を振って見送ってくれた。
代行運転手が乗る車の後部座席に座り、
「ちょっと、電話してもいいですか?」と断ってから、新司はスマホ電話を取り出した。
コールが耳の中で響く。外の景色は一定のリズムで街頭の横を通り過ぎて、まるで白い光が窓の外で点滅しているようだった。
「もしもし」およそ1か月ぶりに聞く母の声だった。
「あ、母さん。俺だよ、新司」
「うん。どう、元気にしてる? ちゃんとごはん食べてるの?」
「はははっ、何も問題ないよ」
「で、何か用? あなたか電話してくるなんて、めずらしいじゃない」
新司は右耳に当てていたスマホ電話を左耳のほうに持ち替えた。代行運転手は、こちらにまったく意識を向けていないように無表情で運転を続けている。
「今日、佐藤さんとこにお邪魔してて……、そう明美のところ。で、明美の親父さんが、もしよければ来月の連休にでも一度こちらにおいでになってください、って言っててさ」
「そう。……そうね。よく考えてみればまだ二度しかご挨拶してしてないものねえ。来月に行けるかどうかはわからないけど、お父さんと相談してみましょうね」
「親父は?」
「今、お風呂入ってるのよ」
時計はちょうど9時半を示していた。実家に住んでいるころから、父はいつもちょうど9時から風呂に入り、1時間ほどの長風呂をしてから出る。その習慣は今も変わっていないらしかった。
「そっか。アネキは?」
「まだ仕事なのよ……。最近、新しいプロジェクトのチームに選ばれたとかで、ずっと残業続きで、ちょっと心配で」
「はあ。相変わらずだなあ」
新司のふたつ年上の姉は、金融機関傘下のシステム会社に勤務をしている。来年は弟の新司が結婚しようというのに、姉はまだ独身だ。何よりも仕事が楽しくて仕方がないらしい。
「佐藤さんところに、あんまり図々しくお邪魔しちゃダメよ。きちんとお礼を言っておくのよ」
「わかってるよ。でも、来いと言われたら断るのが難しくてね」
「仕事のほうはどうなの?」
「どうって、別にかわりはないよ。いつもどおり」
車は交差点を曲がって、新司の住むアパートまで残り100メートルほどになった。
「それじゃ、まだ電話掛けるね」そう言って新司は電話を切り上げた。
間もなく代行運転の車は目的地に到着した。料金を支払い、車を降りてお釣りを受け取る。
明美の家で呑んだ酒が顔をまだほてらせていて、夜の冷気が気持ちいい。
「さあて、風呂に入って寝るかあ」
家の鍵を取り出そうとバッグの底のほうに手を突っ込んでいると、胸ポケットに入れていたスマホがメッセージの着信を知らせる音を立てた。
鍵を探すのをいったん中断し、スマホを取り出す。メッセージには、
「さっきの、アレ何よ」それだけ書いてあった。
「アレって?」と返事をする。
メッセージのやりとりが始まった。
「うちのお父さん、めちゃくちゃ怒ってたわよ。私も横で聞いててハラハラしちゃったわ」
「ん? なに? 何か悪いことした?」
「悪いことって……、悪いに決まってるじゃない。あんなこと、思ってても口に出しちゃダメでしょ。しかも、婚約者の父に対して」
「ごめん、いまいち何を言ってるかわからないんだけど」
「……とぼけてる?」
「は? いや、すまない。何を言ってるかわらない。なんか失礼な態度があったなら謝るから、教えてほしい」
「本気で言ってるの?」
「うん」
そこまで送信した後、新司は返事が来るのを、そのまま道端に立ったまま待っていたが、5分経過しても返事がなかった。
仕方ないので、スマホをスーツのポケットに突っ込むと、バッグから鍵を取り出して、アパートに入った。靴を脱ぎ明かりをつけて、スーツをハンガーに掛け、とりあえず服を脱いでパンツとシャツだけの姿になると、スマホを持ってベッドの上に座り込んだ。
明美はいったい、何を言ってるのだろう。佐藤家にお邪魔しているあいだ、何か失礼な言動をしてしまったのだろうか。いつものように、ごはんとお酒をいただいて、多少気を使いながらも談笑しただけ。何度首をかしげても、義父となるべき人の機嫌を損ねるような要素は見当たらない。
返事がなかなか来ないので、風呂に入ろうかとカッターシャツのボタンを外していると、ようやくスマホの音が鳴った。
とりあえずシャツを脱いでスマホを開くと、
「あなたずっと、○○差別みたいなこと言ってたでしょ。何考えてるのよ。お父さんもう、カンカンよ」と明美のメッセージがあった。
それを見ると、新司は苦り切ったように顔にしわを作って、ディスプレイを凝視した。
いったい、○○差別って何なんだ。後輩の正樹も、昨日そんなことを言っていた。まさか、明美と正樹が共謀して俺をおちょくっているんだろうか。いや、それは有り得ない。ふたりは互いに連絡先は知らないはずだし、いたずらにしてもこれはあまりに度が過ぎている。
「○○差別って、いったいなんだ?」そうメッセージを送ると、すぐに返事が来た。
「○○差別は、○○差別に決まってるじゃない。人として、ぜったいやっちゃいけないことでしょ。小学生でも知ってるわよ。へんな自己弁護しないで」
「本当にわからないんだ。○○差別って何か、教えてくれ」
「だから、○○差別は○○差別でしょ。そんなこともわからないの?」
わからない、としか答えようがない。いったい俺は何をやらかしたというのだろう。ほかの全ての人は知っているのに、俺だけが知らずにこの歳まですごしてきてしまった○○差別というのが世の中にあって、それが今たまたま、目の前に現れたというのだろうか。
それにしても、あまりに理不尽すぎる。○○差別は○○差別だとしか言われないなら、今後の言動に注意の払いようもないではないか。
怒りあるいは不安に似た気持ちはあったが、とにかく疑問を解消することが先だ。
「具体的に、何が悪かったか教えてほしい。いったい、俺のどういう発言が悪くて○○差別と誤解されたのか」
それに対する返事は、次のようなものだった。
「あーあ。だからB型はダメなんだよね。鈍感っていうか、自己中っていうか」
明美は初対面から、やたら血液型を気にすることが多かった。新司が交際を申し込んだときも、「B型だから」という理由でいったん保留にされた。血液型などという、自分にはいっさい責のないものによって性格を決めつけられることに多少違和感はあったが、ほかの多くの人もやっていることだし、なるべく気にしないようにしていた。
「ふざけるなよ。B型の何が関係あるんだ。だいたいお前だってAB型じゃないか。お前の気まぐれな性格で今までどれだけふりまわされたと思って……」スマホでそこまで打ち込んでいるうちに、新司はだんだん冷静になって、いったんメッセージを削除した。
何せ相手は婚約者なのだ。こんなつまらないことでケンカをしてはいけない。俺が折れてうまくいくなら、そうするべきではないか。
「すまない。以後、気をつけることにするよ。お父さんには君から謝っておいてほしい。さっき、うちの親に電話してみたら、来月の連休はぜひこっちに来たいと言ってたよ」新司は怒りを吐き出すように大きなため息を吐いて、そのメッセージを送信した。
しかし、返事は予想もしていないものだった。
「お父さんが、婚約解消も視野に入れて一度、考え直せだって。○○差別をするようなやつに娘はやれないって、怒ってる」
翌日朝、新司はほとんど眠れないままに出勤した。あれから明美には、メッセージを送っても既読にもならず無視された。
こんなバカな話があっていいのか。いったい俺は何を差別したというのか。
「○○差別」という単語をネットで検索してみたら、50万以上ものページがヒットしたのだが、そのうちのどれを読んでみても、「○○差別は○○差別である」以上の情報は得られなかった。
眠気の重みが圧し掛かったまぶたをこすり、役所の産業振興課のデスクに座るやいなや、先に出勤していた課長が、
「高松君、ちょっと話があるから、来てくれないか」と声を掛けてきた。
「あ、はい。参ります」
「こっち、こっち」課長は手招きをしながら、産業振興課のフロアから廊下に出た。
課長が新司を導いた先は、めったに使用されずほぼ資料置場となっている第二会議室だった。段ボールに放り込まれたファイルが、縦になったり斜めになったりしながら積み上がっている。
「おい、高松。お前いったい、何やったんだ」会議室に入るなり、課長が声を荒げた。
あまりの声の大きさに少しひるんでしまったが、極力平静を装って、
「えっと……、何のことでしょう?」と言った。
「昨日の、東日本酸素工業の専務さんのことだよ。現地を案内するのに、お前にまかせておけば問題ないと思ってたのに、こんなことになるんだったら俺が行けば良かったよ。まったく」
課長が何を言ってるのか、新司にはさっぱりわからない。
「あの……、何かございましたでしょうか?」
「ございましたもクソもあるか。あの専務、今朝早くこっちに電話してきて、工場建設の話はなしにしてくれって言ってきたんだ」
昨日、新司が得た感触とはずいぶん異なる。てっきり、すんなりとこの話は通るものだと思っていた。なぜそんなに急に態度を変えたのだろう。
「何か、お気に召さなかったことでもあったんでしょうか。専務様には前向きに検討してくださるとお約束いただいたと認識していますが」
「ああ、その通り。土地もじゅうぶん広いし、価格も安い。港も幹線道路も近くて、一般的な水道料金も近隣の市に比べたら安いほうだ。場所はとっても気に入ってくれてたみたいだよ」
「それが、どうして……」
「お前、専務の前で○○差別的な発言したそうじゃないか」
またか。新司はめまいがしそうだった。
「同行していた企画部長も秘書もあきれ返ってたってよ。お前がまさか、そんなこと言うなんてなあ。プライベートならともかく、重要な仕事相手に対して」
「私は、差別的な発言はしていません!」思わず、反発した。
いったい全体、○○差別って何なんだ。なぜ俺に付きまとうのか。
「お前にその認識がなくても、差別されたほうがそう意識したらそうなるんだよ。子供みたいなことを言うな。とにかく、どんなに有利な条件を提示されたとしても、役所の人間が表で堂々と○○差別をするような場所には、工場建設はお断りするって言ってきた。せっかく市にとって大きなチャンスだったのに、お前のせいで台無しだよ」
課長は新司を睨み付けた。
「ちょっと、ちょっと待ってください。私が専務にはお詫び申し上げます。どうか、もう一度チャンスを……。今後は決して○○差別は行わないと誓いますから……」新司はすがりつくように言った。
「やめておけ。無駄だ。おそらくすでに競合のほうにいい返事をしてるだろうよ。……言いたいことはそれだけだ。もう自分のデスクに帰れ。今日はデスクワークだけしてればいい。来客の対応はほかの者に頼むよ」
もはや取りつく島もなく、新司はうなだれるようにお辞儀をした。
「来年の人事異動で、それなりの覚悟はしておくように」と課長がまるでとどめを刺すかのように言った。
そして、回れ右をして会議室から出ようとすると、背後から、
「だから、都会出身のやつはダメなんだよ。かたちばかりが上品で、育ちが汚らしい」という捨て台詞が聞こえてきた。
その日の夕方、仕事を終えた後にアパートの部屋に帰ると、間もなくして明美から短いメッセージが届いた。
「婚約は解消します。どうぞお元気で」
その短い文章を理解するのに、しばらく時間が必要だった。
とにかく理由を聞かなければならない。返事をしたが、すべてのSNSおよびメールアドレスがブロックされていた。もちろん電話の着信も拒否されていた。
いくらなんでも、これは夢だろう。じゃなければ、ドッキリにでも仕掛けられているに違いない。きっと、そのうちいきなりインターホンが鳴って、「冗談でした~○○差別なんてありませーん。引っ掛かった?」と誰かが言ってくるに違いない。
全身脱力して、ベッドの上に座る。
もし仮に、百歩譲って、一万歩譲って俺が○○差別者で婚約解消されるにふさわしい人間だったとしても、たかがこんな携帯電話のメッセージひとつで捨てられるのは決して納得できるものではない。俺にも尊厳というものがあるはずだ。
すぐに車を運転して、明美の実家に行く。
玄関の前に立ちインターホンを鳴らす。間もなく、足音が扉の向こうから聞こえてきて、「はーい」という声とともに扉が開いた。
出てきたのは明美だった。
「あの、あれは……」
いったいどういうことなんだ? と言い終わらないうちに明美は、
「おとうさーん!」と叫ぶように家のなかに言った。
明美の父が奥から小走りで玄関にやってきて、新司の姿を認めると、まるで鬼のような形相で新司を睨み付けてきた。
「いったい、この期に及んで何をしにきたんだ。このウジムシが!」新司の肩を突き飛ばしながら明美の父が言った。
新司は後ろにのけ反った後、足がもつれてその場であおむけに倒れてしまった。倒れた拍子に後頭部を地面に打ってしまったため、一瞬記憶が途切れる。
「帰れ! 二度とくるのこの○○差別主義者が。もし次来たら、警察呼ぶぞ!」
新司は頭を手で押さえてしばらくうずくまっていたが、やがて両目からしぜんと涙が溢れてきた。
その日以降、新司は他人とコミュニケーションを取るのは最小限に留めるようになった。仕事が終わった後は誰とも会話をせずにまっすぐ家に帰り、仕事中も必要最小限の言葉しか発しない。努めてそうしようとしたわけではない。ただ、恐ろしかったのだ。
○○差別というのが何かわからないが、何か口を開けばそのレッテルを貼られる。ただ一言を発するにも、怯えてしまうようになった。数日前とは同一人物とは思えないくらいに、陰鬱な表情になっていた。
先の工場建設の反故以来、役所の産業振興課は新司にとって針のむしろ状態だった。本当は仕事など辞めて家に引きこもりたかったが、生活するためにはそうもいかない。
デスクの電話が鳴ったので、新司は受話器を上げて耳に当てた。
「はい、こちら産業振興課です」
「あ、もしもし。高松さん?」
聞き覚えのある声だった。市内の商店街で五代も前から「西野呉服店」を経営している、西野氏だ。西野呉服店は、商店街のリーダー的な役割を果たしているため、新司と社長の西野氏は面識がある。
「あ、西野社長でございますね。いかがなさいました?」
「あの、身体障害者雇用の公的な補助金について、角野さんとこの店主が知りたいって言っててね。そんじゃ、そういうことは役所に聞いてみようってことで、電話してみたんだけど」
「えっと……」
新司は記憶をいろいろと掘り起こしてみる。経済産業省管轄の補助金や公的助成については産業振興課の仕事の範疇だが、おそらく障害者雇用の分野については、国の助成制度は厚生労働省のものだろう。となると、窓口はどこになるのだろうか。
「申し訳ございません。ちょっとわかりかねますので、すぐに調べて、折り返しお電話させていただきます」
「あ、うん。よろしく」
新司は産業振興課のフロアを出て、役所の窓口業務と社会福祉を担当している市民サービス課に向かった。
ただでさえ他の部署に顔を出すのはそこそこ緊張するのだが、余計に身構えてしまう。
「あの、すみません」市民サービス課の出入口のすぐ近くに座っている男性職員に声を掛けた。「産業振興課の高松ですが、障害者雇用について担当されている方はいらっしゃるでしょうか」
「あ、はい。清原さーん」とその男性職員はフロアの奥に向かって声を上げた。
ひとりの女性職員が立ち上がって、こちらを見る。
「あ、是非あそこにお掛けになってください」男性職員は、出入り口のすぐ近くにある、二人掛けの安物のソファがテーブルをはさんで向かい合っているスペースを指さした。
清原美香が新司の前までやってきた。
「清原です。何か御用ですか?」
顔は見たことはあるが、しゃべったことはない。清原美香は新司よりもたしか5歳ほど年上で、新司が役所に就職したときは、住民票や戸籍謄本を発行する窓口業務を担当していたと記憶している。
「申し訳ございません。お忙しいときに。商店街の企業さんなんですが、さきほど障害者雇用に関するお問合せがございましたので、詳しく知りたいと」
「あ、はい。とりあえず、お座りください」
清原はソファを手の平で示した。新司は着席した。
「対象の事業所様の規模はどれくらいかわかりますか?」
「いえ、具体的には。でも商店街の店舗なので、おそらく中小企業に該当するかと思います」
「雇用者数が約50に達しますと、障害者雇用は義務となっていますが……、ちょっとお待ちください。資料を持ってきます」
そう言って清原は立ち上がって、奥のほうに歩いていった。
市民サービス課のフロアを見回すと、遠くに後輩の正樹がパソコンの前で何かをやっている姿が見えた。どうやらこちらには気付いていないらしい。
およそ5分後くらいに清原が戻って来て、新司の向かいに再び着席した。
手に持ってきた小冊子には、「障害者雇用について 厚生労働省」と書いてあり、クリアファイルには白黒印刷の資料が何枚か入っている。
「基本的に、こういう助成金は、こちらではなく職業安定所を通じてすることになっていまして……」
清原が小冊子をめくりながら公的な制度の概要について説明をするのを、新司はじっくりとレクチャーを受けた。清原の話し方は、複雑な助成制度を要点をしっかり捉えており、新司はうなずきながら感心していた。ところどころ疑問がある部分を質問すると、すっと頭のなかに入ってくるように答えてくれた。
一通り教えを受けた後、
「ありがとうございました。もしまた何かあったら、伺ってもよろしいですか?」
「ええ。内線電話で掛けてくだされたので、かまいませんので」
うなずいて、新司がソファから立とうとしたその時、いきなり強い力で上半身を後ろに引っ張られて、床の上に倒れ込んでしまった。
「きゃあ!」という女性の叫び声が近くで聞こえた。
床に腰を強く打ちつけて、骨盤全体が振動しているように痛む。どうやら誰かに襟首をつかまれて強い力で引き摺られたようだ。
いったい、何なんだ。新司は上半身だけを起こしてあたりを見回すと、周りを取り囲むようにして複数人の男が立って新司を見下している。
「なんだ、お前。さっきから横で聞いてると、○○差別みたいなことばっかり言いやがって」いちばん年配の、おそらく市民サービス課長らしき人が、怒鳴るように言った。
それから約一週間後の夕方、新司は自宅のテレビで市長の緊急記者会見のようすを見ていた。記者会見場は、役所に就職したとき、当の市長から役人たるものの心得を新入職員一同が訓示を受けた、市の公会堂だ。
「えー、この度はまことに申し訳ございませんでした」市長が頭を下げた。満席に埋まった記者席からカメラマンの炊くフラッシュが、市長の禿げた頭の上でパチンコ玉のように反射した。
市長は頭を上げると、次のように続けた。
「今般の、市職員による○○差別の件に関しまして、たいへん遺憾に思っております。また、当該職員により、ご不快を感じられた方、心を傷つけられた方に対して、深くお詫びを申し上げます」
市長は再び頭を下げた。さっきよりも明るいフラッシュが連射して光った。
市民サービス課での新司の○○差別の件は、課長を通じて役所の上層部でも問題として取り沙汰された。
翌日に新司は経済労働部に呼び出され、役所内において不適切な言動があったとして、戒告処分とされた。
新司は、
「私は何も悪いことはしていない。おかしいのは、あなた達のほうじゃないか。いったい、○○差別って何なんだ!」と訴えたが、それが新司の立場を悪くすることはあっても良くすることにはつながらなかった。
もはや役所は針の筵などという言葉では足りないほどの地獄となった。役所の廊下を歩けば、避けられるし、後ろ指をさされる。本音を言えば、もう出勤などしたくなかった。しかし、自分の正当性を主張するには、出勤し続けるほかに手段はない。
俺は決して、差別主義者などではない。○○差別というやつは、俺から婚約者を奪い、職場での平穏さえも奪いつつある。負けるものか。
腹を括って、何も仕事が与えられない産業振興課のデスクに座って、地蔵のように幾日かを過ごしていた。
しかしそのころ、インターネット上にとある動画がアップされた。
男女がソファに座って会話している様子が撮影されたもので、タイトルは「某地方市役所で高松新司という役人が○○差別を行っている証拠動画」となっていた。言うまでもなく、先般新司と清原が市民サービス課内で会話をしているところを盗撮したものだった。
この動画はすぐにインターネットニュースにも取り上げられ、「市役所職員による○○差別の実態、怒りの内部告発動画!」という煽情的な見出しで、数多くのプレビューを集めた。
”インターネット上に投稿された、とある動画が今話題を集めている。
公僕たる市の男性職員が相手の同僚女性に対して差別を行っているところを告発したものだ。
タイトルには、男性職員の実名が記載されており(仮にTとしておく)、動画の内容はTが女性に対して○○差別を行っている様子が生々しく撮影されている。動画内で、差別を受けている女性は、Tのしつこい差別的な言動に対して屈辱をこらえるような表情で耐えている。
はたして、このような前近代的なハラスメントを許していいものか。
記者は市に問い合わせると、市の広報部は「動画に関しては承知をしていますが、当該男性職員Tに関しては、すでに戒告としており適切な処分が取られたと考えております」と答えた。
信州国際学院大学国際関係学部准教授の三沢幸也氏に話を聞いた。
「戒告とは要するに、口だけで『コラ!』というだけのもので、なんら実態を伴ったものではありません。動画を拝見いたしましたが、極めて悪質な○○差別というほかなく、もっと重い処分が相当と考えます。アメリカや欧州では近年○○差別に対する法が整備され、ドイツをはじめ一部の国では○○差別を行った者に対しては刑事罰を科すことも可能としています。告発動画に関しては一部で、実名を記述するのは問題あるのではないかという意見もあるようですが、事の重大性から考えるとやむを得ないというよりも当然だと私は考えます。このような動画が世界に向けて発信されるのは、我が国の精神的な後進性を示すもので、国際社会に対して恥ずべきことであり、国民ひとりひとりが人事ではなく、いつでも我が身の周りに起こり得ることだと認識する必要があるでしょう。最後に、この動画を撮影し勇気ある告発を実行した方に心より敬意を表したいと思います」”
インターネット上の世論は一気に燃え上がり、「高松新司」という名前が検索エンジンの検索ワード一位に連日載り続けた。テレビのワイドショーもこの動画を毎日取り上げて、加害者の新司と役所の管理責任を追及する報道を繰り返している。一般紙も一面にこのニュースを掲載し、人権擁護で有名な日朝新聞は、この件に関する連載を始めた。
「○○差別者の高松新司をぶち殺せ!」
「○○差別主義者に人権はない。今すぐ排除するべし」
「高松新司って、同級生だわ。卒アルがあるから顔写真うpするね」
「高松新司の電話番号は090-××××-××××です」
「役所に対するデモあるらしいけど、お前ら行くの? 俺はいくけど。爆弾とか持っていっちゃダメだよ。繰り返すけど、爆弾とか持っていっちゃダメだよ」
「高松新司の姉、たぶんうちのグループ会社に勤務してるわ。高松真理っていうんだけど、すげえブスのくせにヤリマンの精液便所だよ」
匿名掲示板にはこのような書き込みであふれることになった。
役所には、「高松新司を首にしろ」や「住民税返せ」という抗議の電話が鳴り続け、役所の正面玄関前はプラカードを掲げたデモ隊が占拠した。
新司は直属の上司である産業振興課課長から、「しばらく、出勤しなくていい。もし出勤するなら、命の安全は保障できない」と電話で告げられた。
この混乱した事態を収拾するためには、市長が出てきて説明するしかない。そういう理由で、緊急の記者会見が開かれたのだった。
「当該職員Tに関しましては、一度戒告といたしましたが」記者会見場の市長が続ける。「内部で再審査した結果、それでは不十分ということで、あらためて懲戒免職処分といたします」
新司はテレビを通して、自分が失職したらしいことを知った。
「いったい、○○差別って何なんだよ!」
ウイスキーの瓶から濃い酒をラッパ飲みし、自室の床に血の混じったゲロをぶちまけた後、新司はひとりでそう叫んだ。
***
清原美香はテレビを見ながら、呆然としていた。
「当該職員Tに関しましては、一度戒告処分といたしましたが、内部で再審査した結果、それでは不十分ということで、あらためて懲戒免職といたします」
あの日の職場で、理由はさっぱりわからないのだが、障害者雇用について質問に来た年下の職員が、いきなり床の上を引きずり回されて、その後美香は同僚に白々しいほどに同情された。
高松新司という産業振興課の青年が吊し上げれたのは、どうやら彼が私に対して「○○差別」というのをしたということらしいのだが、私には差別されたという意識は全くない。
そもそも、○○差別っていったい、何だろう。今までそんな単語は聞いたことがない。
清原美香は高校卒業と同時に役所に就職して、最初のうちは窓口担当の業務をしていた。市民はみんないい人ばかりなのだが、ごくたまに暴力団まがいのクレームを付けに来る人もいるため、窓口業務は敬遠されがちだった。
役所に勤務し始めてから7年後の25歳で、中学のころからの同級生と結婚したのだが、3年後に相手の浮気が原因で離婚した。子供はいない。
以降、ひとりで生きていこうと覚悟をして役所勤めに精を出した。
それが認められたのか、窓口業務から福祉担当の主任として抜擢され4年目になる。
離婚歴のある職員は役所内では圧倒的少数派なのでちょっと肩身の狭い思いをすることはたまにあるが、仕事はとてもやりがいがあり、毎日とても充実していた。あの日までは。
市長の記者会見は、記者との質疑応答に入った。
手を高く上げた記者が指名された。
「T氏についてお聞かせください。ふだんの勤務態度は、いかがだったのでしょうか」
「えー、産業振興課の課長からは、とても真面目だったということを聞いております。しかし、つい最近になってから、○○差別ととられかねない言動が頻繁にみられるようになり、課長から何度か注意したことがあったようです」
「市長としては、今回の件に関しまして、どのように責任をお取りになるおつもりでしょうか?」
「えー、わたくしといたしましては、市役所内でこのような不祥事が二度と起こらないようにするのが、職責を果たすことになると考えております」
「具体的に、何かお考えでしょうか?」
「えー、全職員に対して、○○差別に対する研修を実施し、意識の向上に努めることを計画しております」
「今回加害者とされているT氏ですが、市民の方への○○差別のような態度はこれまであったのでしょうか?」
「いまのところ把握しておりませんが、調査を継続しております。もし万が一、市民の皆さまへの差別的言動があったとしたならば、決して許しがたい行為であると考えております」
「今回、被害を受けた女性職員に対しましては、どのような措置を取られるおつもりでしょうか?」
「えー……。今回被害を受けた職員Kさんは、○○差別を受けたことで非常に強いショックを受けており、ただいま休職中でございます」
はあ? と美香は思わずテレビに向かって声を上げた。職員Kさんというのは、まちがいなく清原美香のことだ。出勤したいというのに、来るなと言ってきたのは市民サービス課の課長だった。まるで、美香が出勤することが迷惑であるかのような言いぐさで休暇を取ることを強要してきた。
美香は口を開けたまま茫然としてしていたが、画面の向こうの市長は話を続けた。
「Kさんに関して、市としては心身のケアにじゅうぶん努めていただいて、回復後に復帰していただくことを考えております」
ほかの記者が挙手をした。
「被害者のKさんに関して、可能ならばお答えいただきたいのですが。Kさんは市役所でどのような業務を担当されていたのでしょうか。それと、今回の騒動に関して、Kさんにも何らかの責任があると市長はお考えでしょうか」
「えー、Kさんは市役所で住民の福祉を担当する業務に就いており、○○差別に関しては一刻もはやくそれをこの社会から排除するよう日々邁進しておりました。今回の件に関して、すべての責任は加害者であるTに属するもので、Kさんに落ち度はまったくございません。Kさんは一方的な被害者でございます」
私でない人たちが勝手に、○○差別の被害にあって苦しんでるかわいそうな私をねつ造していく。この人たち、いったい私の何なんだろう。私は高松新司さんによって何らの損害も受けていない。
そもそも、○○差別って何だ。
夢でも見ているんじゃないだろうか。きっとそうに違いない。美香はそう思って、テレビのチャンネルをザッピングしてみたが、ほかのテレビ局も市長の記者会見を生中継していた。
民放のとあるチャンネルでは、記者会見している市長を右下のワイプ画面に表示させて、どこかで見たことのあるコメンテーターが、何やら難しいことを言っていた。
「……何にせよ、市長の記者会見は、開いたこと自体は高く評価できるかもしれませんが、遅きに失したと言わざるを得ないでしょうね。インターネットで告発があり、いわゆる『炎上』してから対応したというのでは、危機管理上ぬかりがあったと」
この発言をした人物の経歴が画面のテロップで表示された。
「信州国際学院大学国際関係学部准教授 三沢幸也 東京大学法学部卒 厚生労働省勤務後にイエール大学留学 社会学修士 今年4月より現職」
タレント学者のひとりだ。日焼けしたような色黒の顔をしているが、襟足を長めに伸ばした髪の毛が中性的で柔らかな印象を醸し出し、かなり人気のコメンテーターとしてテレビに出ている。
番組司会のアナウンサーのような人が、三沢にたずねる。
「三沢先生は今回の件をどのようにお感じになってられるでしょうか」
「いや、これは決して、ひとりの人間が○○差別したという小さいレベルで片づけてはいけない問題だと思っています。○○差別が許されざる行為だというのは論を待ちませんが、表面上はダメだと言っていても、ごく一部、やはり心のなかに差別的な感情を持っている人間がいる、ということを示したんじゃないでしょうか。これは社会全体で対処するべき課題で、よりいっそう、学校や職場、あるいは家庭での啓蒙活動が必要なんだな、と考えております」
美香はリモコンを投げつけるかのように操作して、テレビを消した。
ほぼ強引に一週間の休暇を取らされた後、美香はようやく役所に出勤した。市役所の入り口を占拠していた差別反対のデモ隊は、記者会見が開かれたことに納得したのか、きれいさっぱりいなくなっていた。
ひさびさに市民サービス課のフロアに入ると、ふだんはあまり交流のない同僚や後輩などが、「だいじょうぶ?」とか「あんなにひどい差別を受けて……、お察しします。もっと休んではいかがですか?」などと声を掛けたきた。
彼ら彼女らにとってはとにかく、私はかわいそうな被害者でなければいけないらしい。
争うのも馬鹿馬鹿しかったので、
「だいじょうぶです。○○差別なんかに負けるような私じゃありませんよ」と偽りの笑顔を作って見せた。
○○差別って、いったい何なんだろう。今さら誰かに聞けるような雰囲気ではなかった。
休んでいるあいだ、ほかの誰かが仕事を片付けてくれていた、などということはなく、処理すべき案件が積み上がっている。社会福祉法人や特定NPOへの書類の送付など、誰がやっても同じなんだから、同情するくらいならこれくらいやっておいてくれればいいのに。
そんなことを考えながらうんざりしてデスクに座ると、同じ課で働く北村正樹が近寄ってきた。
「あの、清原先輩」
「なんですか?」と美香は答えた。
北村正樹とは同じフロアで働いているものの、彼は大卒で役所に入っており歳も少し離れているので、美香とはあまり交流はなかった。
「お元気そうで、よかったです」
「はあ……」
「清原さん、実はですね……」北村正樹は声をひそめて、美香に顔を近づけてきた。「あの動画、撮影してインターネットにアップしたの、僕なんですよ」
「え?」
美香は思わず顔をしかめた。北村正樹は、まるで大きな功績を上げたかのように勝ち誇った顔をしている。
「高松新司は、実は僕の大学の先輩なんですが、つい先日あたりから急に○○差別のようなことを言い出すことがあったので、あの日、このフロアにやってきたときから警戒していたんですよ。スマホをスーツの内側に隠して、バレないように近付いていたんですが、案の定、清原さんに○○差別的な言動を繰り返すじゃありませんか」
美香としては、迷惑この上ない。しかしそんな美香の感情に頓着せずに北村正樹は自分の殊勲を披露し続ける。
「高松のやつ、クビになったらしいですが、当然のむくいですよね。本音を言うと、大学のころから好きじゃなかったんですよ。いけ好かないというか……。そもそも、高松の祖父は帰化人だって噂が昔からありましたから、あんなふうにたましいが意地汚いのも、納得ですよね」
昼休み、午後の仕事が始まる直前、美香は課長に、役所のいちばん最上階にある応接室に行くよう命じられた。最上階は、市長の執務室と助役の個室、そして秘書室などがあるフロアで、そこの応接室となると、市長や市議会議長と直接つながっているVIPを迎える部屋になっている。
緊張しながら分厚い扉をノックすると、
「どうぞ」という声が中から聞こえてきた。
「清原美香です」扉を開けて頭を下げる。
「どうぞ、こちらへ」
顔を上げると、予想はしていたが、そこにいたのは市長だった。
そもそも市長は毎日役所に出てくるわけでもないし、美香のように何の肩書もついていないような職員とは、顔を合わせる機会などほとんどない。雲の上の人と言っても過言ではない。直近で美香が市長を見たのは、テレビに写っていた例の記者会見の姿か。
「こちらへ」市長はもう一度言った。
「失礼いたします」と言って美香は示されたソファに座った。
市長のすぐ隣に、40代間近と思われるような男が座っている。どこかで見たことあるような……、などと思っていると、市長がその男を美香に紹介した。
「こちら、三沢幸也先生です。ご存じでしょう?」
「あ……」
テレビでコメンテーターを務めている、あのタレント学者だ。テレビで見るよりは小柄のように感じた。
三沢はニコニコした顔で、美香に握手を求めて来た。
「初めまして。清原美香さんですね。三沢幸也でございます。市長さんからお話を伺いましたが、この度はもう、なんと申し上げてよろしいやら……。しかし、僕が来たからには、もう安心してください。二度とあなたがあのような辛い思いをしなくてすむよう、善処いたしますから」
「はあ……」
なぜタレント学者がこのようなところにいるんだろう。別にファンでもないし、この学者の専門分野にも興味はないので、何の感慨も湧いてこない。
「あの……、どうして三沢先生のようなご高名な学者さんが、こちらにいらしているんでしょう」美香は率直に疑問を口にした。
三沢が答える。
「あ、そうですね。まだ公表はされておりませんが、この市役所の全職員を対象とした、○○差別に対する意識改革の研修を、僕が担当することになったんです。たくさんの職員さんがいらっしゃるので、一度に、というわけにはいきませんから、いくつかのグループに分けて、複数回になる予定です」
「はあ、なるほど……」
「それで、できれば研修の参考に、今回のことについて少しお聞きしたいと思いまして。もちろん思い出すも辛い体験だったでしょうが、なんとか、お願いします」
まだ会ったばかりなのだが、美香は三沢にあまりいい印象を持たなかった。誰もがうらやむような経歴を持っており、頭がいい人であることは間違いないし、おそらく正義感の強い人なのだろうが、どこかうさん臭さのようなものを感じてしまう。
「あ、清原さんだけは、今回の被害者だから、三沢先生の研修は受講しなくてもいいからね」市長が言った。
「え、あ……。はい、ありがとうございます」
本音を言えば、その研修とやらを受けてみたいと思った。今のところ、○○差別というのが何かよくわかってないのは、世界で自分だけらしい。私を瞬時に異世界のような場所に連れていき、高松新司という青年の職を奪った○○差別とは何なのか。
「職員の皆さまに、清原さんが受けた心の傷がいかに深く、また、加害者の高松なる卑劣漢の振る舞いがいかに罪深いか、ぜひ知っていただきたいと思います」三沢は声高らかにそう宣言した。
そのとき、ソファの横に置いてあった三沢の革製の手提げバッグのなかで、携帯電話が着信音を鳴らし始めた。
「あ、申し訳ございません。すぐに電源落とします」
三沢がバッグに手を突っ込んでゴソゴソ動かしていると、
「いえ、遠慮なさらずお出になってください。三沢先生ほどのお忙しいお方になら、ほかにもいろいろと重要なお仕事がおありでしょうから」と市長が言った。
「すみません。そうさせていただきます、失礼します」
三沢が携帯電話を耳に当てて、一礼するとしゃべりながら応接室から出て行ったので、図らずも応接室のなかで市長と美香のふたりだけになってしまった。
自分のような下っ端が、選挙を経て選ばれた市長に、いったい何をしゃべればいいのだろうか。黙ってままでいるという選択肢もあるが、それも何か気まずい。
それを察したのか、市長のほうから美香にしゃべりかけ始めた。
「本当は、もっと職員の方とも交流したいと思ってるんだけどね。この時期だとどうしても議会の答弁が主な仕事になってしまうから、局長部長あたりと書類のやり取りしかできなくなっちゃうんだよ。本当、市長なんてつまらない商売だね」自嘲気味に言う。
「あ、いえ。はい……」
「この際だから、何か仕事をする上で不便なことがあったら、是非教えてくれないかな」
「いえ、特には……」
仕事をしていて、もっとあれがこうなればいいのに、というのは正直に言って山ほどある。ただ、言ったところで変えられるようなものは、おそらくあまりない。
「あの、……ひとつだけ、よろしいでしょうか?」
「うん。どうぞ」
「えっと、住民票交付の窓口業務のことなんですが」
かつて美香もそこで働いていた。基本的には、市民の申請を受けて、住民票や印鑑証明などを発行する簡単な業務なのだが、その性質上、事務というよりは接客業に近く、いろいろとクレームを受けることが多い。ときには、理由なく激高して職員に突っかかってくる市民もいるため、身の危険を感じることもあった。
美香は言葉を続ける。
「窓口業務に就いているのは、女性職員のほうが今でも圧倒的に多いです。というか、女性職員が出られないときだけ、代わりに男性職員が出るっていうふうになってて……。別に、あの仕事をやるのに、性別は関係ないと思うので、男女同数にするというわけにはいかないでしょうか」
今も窓口業務を担当している後輩が、「せめてもっと男性職員が多ければ、絡まれる頻度も減るかもしれないのに」と愚痴をこぼしていた。
しかし、その美香の訴えに対して、市長は特に深く考えていないようすで、
「いや、ああいう仕事は女の方が向いてるでしょ」と言った。
タレント学者の三沢はそれから週に2回あるいは3回の頻度で役所にやって来るようになり、課ごとに「○○差別解消研修会」というのを開催した。美香を除く職員は強制参加となる。
職員の大半は、普段の業務の後に参加させられるこの研修会を煩わしいものと感じていたが、特殊な形での残業であると思って受け入れていた。少数ながら、テレビで活躍する三沢幸也に会えるのを楽しみにしていた連中もいたようであるが。
三沢がこの研修に要する費用として現金2000万円を市に要求し、しかも市長の記者会見が開催される前日まで役所の表で騒いでいたデモ隊は、三沢の息のかかった市民団体だったという怪文書が役所内で出回っていたが、真偽のほどは確かめようもない。ただ、その団体を設立したのが三沢の配偶者の親戚だというのは、本人も認めている。
それから約3週間後、美香は午前の勤務中に三沢に呼び出された。
三沢は研修の講師として役所に通ううち、会議室の一室を自分の書斎のように使い始め、秘書室からは専属の秘書がひとり就いた。役所内で三沢の立場は、研修の講師以外の何ものでもないはずなのだが、いつのまにやら、部長や課長級の幹部をあごで使うようになっていた。
「清原です」と言って美香は会議室の扉をノックした。
「どうぞ」という声が中から聞こえてくる。
扉を開けると、三沢が立ってこちらを向いていた。美香に向かってすかさず手を出して握手を求めてくる。
「お待ちしていました。ようこそ」
美香は三沢の手を握り返す。
「あの、何かご用でしょうか」
「まあ、とりあえず、お座りください」
市民サービス課のものとは比較にならないほど、大きくふかふかなソファを三沢が指さした。
「失礼いたします」
三沢のデスクの上を見てみると、英語らしい分厚い書籍が何冊か置いてあった。デスクのすぐよこには大きな本棚があり、そこには何枚かのファイルが横向けに置いてある。本棚もデスクも真新しく、どうやら役所内のあまりものを持って来たというものではなさそうだ。
三沢は大きな咳払いをひとつした。
「ずばり、本題を言ってしまいますが、清原さん。あなたには○○差別の加害者の高松新司を訴えてもらいます」
「え? 訴える?」
「そう。民事訴訟を起こします」
あまりに予想していなかったことを言われて、冗談ではないかと美香は思った。これまでふつうに生きてきた美香としては、民事訴訟など起こした経験は一度もない。離婚したときも、多少モメはしたものの、協議が成立した上でのことだった。
「な……、なぜそんなことをしなければいけないんでしょう?」いきなりのことなので、思考がうまくまとまらない。
「なぜって、被害を受けたら、その救済を求めるのは、当然でしょう。何ら、おかしなことではない」
「でも……、私は被害なんて、感じてませんから。訴えるなんて。それに、高松さんはもう役所もクビになったし、じゅうぶん罰を受けてるじゃありませんか」
「ここまで大きな事件になった以上、あなたひとりの問題ではないんです」三沢は強い口調で言った。「例のインターネットの動画が広まってることは、ご存じでしょう。あなたには、ここでせいいっぱい戦う義務がある。そうすることが、これから○○差別の被害を受ける人を減らすことにもつながるし、これまで○○差別を受けてきた人へ勇気を与えることにもなる。もう弁護士の手配はすませてありますし、すでにこちらに向かってます。本日の夕方4時にはここに到着するでしょう。あなた名義の銀行口座で訴訟費用にかかるお金のカンパも集まっていて、昨日の時点で300万円あまりの善意の募金がなされています。もう後には引けないんです。覚悟を決めてください」
「勝手に決めないでください!」
美香は叫んだが、三沢はまったく気にしていない。
「住民票と、印鑑証明を取っておいてください。来週でけっこうですから、実印を持ってきていただきます。あとは私たちにまかせておいてくだされば、それでかまいませんので。それと、今日の午後6時から、公会堂で訴訟提起の記者会見を開きますが、あなたは出席しなくてもけっこうです」
記者会見は予定よりも10分ほど遅れてから始まった。夕方のニュースはこの記者会見を生中継しており、美香は自宅のテレビでその様子をじっと見ていた。
「えー、それではただいまから、○○差別に対する民事訴訟の提訴に関する記者会見を開催いたします。よろしくお願いします」司会役を務めている三沢が言った。
駆け付けた報道陣により一気にフラッシュが炊かれる。
白い布が掛けられたひな壇に座っている3人のうち、ひとりがマイクを持って立ち上がった。
「えー、主任弁護士の町田好蔵と申します。よろしくお願いします。このたび、役所内において、男性T、26歳により、K氏に対する○○差別があったのは、みなさまご承知の通りかと思います。もちろんこれはK氏に対する著しい人権侵害であり、決して看過するわけにはまいりません。しかし、我が国では法整備が遅々として進んでいないため、いくら○○差別をしたからと言っても刑事罰に問われることは有りません。立法府に一刻も早い○○差別禁止法の成立を促すためにも、今回の民事訴訟はたいへん意義のあることだと考えております。民事ですので、訴訟の対象となる不法行為は名誉棄損のみとなりますが、加害者が公務員であったことに鑑みて憲法の保証する基本的人権の侵害についても質す予定でございます」
町田という弁護士は軽く頭を下げた。
三沢と町田が何やら目で合図をしあって、三沢が再びマイクを握った。
「被害者であるKさんでございますが、いまだに○○差別を受けたことによるショックから回復しておらず、役所に出勤はしているもののひどく心身を消耗しており、今日の記者会見への参加は見送らせていただきました。今回の提訴に関して、Kさんから書簡を預かっておりますので、朗読させていただきます」
三沢は胸のポケットからきれいに折りたたまれた紙を取り出して、マイクの向こうに広げて両手で持った。そして朗読を始める。
「この度、私事で多くのみなさまにご心配をおかけしましたことを、こころよりお詫び申し上げます。私は役所内で福祉を担当しており、市民のみなさまに奉仕させていただいておりました。そういう職務を果たすなかで、公権力とは常に弱者のためにあるとの思い胸に、末端にありながら日々を過ごしておりました。ときおり、ご年配の方などは、古い意識を持ったまま、まったく悪気のないままに差別的な発言をなさる方もいらっしゃいます。私はそれに接するたびに、たとえ年上の方でもご注意申し上げておりました。意見が衝突することはあっても、きちんと説明すれば、どんな方でも最後はご理解いただき、人権を守ることの尊さを共にすることができました。今回、同僚の職員であるT氏から、私がひどい○○差別を受けたのは皆様ご承知のとおりかと存じます。私は、罪を憎んで人を憎まずの金言のとおり、T氏が悔い改めて謝罪いただければ、それですべて水に流すつもりでおりました。しかし、役所の内部調査において、T氏は反省するどころかさらに○○差別的な言動を重ねるという行動に出ました。こと、ここに至ってはやむを得ないと思い、残念ながらT氏に対し訴訟を起こすことを決断いたしました。私の願いはただひとつです。すべての人がその人権を尊重され、差別を受けることのない平和な社会が一刻も早く実現すること。そのために私にできることは何でもする覚悟がございます。これをお聞きの皆様が、よりよい明日を築くために私とともに声を上げてくださることを期待いたします」
先日の市長の記者会見のときも、さんざん呆れさせられたが、今回は輪をかけて酷かった。三沢が読み上げたKさんの書簡とは、いったい誰が書いたのか。少なくとも美香は書いていない。
記者会見は質疑応答に入った。記者が次々と美香についての質問をし、三沢が勝手に答えている。美香はまるで、衆人環視のなかで繰り返し強姦されているような、みじめで打ちのめされた気分になった。
とにかく、あのような捏造の書簡を高らかに読み上げられてしまったままでは、高松新司にとんでもない誤解を与えることになってしまう。美香は役所の職員名簿を普段は使わない書類ファイルから取り出して、新司の電話番号に電話を掛けた。
予想はしていたのだが、新司の電話は何度コールをしても留守番電話サービスにつながるばかりだった。
美香はパソコンを取り出してワープロソフトを起動させ、新司宛ての手紙を入力し始めた。懲戒解雇された後、もしかしたらもうどこかに引っ越しているのかもしれないが、手紙なら新たな住所に転送されることが期待できる。
何らかの形で新司と連絡を取らなければならない。
テレビの向こうでは、記者会見のフラッシュを一身に浴びている三沢が、次のように答えていた。
「我々はこの聖なる戦いに、必ず勝ってみせます。正義が悪の前に膝を屈した例は、人類史に一度もございません。悪しき差別主義者を地獄の業火に葬り去り、人類の新しい歴史をスタートせしめることが、今この時代にここに立つ我々に対し天より賦与された崇高なる権利であり使命であると確信しております。願わくば、自由と民主主義と、言論の自由を信奉する良識ある市民の皆様とともに
三沢はまるで英雄のように満場の拍手を受け、一礼をした後、満足げに着席した。
数日後の日曜日、美香は郊外のちょっと大きな喫茶店に行った。待ち合わせの相手である新司はすでに来ていた。
ウエイトレスに導かれて四人掛けのテーブルに座ると、
「遅くなって、申し訳ございません」とすでに着席していた相手に詫びた。
ひさしぶりに会う新司の姿は、以前とは似ても似つかないものになっていた。つばの長い帽子を深くかぶって陰っている顔は、まるでガイコツに濁った雨水色の皮膚を張り付けたように痩せこけている。唇は道端で死んだみみずのような紫色をしていて、プルプルと小刻みに震えていた。
一方的で自分勝手な印象だが、その変わり果てた青年の姿を見て美香は、「廃人」という単語が頭に浮かんだ。
現代の社会で、差別主義者の烙印を押されると、人はここまで消耗するのか。その姿は、まるで世の中から迫害されて人権を奪われている被差別者のそれだった。
「すみません、せっかくお電話いただいたのに。ちょっと所用で実家のほうに帰っておりましたので」新司は細い首を伸ばすようにして頭を下げた。
「あ、いえ。こちらこそ、急にお手紙差し上げたりして、失礼いたしました」
注文したコーヒーがやってくるのを待ってから、美香は何度も頭のなかでリハーサルをしたセリフを新司に告げた。
「いろいろと、申し訳ございませんでした。私は高松さんに○○差別をされたという意識はまったく持っていません。あの日、高松さんは普通にお仕事をなさっていただけと認識しています。でも、何が気に入らないのかわかりませんが、周囲の人たちが勝手に高松さんを悪者にして私を被害者にしたんです。本当に、心当たりはないんです。このような事態になってしまうなんて、高松さんのほうが被害者で、むしろ私が加害者です。本当に、すみませんでした」
新司は目を閉じて、「はい」と消え入るような声で言った。
もしかして、もう新司の意識は半分死んでいるのではないだろうか。そんなことを思ってしまうくらいに、薄い反応だった。
「今回の、民事訴訟で提訴するというのも、まわりの人が勝手に決めて、勝手に手続きしたんです。私の知らないところで。どこかから、○○差別の専門家という三沢っていう学者とその取り巻きがやってきて、自分たちの主張を大っぴらに叫んで注目を浴びるために、私も利用されたんです。だから、訴訟は必ず取り下げます。どうか安心なさってください」
訴訟を起こすために三沢がわざわざ東京から呼び寄せた町田弁護士というのは、苗字は違うものの三沢の親族で、訴訟のためのカンパとして集まった数百万円の募金は全額その弁護士のふところに入るらしかった。美香はそのあまりにえげつない手口に、「差別って、儲かるんだなあ」と他人事のように感心してしまった。
「そうですか」
新司はコーヒーカップを手に取った。それさえも重く感じるのか、両手でカップを弱々しく包み込むように持ち上げて、音をたてて一口すすった。
「ありがとう、ございます」カップから口を離して新司が言った。「差別されたと思っていない、と清原さんがおっしゃってくださっただけで、救われたような気になりました。僕は間違っていないと、確信しましたから。世の中のほうが、狂ってるんですよね。……そういう認識でいいんですよね」
「え……? あ、はい。そうだと思います」
世の中のほうが狂ってる。その台詞に美香は背筋がぞっとした。狂った人間たちが、正義の名と多数の意見を以て、清廉潔白な人間を断罪している。
「あの、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」新司はカップをソーサーの上に置いた。
「はい」
「○○差別って、いったい何なんでしょうか……?」
美香はその問いを聞くと、なぜか乾いた笑いがしぜんと出てきた。
「すみません、私もそれがわからないんです。○○差別って、いったい何なんでしょうね……」
差別した人間と差別された人間だけが取り残されて、互いになぐさめ合う。沸騰しているのは、無関係の連中ばかりだ。
そう思うと、自嘲するような笑いが止まらなくなって、低い声を押し殺した。つられるように、新司もひそめた笑い声を上げた。
ふたりの笑いが止まると、会話が途切れた。喫茶店内には、クラシック音楽が流れ続けている。
「実家にお帰りになって、いかがでした? ご両親はお元気でしたか?」沈黙を埋めるように美香が言った。
「いえ、帰ったのは、両親の葬式だったんですよ」
「え?」
「父の葬式」あるいは「母の葬式」という言葉なら理解できるが、両親の葬式とはいったい何なんだろう。言い間違いだろうか。
その疑問に答えるように、新司は次のように言った。
「あれ以来、うちの実家の住所もネット上に晒されて、毎日のようにいやがらせといたずら電話と宅配のピザが山ほど来るようになりまして、ね。父がとうとう耐えられなくなったらしくて、無理心中ということになったようです。姉は無事でしたが、姉も会社から自主退職を勧告されました。姉には、もう二度と実家に顔を出すな、と言われました」新司は他人事のように淡々と説明した。
無意識のうちに、美香は喫茶店の床に頭をこすりつけて、土下座をしていた。涙が一気にあふれてきて鼻水とよだれで顔がぐちゃぐちゃになった。
「ちょ、ちょっと。やめてください。お店の方にご迷惑です」
新司に腕を引っ張られて美香は立ち上がった。
お手拭きで顔を拭くと、
「すみませんでした。本当に、申し訳ございません」と頭を下げた。
「いえ、清原さんのせいではないです。あなたはきっと、私の味方です」
そして、仕事も婚約者も両親も失った青年は、つぶやくように、
「○○差別が悪いんですよ」と言った。
翌々日の昼休み、美香は12時になるとすぐに席を立って、三沢に会いに行った。
「清原さん。ようこそ、いらっしゃいました。何かご用ですか?」
「すみません。お昼休み中に。急ぎのお知らせがありますので……」
「まあ、とりあえずお座りください。何かお飲みになりますか?」
「いえ、けっこうです」美香はソファに着席した。
三沢はデスクの上のファイルを几帳面に揃えてから、美香の向かいに座った。まるで、ずっと昔からこの役所の重役だったかのような雰囲気をすでに発している。
「で、お話というのは、なんでしょう」
「あの……」最初口ごもってしまったが、勇気を出して言葉を続ける。「実は先日、高松さんに会ってきんだんです。そして、詳しく話をしてきたんですけど、高松さんが言うには、ぜ……」
そこまで言ったところで、三沢は美香を遮って口を挟んだ。
「高松に、会った? 勝手なことするなよ。あんた、民事訴訟の原告だろう。ケンカしてる相手に会いにいくやつがあるか」
敬語の口調が一変して雑なものになったので、美香はあわててしまった。
「すみません。でも、会って直接言いたいことがありましたので……」
「そんなこと、知ったこっちゃない。言いたいことがあるなら、法廷で言えばいいだろう」
「すみません」美香はもう一度言った。
チッ、と三沢は舌打ちをした。
「ちゃんとこっちで勝つ算段はしてあるんだから、あんたみたいな素人が口を出すんじゃない。勝てるものも勝てなくなるだろ。今度勝手なことをしたら、承知しないからな」
「でも、高松さんもとっても苦しんでるんです」美香は食い下がった。「ご存じないかもしれませんが、あれ以来高松さんのご実家のほうにも抗議が来るようになって……、高松さんのご両親は、お亡くなりになったそうなんです」
三沢は眉ひとつ動かさず、
「それがどうした。差別主義者の親にも少なくない責任があるだろう、むしろ製造責任を問われてもいいくらいだ」と言った。
「そんな言い方、ひどいと思います!」美香は叫んだ。
「勘違いするなよ。俺が殺したわけじゃない。勝手に死んだんだろう。あんなやつの親なんて、どうせろくなもんじゃないはずだ。世界が少しきれいになって、むしろよかったんじゃないか」
これが、人権派学者の言うことなのだろうか。美香は耳を疑った。
「とにかく、高松さんを相手にした訴訟は取り下げます。私には、こんなことはできません」
「お前の意思なんて、どうでもいいんだよ!」
三沢はソファの前の足の短いテーブルを拳で思いっきり叩いた。
そして、美香をにらみ付けると、脅迫するようにこう言った。
「お前、自分を何様だと思ってるんだ。お前みたいな低学歴のバツイチババアに人権なんてないんだから、黙ってろ。田舎者のゴミが」
(終)
○○差別 台上ありん @daijoarin
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