死望/3-2
「死にたいって……思ったことありますか?」
どくん、と心臓が強く鳴く。
「……ある、よ」
どの程度深刻かと聞かれれば、程度は低いが。
「へぇ?」
窓に映る私と彼女の目が合った。彼女は笑っていた。氷の花の笑みではない、嘲笑うような顔で。
「どんな時に思うんですか教えてください」
少し早口に彼女は私に再度問いかける。
「そうだね。最近なら仕事でミスをして上長に謝らせたとき、かな」
「それって、本当に死にたいって思えるんですか?」
「……あぁ、思えるよ。自分のせいで他人に頭を下げさせるのはね、とても辛いし、恥ずかしい。自分に生きる価値がないように思えてしまうんだ」
「ふうん」
彼女は嘲笑を浮かべたまま、私に向き直ると冷たい声で。
「じゃあ……今すぐ死ねるなら、死にたいですか?」
そう言い放った。
彼女にはその顔も、その声も似合いはしなかった。出来る限りの闇を込めたつもりだろうが、彼女の性格故か、あまりにも不出来だ。
それに微かではあるが私は安堵し、彼女の問いに答える。
「いいや、それはないね。困ることになる」
え、と美星はぱちくりと何度かまばたきをした。
「どう、して……ですか?」
彼女の顔から嘲笑が消える。純粋に疑問に思ったのだろう。
「私はね、死ぬということがどういうことか知ってるからだよ」
「え……?」
「君は知らないから仕方ないさ」
「……でしたら、教えてくれますか? 久城さんが知っている、死ぬということを」
「いいとも。それじゃあ近くに行ってもいいかな?」
私が冗談めかしながら言うと、美星はふわりと笑った。
「勿論かまいませんよ? どうしたんですか、らしくなく遠慮なんかして」
今までらしくなかったのは君なんだけどね、とは口にせず彼女のベッドの右隣に椅子を置き……窓を背にするように座った。
「まずはそうだな。君が思う、死ぬということを教えてくれないか?」
美星は少し目を伏せ、小さな声で話し始めた。
「二度と、会えなくなって……その、話せなくなるというか……えっと、その……」
「じゃあ君は……目の前で死ぬ人の目を見たことがあるかい?」
「……ありません」
「うん。手を握っても良いかな?」
「……どうぞ」
私は美星の手を強く握る。
強く握るという一言だとあまりにも簡単だが、これは私の記憶にある限り〝彼〟の力強さを再現した……つもりだ。
「痛い、です」
「すまない、少しだけ我慢してほしい」
じっと、伏せている彼女の瞳を見た。
彼女の黒曜の瞳に、戸惑いの色が僅かに見える。
「私は母の死に目には立ち会えなかった、けどね……父の最後は見届けられんだよ」
私が丁度仕事から帰ったときだった。母から電話があって、私はこの病院に向かった。病室は……そうだ、三階にあった。
「私が病院に駆け付けた時には、既に父の意識は朦朧としていたらしくてね。私の名前を呟いていたらしい」
そんな父の姿を見たときに、確信した。
この人は死ぬのだ、と。
「私を見るとね、父は私に手を伸ばした。それを私はすぐに掴んだ。その時の力が、これぐらいだったんだよ」
彼女は伏せていた瞳を手に向けた。
「こんなに、ですか?」
「あぁ。死の間際だというのにこんなに力強く、だ。それでね……父は何か伝えようと必死に口を動かしたんだけどね、聞き取れなかった。だけど……」
血走った両目はあまりに強く、私を捉えていた。口端からは
「だけど?」
「それでも父は、私に伝えてくれたんだ」
父のあの時の目は、いつでも鮮明に思い出せる。決して負の感情ではない。父性に満ち満ちた、紛れもない父の目。
「優しくて、力強くて、包み込むような空のような愛情。それを確かに、伝えてくれたんだ」
その時に私は、受け取ったんだ。
「長くなってすまない。私が知っている、死ぬということはね……託すということだと、父の死で思った。だからすぐに死にたいとは思わない。私にはまだ託すべき人がいないからね」
「託……す?」
こくりと頷いて。
「その人の想いさ。その想いは何でも良いんだ。その人が最後に伝えておきたい、託しておきたいと思ったことならなんでもね」
そして私は彼女の手を離す。彼女は「あ」と小さく声を出したが、続けて何か言うわけではなかった。
僅かな間、私達は互いに口を噤んでいたが。
「君もきっと……いつかわかると思うよ」
「いつか、ですか」
「あぁ、そうだよ」
「……知って、るんですよね?」
「何を?」
意地の悪い返しだったか。
「お父さんやお母さん……それに美空のこと、知ってるんですよね? おじいちゃんが話したって言ってました」
つくづく、天音氏は孫娘に甘い。こういったデリケートな話はするものではないと思うのだが。
「あぁ、聞いたよ。だから、いつか、さ。けどもしかしたら、君はもう託されているのかもね。さっきも言ったけど、私は母の死に目には立ち会えなかった。けれど母も……父と同じように、私に何か託してくれていると信じている」
その返事を聞いた美星は下唇を噛んで、私の顔を見た。その時に何故か彼女は驚いたような表情を浮かべたが、すぐにまた顔を逸らすとぽそりと小さく呟いた。
「ごめんなさい、変なこと聞いたりして……」
「別に気にしてないよ。それよりもどうして急に?」
「私、その……急に暗い気持ちになってしまって……ごめんなさい」
「仕方ないさ」
きっと原因は今朝の発作だろう。
仕事で色々な病院に行ったことがあるが、こういった患者も多かった。そんな患者と直接触れ合うことこそなかったが、それでも理由は知っている。
長期の入院患者は、長く続く治療で精神が摩耗してしまい、些細な事で死を身近に感じやすくなる。そのせいで発狂に近しい症状を起こす者もいた。
しかし私はそのことを言わずに、彼女の頭をなるだけ優しく撫でた。
「夜は人を悲観的にする。気にしなくてもいいんだ」
美星の頬が紅潮する。
「頭を撫でられるのが恥ずかしいのかい?」
「な……!」
からかうように彼女へ言うと、より頬を紅くさせた美星は唇を尖らせながら「もう……」と、あまりにも可愛らしく言った。彼女は頭にある私の手を払おうとはせず、黙って受け入れてくれた。
また少しの間私達は黙っていたが、次に口を開いたのは美星からだった。
「久城さん、私……時々本当に死にたくなるんです」
私は手を引っ込め、「うん」と頷くと彼女が続きを話すまでじっと見つめた。
五分ぐらいだろうか。ゆっくりと言葉を選ぶように、彼女はぽつりぽつりと語りだした。
「お父さんも、お母さんも、美空も。みんな死んじゃったとき……おじいちゃんとおばあちゃんはここに来なかったんです」
「うん」
その時の天音夫妻は精神的にやられていて、彼女に対して何も出来なかったと語っていた。
「それで私、宮前さんに聞いたんです。二人ともどうかしたんですか、って。そしたら宮前さん……急患が入ったみたいで、って言ったんです。嘘だなって、すぐにわかりました。だっておじいちゃんならともかく、おばあちゃんが来ない理由も、私のお父さん達が来ない理由も、それと関係ないんだもの」
美星は唇を震わせ、目を紅くしていた。きっと涙を堪えているのだろうが、何故堪えようとするのだろうか。
「私、その時……どうしてかなって。どうして元気な人達が死んじゃうんだろうって。私が死ねば、みんな幸せになるのに。私みたいなのが生きていたって……」
「駄目だ。それは間違ってる」
思わず口を挟む。
これ以上、彼女にこんなことを言わせてはいけない。こんな悲しいこと、口にさせちゃ駄目だ。
「君は生きていて良いんだよ。世界の誰も……勿論君自身だってそうさ、否定しちゃあいけない」
「でも……」
「さっきも言ったろう? 夜は人を悲観的にさせるんだ。休みなさい、大丈夫。明日の朝は発作なんて起きない。きっと優しい一日が始まるから」
「……はい」
美星は体を倒した。私は最後に彼女の頭を一度撫でると、立ち上がって戸に向かう。
「久城さん」
「何だい?」
伸ばした手を引っ込めて、彼女に向き直る。
「おやすみなさい。もしよければまた明日……お話、してくれますか?」
「いいとも。あぁでも、そうだ」
「……?」
私はわざとらしく指を鳴らした。
「今日は夢でも会おう、良いかな? 夢とは言え、アポイントは必要だから」
「ふふ……もう、からかうのはやめてください」
「君はそんな風に笑うのがよく似合う。冗談じゃなく、本気で。悲しく笑うのはもうやめたほうが良い」
「……」
少し美星は間を置いて。
「そうですね、私も……そう思います。おやすみなさい、久城さん。また夢で」
「あぁ、また夢で。おやすみ」
私が戸を開くとほぼ同時に、美星は部屋の電気を消した。カーテンを閉めようともしたが、看護師の誰かがやるだろうと思ってやめた。
らしくないことを言ってしまったな、と内心で照れながらも彼女の病室から出る。
すると戸のすぐ左側に、見慣れた看護師……いや、看護師長の宮前がカルテらしきものを胸に抱いて立っていた。
「こんばんは」
目が合ったわけではないが、礼儀として一応挨拶をしておく。ついでに腕時計を見た。今は十九時二十五分で、予約時間を少し過ぎている。もしかしたらこの事について小言でも吐かれるかと思ったが。
「……美星ちゃんは?」
「あぁ、眠るように言いました。少し……いいえ、大分不安定そうだったので」
「そう……ですか」
しおらしい宮前看護師長に不気味さを一瞬感じたが、美星の看護をずっとしてきた彼女にとって、何かしら思うところもあるのだろう。
「勝手なことをして失礼しました。今後はやめるようにしますよ」
一礼し去ろうと、足を階段へと向けた矢先。
「ちゃんと、夢でもあの子に会ってやってください。魔法使いなら」
「え?」
あまりにも唐突な彼女の言葉に私が振り向くと、彼女は背中を向けて歩き始めていた。
呼び止めることもできず、照明の落ち始めた暗い廊下を進む彼女の背中を、闇に溶けるまで私は何故か見続けていた。
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