#3 ユー・アー・ノット・オブザーバー

「おかあさあああああん!!! おかあさあああああん!!!」

 耳を打つ呼び声。聞こえないはずだ、私の『目』は音声を捉えない。

男の子のはずが、女の子の悲鳴にも聞こえる。これは――誰の声?

わたしの――10年前の――


 機械的に動いていた足がもつれ、危うく立ち止まりかける。腰から下を大蛇に変えた女を避けて、『目』についたすぐ近くのコンビニエンス・ストアに滑り込む。中はもぬけの殻だ。


 口を大泣きの形にしたまま、栗色の髪の子供が全身を光らせる。彼はフェアリル――間もなく彼は子供を抱えた大柄の鈍色の男に跳ね飛ばされ、地面に転がる。


 その傍を野球帽を被ったしわくちゃの老人がゆっくりと通り過ぎ、口をもぐもぐと動かす。

 薄汚れた作業服姿の男は脇の下から手を一本増やした状態で人々をかき分けていく――角を生やし、毛皮でその身を覆った者達を。


 その下に、コロナビールの瓶が転がって粉々に砕けた――……。


 クラクションとサイレンの重奏。後方に化け物。逃亡は続く。まるで、滅びた街を追いやられた流浪の民のごとく――異形の者達は、ロサンゼルスの街をひた走る。

 誰もあの子供を助けない。立ち止まり、手を差し伸べたりはしない。今も探しているだろう母親に事情を聴き、協力したりはしない。

 そしてそれは、まったく正しい。この街で生きていくには、同情心など贅沢品で、うかつに手を出せば自分の命が危ない。

 不利益を被らず、厄介な事情に巻き込まれず、暴漢に犯されず、ロス市警の世話にならないためには、通り過ぎること。目を逸らし、耳を塞ぎ、見なかったことにして、足早にその場を去り、無関心に――見ているだけ、に。

 それが賢いということだ。自分を大切にするということだ。それを、誰も責めはしない。


 なのに――なのにどうして、嗚咽が止まらないのだろう。

 とうとう気が狂ってしまったのか。今も頭に流れ込んでくる阿鼻叫喚の渦に。

 喉を抑えた。煙を吸い込んで酸素を求めて喘いだ、あのときのように。

 そして店の防犯カメラは、いつの間にか膝をついて泣きじゃくる私を映していた。

 耳に響き続ける声――「おかあさん、おかあさん」

 記憶の中で、悪夢の中で私はそう叫んでいた、または叫ぼうとした。

 遠くからでも肌を焦がす、肺を満たす焦げ臭い空気、家を取り囲む炎、崩れ落ちる屋根……

 私はあの男の子とそう変わらない年齢で、そのときはまだ機械の「目」はなかった。

 私の目の前で、家が燃えていた。小さくて物が散らかっていたけれど、いつも遊びから帰ってくると鼻をくすぐる美味しそうな夕食の匂いがして、生まれたばかりの弟を父親が笑いながら抱き上げて、母親はそれを見て微笑みながら鍋をかき混ぜていて……

 そんな家が、炎をあげていた。

 私は母を呼んだ。父を呼んだ。弟の名前をーー呼んだ。人々の足の間をくぐり抜けて、駆け寄ろうとして、立ちすくんだ。すぐそこに家族がいるのに、会えない。手が届かない。声が聞こえない。大好きなその姿が見えない……

 必死に声を張り上げ、赤く輝く家に飛びこもうとして、誰かが私を押さえ込んだ。声が涸れた……炎の中で、家が完全に崩れ落ちる……

 その日、ロサンゼルスでは大規模なデモ活動と交通機関のストライキがあったらしい。消防車も、警察も、間に合うことはなかった。サイレンの音は優先的に、今はハイヤーグラウンドと呼ばれている地区に飛んでいった。私たちは……チープ・ブランチ以下の層は……見捨てられた。

 やがて煙をあげる残骸となった家の中から、原型を失った家族が運び出された。

 弟は、生後数ヶ月しか経っていない彼の亡骸はほとんど融けてしまって残っていなかった。

 孤児院に預けられた私は、無気力に、無関心に日々を送り、やがてあのXデーを迎えた。空から落ちてきた剣が私を貫いて――痛みと衝撃はほとんど分からなかったーーそして、ロサンゼルス一帯で同じことが起きているのが『視えた』。ビル街の谷間を歩いていた人々が貫かれ、次々と姿を変えていく。うずくまったスーツの背中がサナギのように割れて、翅が飛び出す。外壁からぶら下がった清掃員が膨れ上がり、ロープが切れて落下する。カップルの握り合っていた手が、男のものは金属シャフトと針金の構造物に変わり、女のものはねじ曲がり、ウロコで覆われ……二つの手は弾かれるように離れた。道ばたのゴミ箱を覗き込んでいた老婆の曲がった背中が剣が触れた途端に真っ直ぐ伸び、その白髪が鮮やかに色づき、皺が消え失せ、瑞々しい肌が艶やかな美貌を作り上げていく。

 奇想天外な変形、変身現象の数々は次から次に私の頭に流れ込み、こみ上げる胸のむかつきを抑えきれず、床に転がって嘔吐した。悪夢を見ているのだと思った。この目に映る奇妙な地獄は私の脳が勝手に作り上げただけのもので朝になれば、この瞼を持ち上げれば……彼らはみえなくなる、きえるはずだ。

 私は頭を振り、ぎゅっと目をつむって、目を開いた。百鬼夜行は消えなかった。目の中で、彼らは自分の体に起きた変化に混乱していた。玉突き事故が起こり、バイクは歩道に乗り上げ、ムカデの脚を生やした女を跳ねる。絡み合っていた男女が互いを見て腕を振り回し、どうやら罵り合っている。突然天使のようなマスクとモデル並の痩身を手に入れた、さっきまでタイヤを重ねたような腹だった男はまじまじとショー・ウィンドウに写る自分を眺めて、ぎごちなく笑みを浮かべた。

 私は悲鳴をあげ、髪を掴んで掻き毟り、指を目玉に持って行った。眼球を引き抜けば、夢から醒めてくれるとでも思ったのだろうか?

 果たして、指先に触れたのは硬くて冷たい、ガラスのレンズだった。

 私もまた、眼球と視神経、脳の視覚野が機械化された異形に――機械人テロドになっていた。

そして、あの日以来、私はこの世界がクソッタレで滅びるものなら即刻滅びるべきだという見解に至るに足る場面を嫌というほどこの『目」で見てきた。スクール・カーストに乗っ取ったリンチ、日々起きるスナック感覚の犯罪、路地裏のファック、汚しつ尽くされた死体、賄賂で目をつぶる腐敗警官、粉飾決済のデータ、ドラッグに魂を売った腑抜け、重機やら肉食獣やらのパーツを振り回す暴漢、美しい顔で骨抜きにし、誑かす悪魔。

 

 だから、私は友人を、同僚を、上司を、会社を、アンダーグラウンドをハイヤーグラウンドをロサンゼルスを合衆国をこの地球を、……とっくに見限っている。期待はしない。善意は信じない。誰も助けてくれない、誰も助けられない。あの日のように。適度に上辺だけは巧みに振る舞って、関係のないことだと、退屈した観客の一人であるかのように。そうやって暮らしてきたし、これからもそうなるはずだった。

 なのに、今、私はここに座り込んで、あの少年を見ながら、あの少年と同じように泣いている。

 何も出来ることはないのに。今、人の流れに逆らっても踏みつぶされるだけだ。

 そう思って、今度こそ頭から全ての映像を締め出そうとして――突然、私のいる店内のカメラに、覆面の男達が押し入ってくるのが映った。

「おい早くしろよ、あの馬鹿でかいヤローにぺしゃんこにされたくなかったらな」

「せっかちだなオメエは! 金目のもん取り損ねたら意味ねえだろーが!」

 彼らは、おそらく火事場泥棒だ。目出し帽の二人組で、一人は拳銃と黒いポリ袋、もう一人は鉄パイプ。一人は見張りとしてドア前に、もう一人はレジをこじ開け、現金を手荒に抜き取っていく。

「おいおいこれっぽちかよぉ……あん? おい、いいモン見つけたぜ。女だ」

 気付かれた――混乱していたために身を隠せていなかった。

「女ァ? お前こないだあんだけ喰らっといてまだ足りないのか。それより金だ」

 見張り役が呆れるのを他所に、実行犯役はニタニタと笑みを浮かべ、蹲る私ににじり寄ってくる。目出し帽から覗く巨大な目玉が、ぎょろぎょろと左右別に動く。

「っせーな、食べてくれって転がってるもんに手ぇ出してなにが悪いんだぁ」

 逃げなくては、と思うのに体が動かない。頭の奥でこだまする悲鳴が、胸の奥の痛みが、他に何も感じられなくしてしまった。

 顔を伏せたままでも、男が興奮しているのが見える。さんざん呪ってきたこの『目』を、いっそう強く憎んだ。

 男はカメレオンの舌を長く伸ばし、私の首筋を舐める。ぞわりとした嫌悪感、生暖かい唾液の感触はどこか遠いところの出来事のように虚しく響いた。

 ああ、そうか。私は自分が尊厳を汚され、命もたやすく奪われそうなのに、こんなときでも「見ているだけ」なのか……

 反吐が出る。

「こっち向きな……その目ん玉をしゃぶりつくして、それから……」

 ウロコで覆われた手が私の髪を掴み、強引に顔を上に向かせる。左右別々に動く目が両方私の目を見た――二つの虚ろなレンズ、眼球のあった場所に居座った機械を。

「なんだあ? この女テロドかよ、萎えるぜ」

 髪から手を放し、男は私を蹴倒した。じっくりと、獲物の虫を見分するように視線で体を撫でる。

「だがまあ、肝心なとこが鉄じゃなきゃあ構わねえ。おい、生身なのはどこだぁ?」

 私は押し黙ったままだった。見ているだけ。こんな時でも。

 今までずっとそうしてきた。

 だって私には何も出来ない。何をしても何かが変わることなんてない。

 火事で家族を、弟を、父を喪うのをただ見ていた私には。

 自分が傷つくのが怖くて、その場から立ち去ってきた私には。

 友達がいじめられ、身を投げるのを、

 叔父がドラッグに溺れるのを、

 暗がりに連れ込まれる女性を、

 孤児院の子供が売り飛ばされるのを、

 ボスに脅され、体を差し出す新人を、

 打ち捨てられる赤ん坊を、

 美人局に家族の保険金だった金を差し出す男を、

 ただ、見ているしかなかった、見ることしかしなかった私には――

「だんまりかよ、もっと喚けや……」

 目の前に、よだれを垂らす男の顔があった。手足を組み伏せられ、臭い舌を伸ばしてくる。

「おい、金は盗ったぞ。やるならさっさとやれ」

「わーったよ!」

「ったく、せっかちなヤツだ。おこぼれはいらねえのかねえ」

 長い舌を服の隙間から滑り込ませ、男は上半身をまさぐりだした。

 その股間が怒張していくのを、私は自分の目で見る。

 これは罰なのか?

 今まで傍観者を気取っていた私への。

 この蟻地獄のようなロサンゼルスで、悪意と不幸を避けて、

 生き続けるために逃れ続けた。

 無関係を、無関心を、無感動を

 演じ続け、自分をも騙さなければ、私は生きられなかった。

 それは、この場で、この時に、こんな形で、報いを受けなければならない程の罪なのか?

 それが罪で罰だと言うなら、誰が審判し、裁くのか。

 ディプス? いや、あの魔王はそんな面倒なことはしないだろう。

 本物の神? だとしたら、地獄に落ちる前にぶつけてやりたい文句が星の数ほどある。

「おら、口開けろ!」

 こじ開けられた唇に、舌が差し込まれる――どうやらこれが性感を高める仕草らしい――口腔内で別の生き物のように動き回る舌。

 その生理的拒絶感と、私の奥底の想いに応えるように、まるでスイッチが切り替わるように、『目』が次々に映像を映し替えた。

一人ぼっちで横たわる男の子。彼のアップ画面、少し引いて映している画面。その場所の特徴をまた離れたところから捉えた画面……

 『目』がビーズ細工のように繋がり、一本の道筋を描き出す。

「いい顔になったな。じゃあ、次はこっちだ」

 餌付いている私に向かって、カメレオンのモロウはジーンズのチャックから引きずり出したものを、ずいと近づけた。膨らんで黒ずみ、臭気を放って濡れそぼった器官。

「たっぷり楽しませてもらうぜえ」

 半開きだった口に突きこまれた瞬間――頭の中で火花が弾けた。やるべきことが分かった、はっきりと。

 男の顔に訝しむ色が浮かぶより前に、私は一度口を大きく開くと、

 あらんかぎりの力を込めて、顎を咬み合わせた。

 硬いゴムのような歯ごたえがまずあり、次に歯と歯がぶつかる痛みが走った。最後に、どっと溢れる血とその他の液体が口腔を満たし、溢れた。

「――――~~!?」

 声にならない叫びをあげてのけ反る男をよそに立ち上がり、

「なんだ? どうした」

 銃口を向けて振り返った相棒の男と睨み合い、

 口の中のものを、噛みつくしたガムのように吐き捨てる。

慌てたように発砲してくる一発目が私の肩を抉り、二発目は股間から流血する男を穿った。とっさに、モロウが床に置いていた拳銃を奪って引き金を引く。

 明後日の方向に飛んだ弾丸は店内で跳ね、相手の足に当たった。

 くず折れる男のそばを通りざま、その手の銃を蹴っ飛ばし、私はストリートに飛び出した。

 アウトレイスの波は収まりつつあった。その流れに逆らって走り出す。“どこに行くんだ? あの女頭がおかしいんじゃないか?” そんな視線がまばらに向けられる。 

 地響きを立てる地面を、出せる限りの速さで駆ける。放置されたクルマ、ひっくり返されたゴミ箱、散乱するガラスを避け、脳内に映し出された最短経路を走る。

「ああ、こっちもひどいもんだ。まったく、給料を倍にされたってごめんだ……おい! ここは通行止めだ! 待ちなさい!」

 警官の声を置き去りに、キープアウトのテープを潜り抜ける。

熱を帯びた風が、撃たれた肩をズキズキと疼かせ、視界が明滅する。

瓦礫に足を取られ、アスファルトに膝を打ち付けた。擦り傷が加わる――もしかしたら膝の皿を割ったかもしれないが、手をついて立ち上がる。

脚を引きずっていると、一様にポカンとした表情を浮かべた人々の群れが歩いてきて、行く手を阻んだ。その間を縫うように這い出て、……『目』の映像が途切れた。

「しっかりしなさい、このポンコツ」

 頭を横からしこたま叩く。『目』に見えるのはノイズばかりだ。

 そのとき、手に持ったままだった拳銃に気づいた。

 私は息を吸うと、まだ熱を持つ銃身を掴んで振りかぶり、

 思いっきり握りの部分をこめかみにぶつけた。

 衝撃と共に、『目』が再度一斉に開き、少年への道を照らす。

 彼は泣き疲れ、壁に寄りかかって足を投げ出していた――その壁に亀裂が増えていくのが見えた。

 安普請だったのだろうか、背後の建物は揺れが伝わるたび傾いでいく。

 流れていく血も、体に痛みも、過去ですらも振り切った。

 時間も距離も、どう考えても間に合わなかった。助けた後助かるには。

 頭の中には何もなかった。目に小さな子供だけが見えていた。

 自分の心臓の音も聞こえず、最後の数ブロックを通り抜け、

 ひと際アンダーグラウンドを揺らした衝撃に、耐えきれなくなった柱が折れ、均衡が破れた。

 男の子が振り返り、恐怖が彼を釘付けにした。

 最後の数メートルに飛び込み、私は小さな体を両手で抱きしめた。肩の痛みが戻ってきた――

 咄嗟に自分の背中を上にして、胸の中のぬくもりを庇った。

『目』が安心したように、ノイズに塗れて消えて、最後に瓦礫の山が落ちてくるのが分かった。

私の体の下で、小さな体が眩しく輝き、そして何も見えなくなった。



#4 に続く

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