夢の中で/3

 翌日の美星と私のデートは、保護者同伴という高校生でも中々ない展開となった(しかも近場でだ)。


 天音氏が所有していた車は車椅子も乗れる特殊仕様車で、美星も問題なかったのだが……。


「もっと離れてくれますか、久城さん」

「これ以上離れようがないですよ、宮前看護師長」


 運転席には天音氏、助手席には天音夫人。そしてその後ろの三人席には私と宮前看護師長が真ん中を開けて座り、その後ろには美星の車椅子が乗っていた。


「……そもそも、美星ちゃんを外出させるのに何故貴方が付いてくるのですか」

「私が誘ったのに私がいないのでは、筋が通らないでしょう」

「どうせ来週から来ないのですから、筋を通す必要もないでしょう」

「宮前看護師長は嫌味以外言えないのですか?」

「不思議と、貴方に対しては嫌味しか出てきませんね」

「さいですか。それは不便ですね、お可哀想に」

「ふん」


 いつもの愉快でも何でもない、私と宮前看護師長のやり取り。それにくすくすと笑みを溢すのは、天音家全員だ。


 確かに他人から見たら冗談の延長線上かもしれないが、彼女の言葉の刺々しさから、冗談ではないということをいい加減に気付いてほしい。


「まぁまぁ、いつもの言い合いも程々に。もうすぐ着きますよ」


 天音宅から車を走らせ十数分。車のフロントガラスからは青い海が見えていた。


 今日はこの外出を見計らったかのように晴天で、五月らしくからっとしていた。外出には最適な気候であった。


 私はふうと息を吐いて、ようやくこの空間から解放されると思うと、気がいくらか楽になったのだが。


「言っておきますが、二人きりになれるなんて思わないでくださいね」

「……別に貴女がいることに文句はありませんよ。ただ、今は仕事ではないので、もっと気楽に接してほしいだけです」

「……ふん」


 宮前看護師長は鼻を鳴らして、窓の外に顔を向けた。


 この人は本当に何なのだろうか。突っかかるだけ突っかかり、無視を決め込むつもりだろうか。


「駐車場に入れた後、私と妻は近くをふらふらしますので。若いお三方はお好きに……ね?」


 その空気を読まずに、天音氏はそんなことを言ってのけた。そしてそれに夫人はくすりと笑うだけで、特に私をフォローしない。


「お言葉に甘えさせていただきます」


 私は嘆息しながら肩を竦める、車が停車してすぐに降り、バックドアを開けた。美星は首を後ろに回して私を見ると、にっこりと笑みを向けてくれる。


 天音氏が運転席側から何かしらの操作をすることで、スロープがゆっくりと伸びる。やがてそのスロープの先が地面に着くと、私は車に乗り込み美星の車椅子のタイヤのロックを外し、手押しハンドルを握ったまま後ろ向きでそのスロープを下った。


「保護者の多いデートというのも新鮮だね」


 その時にこっそりと美星に耳打ちする。


 美星は「そうですね」と小声で私に返した。

さて行くかと、私は彼女の車椅子を押そうとしたのだが。


「美星ちゃんの車椅子は私が押します。貴方は信用できませんから」

「……はいはい」


 さすがに三年以上美星を世話してきた看護師の意見に、何か物言いをするほど私も愚かではない。


「では私達はここで」


 天音夫妻はドアのロックをしたかと思うと、そそくさとどこかに行ってしまった。残された私と美星と、そして宮前看護師長は少しの間車の近くにいたのだが。


「それで久城さん。美星ちゃんをどこにお連れすれば? こういう場合は男性がエスコートしてくれないと困るのですけど?」


 そんな宮前看護師長の嫌味に私は今日何度目かもわからないため息をついて。


「まずは海に行きましょうか。今日の最大の目的はそこですから」

「ふん。妥当ですね」


 この人はどのような立場の目線でそのようなことを言ってるのだろうか。


「美星もそれでいいね?」

「はい」


 宮前看護師長とは違う素直な返事に、私は少しだけ胸を撫で下ろす。


「行こうか」


 先を私が歩き、その後を美星と車椅子を押す宮前看護師長が付いてくる。病院と同じ移動に私は、彼女らに悟られずに笑みを浮かべた。


 海に向かう途中で、さぁっと、海から心地よい風が吹いてきた。それは鼻孔に僅かに纏わりつく潮風で、どこか気持ちよい。


「美星は海に来たことはあるのかい?」


 前を歩きながら彼女の顔を見ずに問いかける。


「確か……えーっと……小さい頃に家族で行ったことがありました。どこだったかは忘れましたけど」


 背後から、彼女の答えが返ってくる。


「そうかい。ここの海はね、潮騒を聞くには最適だよ。火気禁止だから、バーベキューをする人達も、花火をする人達もいないし静かなんだ」

「しお、ざい?」

「海に着いたら教えてあげるよ、すぐだし。その方が説明しやすいしね」

「はい」


 そんな会話をしていてすぐに、私達は砂浜の入り口に着いた。


 今まではアスファルトで舗装された道を進んできたが、ここからは砂浜に降りることになるので、車椅子で移動するのは難しい。というより、無理だ。


「私がおぶります」

「……」


 振り向いて、宮前看護師長に言ったものの。


「おぶられるのは恥ずかしいので……その……」


 美星は車椅子の上では両指を弄びながらそんなことを言った。


「……それでは私と久城さん、二人で支えながら行きましょう」


 宮前看護師長は美星の左側に立つ。


「えぇ、わかりました」


 そして私は美星の右側に立った。


 私と宮前看護師長が美星の顔を見て一度頷き合うと、三人で腕を組む形で彼女を立ち上がらせ、ゆっくりと砂浜への道を歩き出した。


 その歩みは非常にゆっくりで、何故か三人とも笑ってしまった。


 楽しいとか、面白いとか、そういったもの感情ではないのだが、何故か笑みが零れてしまったのだ。


 やがて私達三人は砂浜に足を付けると、少しだけ海に向かって歩き、適当な所で腰を落ち着ける場所を見つける。


「車椅子を持ってきます」

「いえ、その前に」


 宮前看護師長は美星を私に預け、自分のリュックサックからレジャーシートを出して砂浜に敷く。その後、私から美星の体を受け取ると共に、慣れた手つきで彼女をそこに座らせる。


「どうぞ、車椅子を」

「えぇ」


 私は早足でアスファルトの道に戻って車椅子を取りに戻ると、また早足で美星と宮前看護師長が座っている砂浜に戻る。


「お疲れ様です」


 宮前看護師長は私の顔を見ずにそう言った。


「どーも」


 私も私で彼女の顔を見ずに返し、美星を中心にして三人で座った。


 五月ということもあり人はまばらで、私達のように海を眺めに来ている人がほとんどだった。


 潮風が私達を優しく撫で、思わず深い吐息が漏れる。


「久城さん」

「ん?」


 美星は三角座りをしながら、私の名を呼ぶ。


「今は……晴れてますか?」


 あぁ……彼女の目は今、この心地よい景色を正確に映し出してはくれていないのだと、この質問でわかった。


 美星にばれないように宮前看護師長を見ると、彼女は美星に憐憫の眼差しを向けていた。


「君はどう思う?」


 あえて、私は彼女に問い返す。


「んー……晴れていると思います。空気がぱりっとしているというか、気持ち良いので」

「正解だ。今は晴れているよ」

「むぅ……なんでこういうときだけ灰色なのかしら」


 彼女は唇を尖らせつつそう言うが、それは冗談というには少々黒すぎるもので、私は笑えなかった。それは左隣にいる宮前看護師長も同じだろう。


「そうだね。前の時もそうだけど、君の目はが嫌いみたいだ」

「前……ですか?」

「ほら、今週の月曜日。アニメの話をした日さ」

「それは……」


 宮前看護師長の視線を感じたが、私はそれを無視して美星と会話を続けた。


「あの時は綺麗な青空で、珍しく雨がぱらついた。狐の嫁入り、それもかなりの貴族様のと重なった」

「……はい、そうですね」


 美星を両の掌を空に向けて、空を仰ぐ。


「今日は……嫁入りはないのですかね?」

「今日はないね。狐の暦だと今日は仏滅だ。そんな日に嫁入りはさせないよ」

「もう、久城さんたら……」


 私は両手を後ろにやって、美星と同じように空を仰ぐ。


 雲はまばらだが、それは雨雲にならない確信めいたものだ。空はこのからりとした空気に似合った蒼穹で、美星の目に色が戻っていたなら、きっと感動していたに違いない。


「あ、そういえばって何なんですか?」

「……うん。君が読んでいた小説で、そういった文字はなかったっけ?」

「……あったとしても覚えていません」

「ふーん。じゃあ目を瞑ってごらん?」

「はい」


 彼女が瞼を閉じたのを確認すると、私も同じように瞼を閉じた。


 潮騒……というには、少し弱々しい波の音が聞こえる。


「ざーん、ざざーん」


 拙くはあるが、その潮騒を口にすると。


「それは海の音ですよね?」

「まぁそういうものを纏めて、潮騒と……」

「正確には違います」


 ……雰囲気ぶち壊しだ。


「正確には潮がさす……月の引力によって潮が満ちるときの音です」

「宮前看護師長、今はそういうのは言いっこなしで……」

「間違いを美星ちゃんに教えないでくださる? 自称魔法使いさん?」


 ふふん、と誇らしげに彼女は鼻を鳴らす。本当にこの人の鼻に鼻栓でも付けてやろうかと思ったが、口撃こうげきを受けた上でパワハラで訴えられそうなのでやめることにする。


「ま、大人でもわからないことはあるってことさ、美星」

「ふふ、そうみたいですね」


 美星は口元を押さえながら笑ってみせた。それに私も、あの宮前看護師長も優しい微笑みを返し、また眼前の海に目線を向けた。


「私、ここで死ぬなら、本望かなぁ……」


 何事もないかのように口走ったその言葉に、誰よりも動揺を見せたのは宮前看護師長だった。


 彼女はすぐに美星の両肩を掴み、怒りにも似た悲しみの表情を浮かべながら。


「馬鹿なこと言わないで!」


 と、大声を上げた。


 正直、彼女の態度に対しては私も大方肯定的だ。しかし、ここで宮前看護師長と同じように彼女を責める形になっては、折角の休日……デートが台無しになってしまう。


「まぁ冗談で言ったんでしょう。中々なブラックジョークじゃないですか」

「貴方も軽口を叩かないで!」


 軽口でも叩かなければこの雰囲気を変えられないと思ったが、彼女はそれを許さなかった。


「ごめんなさい、宮前さん……その、本気で言ったつもりじゃなくて、えっと……今、とっても楽しいから……」


 しょんぼりと返す美星に、宮前看護師長は辛そうに顔を歪めた。


「飲み物、買ってきます。わかってると思いますが、美星ちゃんに変なことしたら殺しますよ、久城さん」


 すくりと立ち上がった宮前看護師長は暴言を吐いて、私が皮肉を返す間もなく行ってしまった。


 二人きりにはしないと言った彼女だったが、さすがに耐えきれなかったのだろう。


「美星」

「わかってます……ごめんなさい、空気を悪くして」

「いや、悪くしたのは彼女だ。それはまぁ置いておくとして……どうしたんだい、また急に」


 美星の頭を撫でて、そう声をかける。美星は真っ直ぐに前を見て、深く息を吐いた。


「海なんて本当に久しぶりで……それで何となく思っちゃったんです。死ぬならこんな気持ちの良い日の海がいいなって」

「そうかい……」


 少しの間私達は黙って海を眺めた。


 決して、嫌な沈黙ではなかった。


 静かな波の音、優しく吹く潮風、遠くで聞こえる誰かの笑い声。


 そんな日常的な風景に、私達は耳を傾けられたから。


「私、旅をしてみたい」


 その言葉は私に掛けられたものではなかった。


「色んな空を見てみたいな。昔みたく、空の色に心奪われてみたい。世界中の空を……見れたらいいなぁ」


 彼女自身に掛けられた言葉でもない。ただ彼女は望みを口にしただけだ。〝死にたい〟という望み以外を、口にしただけだ。


「その時に……」


 そして彼女は、に声を掛けた。


「久城さんは隣にいてくれますか?」


 優しい微笑みだ、氷の花の笑みじゃあない。


「いいとも。君が世界中の空を見に行くとき、付いていくさ」

「ありがとうございます」


 互いに頷き合って、また黙って海を向いた。


 先程よりも少しだけ寂しく感じる海。


 静かな波の音、優しく吹く潮風、遠くで聞こえる誰かの笑い声。


 彼女との……天音美星との二人だけの時間。私はこの時を忘れることはない、そう思った。


 そして背後から砂を踏む音がする。きっと、宮前看護師長が戻ってきたのだろう。


「美星ちゃん、はい」


 宮前看護師長は美星にミネラルウォーターを手渡し、私にはお茶を投げ渡した。


「奢りです」

「どーも」


 そのお茶はホットだった。熱い、などと誰が言ってやるものか。


「ねぇ宮前さん」

「何ですか?」

「旅に出たいって言ったら、笑いますか?」


 宮前看護師長は逡巡しゅんじゅんしたが、意を決したように頷くと。


「まさか、笑うわけないじゃない。どこか行きたい所があるの?」

「世界中の空を見たいの」


 一瞬、彼女は大きく目を見開いたが、すぐに頭を振った。


「そうね、きっと素晴らしい旅になると思う」

「うん」


 また美星は黙る。


 私は横目で宮前看護師長を見た。彼女の瞳には涙が溜まり、それを溢さぬよう必死に耐えていた。 そうして、私と美星の保護者付きデートは、終始海を眺めるだけで終わった。


 しかしそれは決してつまらないものではなく、私の大切な思い出として刻まれたのは言うまでもない。


 だから……私は信じられなかった。信じたくなかった。


 美星がその日を境に、二度と普通の生活ができなくなるなんて。

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