死望/2-2

 私が驚きのあまり何も言えずにいると、猪狩は口を手で押さえ。


「えっと、あー……失礼します」


 彼は机の上に置いてある資料を持って、ナースステーションから出て行った。


 残されてしまった私は、もう誰もいなくなってしまったナースステーションで一人、茫然と立ち尽くしていた。


「長く、ない?」


 呟きながら額に手をやり、深く息を吐いて椅子に座った。眩暈めまいがする。このままだと吐いてしまいそうだった。


 あの美星が、あの子が、長くはない?


 あぁけれど、両親が亡くなってから三年……入院していると言っていた。体が弱い子だと天音氏は言っていたが、あくまでも主因は精神的なもの……両親が凄惨な事故で亡くなったからこその、PTSD(心的外傷後ストレス障害)だと思っていたのだが。


 予想と言うものは、いつの世も容易く外れるものだ。


「何をしてるんですか?」


 冷たい刃物のような言葉を吐いたのは、宮前看護師長だろう。この病院でこんな冷たい言葉を私に向けるのは、彼女以外いない。


 いつの間にここに来たのだろうか。戸を開く音にすら気付かなかった。


「あぁいえ、少し眩暈がしまして」


 私は額から手を離し、宮前看護師長を見やる。眉間に皺を寄せつつ、私を見下すように睨み付けられるのは、今ではすっかり慣れっこだ。


「診察を受けてくださるなら、お薬処方いたしますが?」

「いいえ、結構です。少しショッキングな出来事がありましてね。すぐ治まりますよ、この眩暈とは大学の頃から付き合ってますから」


 はは、と短く笑ってそう言うと、私はロストテクノロジーでもあるパソコンの電源を入れ、ディスプレイに向き合ったのだが。


「やめてください」

「え?」


 突然の宮前看護師長からの制止の言葉。


「そのように笑うのはやめてください」

「はぁ?」


 全く脈絡のない彼女の言葉に、眩暈の悪心も相まってつい苛立った。私はディスプレイに向けていた体を彼女に向け、睨み返す。


「何なんですか、急に」

「さっきみたいな笑い方は二度と……いいえ、美星ちゃんの前では絶対しないでください」

「ただの愛想笑いでしょう。それにケチを付けられては、私も社会人としてやっていけませんよ」

「とにかくやめ……」


 宮前看護師長が何かを言いかけたその時。


「宮前看護師長! 美星ちゃんの意識が戻りました!」


 一人の看護師が、受付台越しに彼女に呼びかける。


「すぐ行きます。久城さん、この話はまたあとで」

「しなくて結構ですよ。どうせあと二週間でお別れですから」

「ふん、そうですか」


 互いに顔を背けた。背中越しに、苛立ちを孕む彼女の足音を聞きながら、私も乱暴にキーボードを叩いてパスワードを入力した。


 AMANE0304。


 最近は美星がどこにいても私の頭の中に現れる。挙句先日は夢の中、今日に限っては朝からだ。


 全く、どうかしている。


 そもそも彼女との付き合いなど、二週間程度だ。それも仕事のある平日、二週間ならば十日の計算だ。彼女がどうなろうと知ったことじゃあない。見知った顔に不幸が訪れるのは心苦しいが、そんなものすぐに忘れる。


 それよりも仕事だ、仕事。この仕事を完遂させて売上が出れば、数か月は私の評価も安泰だ。幸いにもこの日報システム(雑)は単純な作りだし、現状稼働している最新の電子カルテにも連動させやすい。心配していたような滅茶苦茶ナコードでもなかった。エクセルデータと連動するためのAPIもメーカーから提供されている。連携できる箇所も大分見えてきた。予定通り進んでいる。仕事は順調だ、問題ない。


 あと少しでここともお別れだ。私はするべき仕事をして、成し遂げて、またいつも通りの日常に戻るんだ。


 それだというのに何故、私はこんなにも美星を意識してしまうんだ。


「あぁくそっ」


 雑念が多いときは煙草を二、三本吸って落ち着くに限る。私は立ち上げたばかりのパソコンをロックして立ち上がって、ナースステーションの戸を開いて一階に向かった。


 朝と言うこともあってか受付は混んでいた。しかし、あの朝のようあの慌ただしさは鳴りを潜めている。


「院長様の孫娘一人でてんてこ舞いになるのも、個人経営だからかね」


 喫煙所には誰もおらず、私一人だった。一応後ろを確認してみたものの、前回のように美星に尾けられているようなこともなかった。


「……全く、もう」


 煙草に火を点けて、椅子に座った。


「またあの子か……」


 どうして、あの子は私の心をここまで搔き乱すのだろう。


 あぁいや、それは違うか。彼女が何かをしているわけではない。勝手に私が彼女を意識してしまっているだけだ。


「何故……だろう」


 ふぅ、と煙を吐きながら一人呟いてみたが、はっきりとした理由はわからない。


「若い子だから気になる……というわけでもないはずだ」


 川嶋にも言ったが、私はロリコンというわけではない。彼女が若いから気にしているというわけではない。


「おや、久城さん」


 頭を悩ませていた私に声を掛けてきたのは、天音氏だった。


「あ……」

「ここで会うのは初めてですね」


 天音氏は私の隣に腰を下ろし、アイコスに煙草を差すと口に咥えた。ふぅ、と彼が息を吐き出す。独特なミントの香りが私の鼻をくすぐる。


「すみません、あまり業務中には吸わないようにしているのですが」

「いえいえ、気にしくて結構ですよ。それよりも、宮前くんと何かあったでしょう? 美星の病室で彼女、随分貴方に対して文句を言っていましたよ」


 天音氏の言葉に私は頬を掻いて、煙草を灰皿に捨てまた新しい煙草に火を点けた。


「あの人とはどうしても合わないもので。それよりも……」

「美星のことですか?」


 天音氏は至極冷静に、彼女の名前を口にした。


「えっと……はい」


 予想していた反応とは大きく違った対応に、正直どのような態度を取れば良いかわからなかった。


「時々ね、今日のような発作を起こすんです。普段は十数分で落ち着くのですがね、今日は随分長かった」


 柔和な表情とは裏腹に、天音氏は大分疲れているようにため息をついた。


「そうなんですか……」

「また後で会ってやってください。あれも貴方に会えば少しは元気になるでしょうから」


 天音氏の言葉に私は曖昧に頷いた。


「この前の話は、あまり意識しないで欲しい……というのはやはり無理ですかね?」


 上手く返せないかと思ったものの、そこまでの話術は私にはないということは知っている。変に言葉を繕わず、素直に答えることにした。


「……そう、ですね。あの話を聞いてしまうと、どうやって彼女に接していいかと、考えてしまいます。あの子とはそんなに親しいわけでもないのに」

「少なくとも貴方は、私や妻よりも美星と親しいように見えますよ」

「そんなことありませんよ。所詮私は他人ですから」


 そう、私と美星は他人なのだ。しかもあと少しで彼女に会うこともほぼ無くなる。そんな状態でこれ以上親しくなっても、に辛くなるだけだ。


「それでも会ってやってください」

「……」


 困ったように微笑んだ天音氏の顔を見て、これ以上断る気にはなれない。


「わかりました」


 どうなるかはわからないが、お酒をご馳走になった縁もある。僅かではあるが、恩を返しても損はしないだろう。

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