死望/4

 いつもの時間、いつものように私は三階のナースステーションに向かった。何名かの看護師は既に業務を始めており、私は彼女らに控えめに挨拶をした。そしていつものパソコンの前に座り、ログインをしたまさにその時だった。


「久城さん、少しよろしいですか?」


 天音氏が私に声を掛けてきたのだ。


 普段の天音氏は十時頃に出社(という言葉が正しいかわからないが)するはずだが、珍しいこともあるものだ。


「えっと……はい」


 私はログインしたばかりのパソコンをすぐにロックして、メモ帳を手に取ったのだが。


「あぁいえ、メモなどは不要ですよ」


 ははは、と天音氏は苦笑した。


「はぁ……」

「院長室で、少し」


 私は首肯してメモを置き、先に歩き出した天音氏の後に続いた。


 院長室に入ると天音氏はソファに座り、私にも座るように手を差し出した。


 私が天音氏と丁度向かい合うように座ると、天音氏はにっこりと微笑んだ。


「今日は美星といつお会いしてくれますか?」


 仕事の話かと緊張していた私は、その糸が切れてため息をついてしまった。


「どうかされましたか?」

「あぁいえ、失礼しました」


 知ってか知らずか、天音氏はそんなことを聞いてくる。


 間違いなく、美星には彼のDNAが受け継がれているだろう。


「仕事の話で何かあったのかと思いまして」

「まぁそれもあります。いきなり仕事の話だとそれはそれでつまらないと思ったので」


 ははは、と笑った天音氏をじとりと見ながら、「美星に会う時間は決めていません」と私は答えた。


「それでは、今日お昼を一緒にどうですか?」

「えぇ、是非」

「ありがとうございます」


 そこまで話すと、天音氏は深く息を吐きながら、ソファへより深く背を預ける。


「どうかされましたか?」


 今度は私が彼に尋ねた。


「どう本題に入ったものかと思いましてね」


 眉尻を下げながら答えた天音氏に、私は先程と似た緊張が沸き上がるのを感じた。


「仕事の話……ですか」

「えぇ」


 天音氏は左のこめかみに人差し指を当てながら、一つひとつ言葉を選びながら言葉を紡いだ。


「そうですね……まず、久城さんは今の業務をとても良くやってくれています」

「はい」

「何も問題は起きていない。むしろ久城さんがいてくださるおかげで、日報の印刷が一括にならなくなったし、院内のパソコントラブルもすぐに解決されるようになった」

「はい」


 彼が一体、私に何を伝えたいのか全くわからない。


 正直私が考えられる範囲では、業務に問題は見つけることはできない。人間関係についても……いやまぁ、宮前看護師長とは多少の軋轢はあるが、特に問題はないはずだ。


「今の日報の一部に関してはとても入力しやすくなったと、皆からは聞いております」

「はい」

「患者の方々との会話も、決してという乾いた対応をしない。しっかりと耳を傾け、適宜相槌を打ち、必要があれば励ます。非常に評価できる」

「はい」


 褒め殺してまでして、彼は何を言うつもりなのかと思った矢先だった。


「だからこそ、あと一か月。期間を延ばしてほしい」

「はい?」

「あと一か月、この病院にいて欲しい」


 背を預けていたソファから、今度は前のめり気味になって、彼は私を見た。


「いいえ、すみません。はっきり言います」


 そして天音氏は額に手をやって。


「もっと美星の側にいてやってくれませんか」


 今までの取り繕ったような声ではなく、祖父として……そして美星の保護者としての声。


 だからこそ私は、彼に真摯に答える必要があった。


「院長が美星……美星さんのことを大切に思っていることは、よくわかりました。ですがその申し出はお受けできません。私は……プロですから」


 私は〝より良い仕事〟をする〝モノ〟を作る仕事をしているのだ。一時の感情に任せてそれを放棄するような、安い仕事をしてはいけない。それを重々承知している。彼らと私は、あくまでもビジネスの上に成り立っている。それだけは……それだけは忘れてはいけない。


「そう……ですか。困ったことに、貴方に何か、大きな欠点でもあればこの仕事を延ばせるのではと期待していたのですがね……」


 諦めたように息を吐く天音氏を見て私は、やはりこの人と美星は血が繋がっているのだと改めて思えた。


 困ったように、残念そうに笑うその冷たくて悲しい微笑み。


 美星程深刻ではないが、けれど落胆と諦観が伝わるその笑みに、私は苦笑を漏らしながらも、本心を述べる。


「ですが……そうですね。私としても実家に帰ってくるついでに、がてらここに寄るのも有りかな、と。一週間位に一回程度になります。それでも何となくですが、彼女と話したいと……今は思えます」


 本心だ。


 あの子をただのとして扱うにしては、大きすぎる。彼女は私の心を大いに乱すくせに、それを許してしまう。

 だから、もういい。認めよう。私は彼女に夢中なんだ。だから気になるだけさ。


 悪戯好きな彼女に、儚い氷の花の笑みを浮かべる彼女に、昨日のように……触れれば壊れそうなくらいに弱々しい彼女に。


「そう、ですか」


 天音氏は私の回答に満足したのか、二度、三度と頷きながらも顔には優しい笑みを浮かべた。


「それは……良かった、と言うべきですかね?」


 困ったように問いかけた天音氏に、私は頷きながらも、「が付いてしまったと、嗤ってください」と応える


「そうですか。では、そういうことにしておきましょう。、とね」

「すみません」


 そして我々は笑い合った。しかしそれは決して、楽しいものではなかったということは確かだ。そして私がこの院長室を出ようと立ち上がっても、彼は困ったよな悲しいような……何とも形容しがたい微笑みを浮かべていた。

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