第7話 戸惑い
「その娘を渡せ」
いい声だった。男の声だ。バーチャル世界でいい声のアバターはほとんどがボイスチェンジャーを使っているらしい。顔は包帯が巻かれていてイケメンかまでは分からない。ただ、包帯の中から隻眼の瞳が2つ光っていた。
「その娘を今すぐ渡せば、今後も君たちのこのワールド内での活動を認める。危険組織としての指定は相応の監督期間を経て解除される見込みだ」
「理由もなくそんなこと言われても、素直にイエスとは答えられないね」
トロンが言った。相手の言葉に熱がこもる。
「これは警告であり、命令でもある。イエス以外の返答は用意されていない」
「あなたが現場責任者なんだね?」
「俺達に上下関係は必要ない。ただ正義を執行するだけだ」
「早くやろうぜマルサ。とりあえずこいつ消せばてっとり早いじゃん」
別の男が会話を遮る。どでかい火炎放射器をこちらに向けているその男の身長は3mをゆうに超えている。天井が邪魔で腰を大きく折り曲げて何とか部屋の中に収まっている。その男の影がトロンとツナグの真上に落ちる。影に覆われた途端に、ヘビメタが爆音で流れ出した。
「ハイにしてやる!」
「ニコルソン落ち着け。燃やすのはもう少しあとでも遅くない」
マルサと呼ばれた包帯の男が、巨体の男をなだめた。ツナグはあまりの騒々しさに耳を塞ぎ、トロンの背中に隠れた。
「ツナグちゃんが怖がってる。この男をもっと遠ざけてよ、これじゃまともに会話ができない」
「はあぁぁぁ? なんで? ここはお前の敷地か?」
「うるさいな。僕達のアジトだ」
「はあぁぁぁ? 今制圧されたんだよ? 下がる理由ないよ? ハイになりてぇのか?」
喋り方が常にスクリーム状態だ。
「ニコルソン少し下がれ。お前のアバターはまるで窓から爆音が漏れ出ている迷惑なスポーツカーだ。しかもそういう奴に限って音楽は悪趣味だ」
「おいおいおい、何言ってんだ、マルサお前は俺の上官か?」
マルサの言葉にニコルソンが声を荒らげる。
「任務のためだ。前の失態を忘れたのか」
「おいおいおい、あれは失態じゃねぇ。俺の言い分が評価されなかっただけだ!」
「単独行動は最大限に許容されるべきだ。しかし味方の妨害はギルティだ」
「納得が行かねぇ! やるのか? ハイにすんぞてめぇ?」
2人は睨み合った状態で、黙り込んだ。そこにチームワークなど存在していない。相変わらず爆音に邪魔されて他の音声が聞き取りづらい。
「分かった。こうしよう」
マルサが言った。
「下がれば、報告時にお前がキルした人数を5人まで上乗せして構わない。上乗せ分はここにいる皆で負担しよう。1人1キル負担だ。負担しても構わない者は手を上げろ」
マルサが率先して自ら手を上げる。それに続くように、トロンとツナグを取り囲んでいる他のアバターたちの中から4人、手を上げるアバターが現れた。挙手したアバターの1人が言った。
「構わないよ。そいつが馬鹿なのはもう承知の上だ。早く終わらせよう」
巨体の男も納得したのかニヤリと笑うと、数歩、トロンたちから距離を置いた。影が離れていくと共に、爆音が聞こえなくなる。
「話を戻そう。その娘を渡せ」
「僕を撃って、無理やり奪えばいいじゃない」
「そんなことをしても、その娘の全てが戻ってくる訳ではない、ということは調査済みだ。そこにいるのは、人格データと僅かな記憶でしかない」
「依頼主を教えてよ」
トロンが質問で返した。
「そんな権限はお前にはない。立場をわきまえろ。少なくとも俺達はその娘の人格の奪取に成功する一歩手前だ。そしてお前が、今までその娘をあの撮影所に匿っていた人格・記憶データを盗んだ犯人である事まで既に調査済みだ。なんならこのまま貴様のIPを突き止めてリアル世界の豚箱に放り込んでやっても構わないんだぞ」
「そこまで分かってたんだ。凄いな」
トロンが感心したと言わんばかりの声で言った。トロンの背後に隠れていたツナグは戸惑いながら、トロンに尋ねた。
「どういうこと? あなたが、データを盗んだ犯人だって」
「どのみち、全て話さなきゃならないとは思ってたんだ。ツナグちゃん僕は君のことをよく知ってる。そして君も僕のことを知ってるはずだよ」
「知らないのは本人だけというわけか」
マルサが拳銃の撃鉄に手をかけて、照準をトロンに合わせる。
「交渉の余地がないなら、お前を撃ち抜いてまずはそこの人格データを奪取する。もし記憶データを素直に渡せば、お前の罪はこれ以上、責めない。そう依頼主からの寛大な処遇だ」
「依頼主は、ツナグちゃんの父親だね」
「教えたところでどうなる? お前の不利が覆るわけでもない」
「どういうこと? ねえトロン、私の記憶って」
ツナグは急にトロンが怖くなって距離を取ろうとした。しかしトロンから素早く伸ばされた手に腕を取られ、強引に引き留められてしまう。
「ツナグちゃん、聞いて。君の記憶は他の場所に保管してあるんだ。人間の頭の中はね、大きく2つのデータに分けて保管される。それが、人格データと記憶データさ。人格データは今現在の情報といえばいいのかな、君の人柄や趣味嗜好、感情を形作る元となるデータが含まれてる。記憶データは膨大な過去の記憶だ。記憶データは人格データに多大な影響を及ぼしているから、2つのデータは本来、ひとつの場所に保管されるべきものだ。だけどそれには2つの問題があった。ひとつは容量の問題だ。ヒトの記憶データ容量は最大で1024テラバイト、すなわち1ペタバイトにまで膨らむ。そんな大きなものを持ってこのネット世界を動き回るのは容易ではない。少なくとも今の技術ではね。そしてもうひとつは、安全性の問題だ。記憶を一箇所に保管しておいた時、もしその記憶が滞在しているサーバが壊れてデータが消失でもしようものなら、それは記憶の死に繋がる。誰が管理しているかよく分からないサーバならなおさらさ。だから分散して保管することにしたんだ。ツナグちゃん、君の記憶はこの広いネット空間内にとても小さな単位で分散管理されているんだ。代償として、君は記憶を失っている状態にある」
「そんな、信じられない」
「全て本当の話だ」
ツナグは言葉を失ってしまう。自らの記憶がネットの海を漂っているなど信じ難いことであった。しかしトロンの言葉には妙な説得力があった。どこか落ち着いていて、まるで危機感を覚えていないかのような語り口だった。
「その分散した記憶データをひとつに戻すには?」
マルサが尋ねる。トロンがマルサに向き直り答えた。
「パスコードがあれば可能だよ。それは僕だけが知ってる。でもそれを教えるつもりもないし、ツナグちゃんの人格データをここで渡すつもりもない」
「何を企んでる? この状況を覆せるとでも思っているのか?」
「覆すつもりなんかないし、その必要もないんだ。最初からツナグちゃんはここにはいない。動画を配信している時もずっとツナグちゃんはそこに存在なんてしていなかった。君たちがマークして追っていた対象は最初から中身のないアバターだ。ツナグちゃんはずっと別の仮想空間上からアイハラツナグのアバターを使って二重にアクセスしていたに過ぎないってことさ」
「なるほど。よく理解した」
マルサが包帯の中で少しだけ顔を歪ませたのが分かった。
「そこまでする必要がどこにある? お前の目的はなんだ?」
「君たちも今に知ることになるよ。僕とツナグちゃんが立ち向かっている壁はもっと大きなものだ」
トロンはポケットから緋色に輝く石を取り出した。
「ツナグちゃん、これを飲み込むんだ。そうしたら、全てを思い出す」
「いや」
ツナグが頭を振って拒否した。
「私は、どうなるの? トロンは私をどうしたいの?」
「僕は君を救いたい。それは君が一番よく知ってることだ。今の君はまだ目覚めてすらいない。本当はそれで良かったのかも知れないと思ってた。君には苦しかったことや辛かったことなんて全て忘れたままで、アイハラツナグのままで笑っていて欲しかった。でもその望みは叶わなかった。僕の力が足りなかったからだ。ごめんよ」
「そんなこと言われても、全然分からないよ。なにも思い出せない。自分のことも、あなたのことも」
「僕を信じて。君の現実世界での名前はね、マナミって言うんだ。愛が美しいで愛美だ。僕と愛美ちゃんは、同じ悩みを持った者同士、この広いネット空間で知り合った。そしてアイハラツナグというもう1人の存在を生み出した。全部本当の話だよ。もう君を失いたくない。だからお願いだ。この石を飲み込むんだ 」
戸惑っているツナグは、なかなか石を受け取ろうとしない。地面が揺れたかと思うと再び騒がしい音楽とともに、不快な男の声が耳に届いた。
「おいおいおい、黙って見てりゃミッションは失敗したってことか? バカみてーじゃねーか俺たちよ! ならせめてこいつらまとめて、ハイにしても構わねーだろ! 」
火炎放射器が2人の隣で唸り出す。爆音を響かせながら、ニコルソンが高笑いする。
「バーベキューだ! 俺の目の前から消えてハイになれゴミ共!!」
トロンはとっさに緋色の石を自らの口に放り込むと、ツナグの唇にそれを重ねた。驚いたツナグの喉がゴクリと音を立てて一度大きく動いた。2人のアバターは炎に包まれ、消失してしまった。
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