死望/3

 天音氏にはああ言ったものの、どうしても彼女の病室に行くタイミングを見付けることができなかった。気付けばそろそろ定時を回る時間だ。


「久城さーん」

「……」


 ここの見舞い時間の終了は二十一時だが、十八時以降は予約をしておかなければならない。


「くっくっくっ久城さーん?」

「……何ですか?」

「もう定時回ってますし、今日飲みに行きません?」


 猪狩に向き直ると、彼は白い歯を見せながら私に笑みを向けていた。


 さてどうしようかと思ったが、休み明けでもあるし美星の件もあるしで、あまり悩むことなく断ることにした。


「すみません、今日はちょっと」

「そうっすかぁ……まぁまたの機会にでも」


 猪狩は執着する素振りも見せず、そそくさと帰り支度を整えて立ち上がった。何となくもう少し食い下がるんじゃかろうかと思ったのだが、あっさりと引き下がった理由はすぐにわかった。


「お疲れ様です」


 宮前看護師長の登場だった。


 猪狩とは戸の前ですれ違い、互いに軽く会釈をしていた。宮前看護師長は猪狩から私に視線を移すと、嫌そうに顔を歪めて大きくため息をついた。


 そんな彼女に、私は私で同じような態度を取って、今までパソコンから逸らしていた体をまた戻した。


 それからしばらくは互いにパソコンのキーボードを叩く音が場を支配したが、それを破ったのは予想外にも宮前看護師長であった。


「院長から聞きました。美星ちゃんと今日お話しするんでしょう?」


 やはり天音氏は孫娘に関して口が軽い。


「予約はお早めに」


 宮前看護師長はわざわざ私の目の前に、見舞いの予約票を出してそう言った。


「お気遣いどうも」


 彼女の態度に苛々しながら、私は必要事項全てを記入した上で彼女にそれを返した。宮前看護師長は鼻をふんと鳴らして受け取ったのだが、どこか寂しそうに。


「……あの笑い方だけは、やめてくださいね」と言って、このナースステーションから出て行った。


 私は額に手をやってため息をつく。これで私が今日美星に会うことは確定になる。


「下手だね、どうも」


 昔っから感情に流されやすいというか、安いプライドが高いというか。本当に私は子供だ。とは言え、見舞い予約をしたからに会いに行こう。それをすっぽかしては、あの看護師長に何を言われたからはわかったものではない。私が記入した予約時間は定時の十八時を十五分程過ぎてからだ。


 とは言え、あと少しでその予約時間になる。


 仕事の区切りも良かったので、Windowsボタンを押した後、Uボタンを二回押す。XPまではシャットダウンはこのショートカットが使えたのだが、Vista以降は使用できなくなった。


 パソコンが終了したのを見届けると、私は帰り支度を整えそのまま美星の病室に足を運んだ。


 彼女の病室の戸には『面会謝絶』の札がかかっていたが、わざわざ見舞い予約票を書いたのだからと、二度ノックする。


 少しの間の後に、「どうぞ」と弱々しい声が返ってきた。


 私はゆっくりと戸を開く。そして、瞬間言葉を失った。


 美星はカーテンの閉まっていない大きな窓に顔を向けていたのだが、その背中はあまりにも儚く、切なく、胸が苦しくなるほどに悲しげであった。


「美星……?」


 彼女の名を呼ぶと、ゆっくりと……まるで彼女だけ時の流れが緩やかになっているか如く、本当にゆっくりと振り向いた。


「久城さん?」


 生気のない、色の死んだ顔。目線は確かに私を捉えているはずなのに、私を見ていない虚ろな瞳。そして貼り付けられた氷の花の笑み。


「どうか、されましたか?」


 蚊の鳴くような微かな声を発し、美星は首を傾げた。


「いや、ちょっと……ね」


 私は誤魔化すようにそう言った。


「そうですか」


 彼女はまたカーテンの閉まっていない窓に顔を向けた。


 私も窓に目線を向ける。外は暗くなり始めており、部屋の中の方が明るいせいで、その窓には私と美星が映し出されていた。


「ねぇ、久城さん」

「……何だい?」


 彼女に近寄ることは躊躇われた。このまま不用意に歩み寄ろうものなら、彼女は容易く壊れてしまう。そんな印象を抱いたのだ。


「死にたいって……思ったことありますか?」


 どくん、と心臓が強く鳴く。


「……ある、よ」


 どの程度深刻かと聞かれれば、程度は低いかもしれないが。


「へぇ?」


 窓に映る彼女と目が合った。彼女は笑っていた。氷の花の笑みではない、嘲笑うような顔で。


「どんな時に思うんですか教えてください」


 少し早口に彼女は私に再度問いかける。


「そうだね。最近なら、仕事でミスをして上長に謝らせたとき、かな」

「それって、本当に死にたいって思えるんですか?」

「……あぁ、思えるよ。自分のせいで他人に頭を下げさせるのはね、とても辛いし、恥ずかしい。自分に生きる価値がないように思えてしまうんだ」

「ふうん」


 彼女は嘲笑を浮かべたまま、私に向き直ると冷たい声で。


「今すぐ死ねるなら、死にたいですか?」


 そう言い放った。

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