死望/2

 目覚めて最初に映ったのは、見慣れない天井。ずきりと頭が痛む。それは頭を通る細い血管に、大量の血液が送られているような感覚だ。鼓動に連動して、定期的に痛むのは相変わらず慣れない。


 まぁ、二日酔いというやつだ。


 ゆっくりと体を起こして、額に手をやった。そして大きくため息をつき、私は休む前近くに置いたであろうスマートフォンを探す。それは枕元にあり、ついでに盆に置かれた水差しとグラスもあった。


「天音夫人か……さすがの気遣いだな」


 グラスに水を注ぎ、一気に飲み干す。それで少し、本当に少しは楽になった。水は思ったよりも冷たく、はっと思ってスマートフォンの時計を見る。


「十四時……? どれだけ飲んだんだ、私は」


 先程とはまた違うため息を大きくついて、無理して立ち上がる。おそらく客間なのだろうが、ここが天音宅のどこに位置するのかは覚えていない。広さは六畳ぐらいだろう。何も置かれているものはなく、ひどく広く感じる。


 ドアを開けてすぐに左右を見ると、右手に階段が見える。どうやらここは二階のようだ。左手には突き当りに一部屋、その右手に一部屋がある。私は迷わず階段を下りる。今の私には丁度良く手すりがあったので、それを伝った。


 階段を下りてすぐの場所にはリビングがあった。


「あら、お寝坊さんのお目覚めかしら?」


 キッチンに立っていた天音夫人は、身に着けているエプロンで手を拭きつつ私に笑みを向けてくれた。これに笑みを返さずして、どれに返すのか。とはいえ、頭が痛いので上手く返せないのだが。


「なにか食べられますか?」

「いえ、そこまでご迷惑をお掛けするつもりはありません。すぐ帰りますよ」

「そうなの? 昨日はかなり飲まれていたのだし、もう少しお休みになっては……」


 そんな心配されるまで飲んでいたのか……そろそろ三十になるというのに、私は何をしているのだ。


「その……あまり覚えていなくて、何か無礼をしてはいませんか?」


 クライアントに対し、酒を飲んで失礼をするなど社会人として恥ずべき行為だ。


「無礼なんてなかったわよ、ただただ静かに……旦那と飲んでいたんだもの」


 天音夫人はふぅ、とため息をつきながら頬に手をやった。


「明日からも、また美星と仲良く話してあげてね」


 そして悲しそうに言った。


 私はその顔を見て、すぐに答えることはできなかった。


「ふふ……貴方は不器用な人ね」


 天音夫人は私に椅子に座るように促すと、すぐに紅茶を出してくれた。


「上で音が聞こえたから、起きたのかと思って準備したのよ。帰るにしても、それを飲んでからにしてね。車で事故なんて、もう嫌だから」

「……えぇ、ご馳走になります」


 いたたまれない雰囲気であった。


 美星のこと、美星の両親のこと。これら二つはとても重く、私にはどうしようもできない。


 それだというのに、天音夫妻は私に知ってほしいからと事情を話した。そのことにどれほどの意図があったかを慮ることはできない。私には思い至らないものがあるからこそ、彼らは涙を流し、そして真摯に語ってくれたのだ。


「ねぇ久城さん」


 紅茶に口を付けようとしたその瞬間、夫人は私の名を呼んだ。それに「はい」と答えて彼女を見た。


「また、遊びに来てくれないかしら?」


 それにどう答えるべきか、私は逡巡する。


 あと二週間程で、私が天音病院に通うこともなくなる。それは契約で決めたことだ。打ち合わせに時折顔は出すだろうが、それでも私は社内でシステムを作らないといけないのだ。それが私の仕事なのだから。


「駄目?」


 困ったような微笑みを、天音夫人は私に向けた。


 変に期待させてはいけない。けれど、可能性は無くはない。だからこそ、私は答えた。


「お約束はできません。けれど、ご依頼いただいたシステム開発の完成目処が立ちましたら、その時にでも」


 そう答えるのが精一杯だった。


「本当に、不器用なんだから」


 困った微笑みはそのままに、夫人はそう口にした。


 そして私は、少し冷めた紅茶に口を付ける。


 少し冷めていても味は変わらず上等だったが、香りはどこか心が苦しくなるものだった。


 それに耐えきれず、私はこの紅茶を飲み終えてすぐに天音宅を後にした。


 代休明けの天音病院は、何かが違っていた。どことなくざわついているというか、空気がぴりぴりとしているというか。

受付の小川さんもそれは同じで、私を見てぎこちない笑みを浮かべながら会釈をするとすぐに奥に引っ込んでしまった。


 緊急手術が立て続けに入ったのかとでも思い、特に気にせずに三階のナースステーションに向かった。


 人は少なかったものの、話しやすい猪狩があのロストテクノロジーとも言えるパソコンに向かいながら、頭を抱えている背中が見えた。


「どうしました、猪狩さん。らしくないですよ?」


 ぽんと彼の背中を叩くと、私が思ったよりも驚いたらしく、椅子から転げ落ちてしまった。


 少し何も言えずにいたが、私は猪狩に手を差し出しながら「すみません」と声を掛ける。猪狩は私の手を取って立ち上がり、ズボンを何度か叩いて頬を掻いた。


「こちらこそすみません。あ、いや、その、それどころではなくて」


 鞄を置いて、猪狩が今まで座っていた椅子を定位置に戻しつつ、私は話し半分で彼の話に耳を傾けていたのだが。


「美星ちゃんが朝方に発作で……」

「なん!?」


 ぐっと足に力が入り、思わずここから病室に駆け出しそうになったが、それを何とか堪える。


「あぁ……ええと」


 いけない。衝動的に動いたところで、彼女の容体が良くなるわけでもない。


 落ち着け。冷静になれ。そもそも、私と彼女はそこまで仲の良い関係でもない。


「何が、あったのですか?」


 ジャケットを脱いで、椅子の背もたれにかける。


「美星ちゃんが急に痙攣を起こしてしまって。本当にちょっと前……二時間ぐらい前なんですよ」

「……そう、なんですか」


――人が死んだときの話をしてるだけじゃないですか。


 氷の花の微笑みが、私の脳裏でちらりとフラッシュを炊いて再生される。


「やっぱり……長く、ないのかな」


 ぽそりと、猪狩はそう口にした。私はそれを聞き逃すことはできなかった。


 


 彼は確かに、そう言ったのだ。

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