滅私奉公/3
天音病院で働き始め、早くも二週間が過ぎようとしていた。
私はあれから週に二、三回のペースで、天音一家と昼の食卓を囲んでいた。
周りの看護師達はそんな私にすっかり慣れてしまい、猪狩にいたっては「今日もお嬢様と会食ですか?」などと冗談めかして言うほどだ。
「久城さん?」
「ん?」
昼食を終えた金曜日。いつものように天音夫妻はそそくさと退場し、私はこれまたいつものように美星の病院に腰を落ち着けている。
ちなみに、初めて食堂で頼んだペペロンチーノは、結局オーダーミスがあったとのことで届くことはなかった。しかしその日以降はちゃんと病室に届くようになっている。
「どうかされましたか?」
「あぁいや、この病院にも慣れたなと思ってね」
この二週間、昼食以外にも美星とは毎日会話をしていた。彼女は私が仕事中だというのに遠慮なく話しかけてきたし、誓約書の件もあり無視をできなかったというのもあった。
そんなことが続いたからだろう。当初彼女に抱いていた悪印象は、私の中からはすっかり消え失せていた(そもそも悪印象と言うのは正確ではないかもしれないが)。また、彼女以外の患者からもよく声をかけられるようになり、私はこの環境にいつの間にか安心感を得てしまっていた。
「最近色んな人とお話ししてますもんね?」
「君が気楽に話しかけてくるからだぞ」
やれやれと頭を振るが、彼女は反省するでもなく、くすくすと笑った。
「そういえば、
笑顔から一転、彼女はしょんぼりと肩を落とした。彼女に貸したのは、東野圭吾の〝私が彼を殺した〟だ。
「犯人はね、猫なんだよ」
「え!?」
彼女は丸い瞳を大きく見開いて、私を見る。
「冗談だよ」
「もう!」
そんな何気ないやり取りに、二人して笑みを溢す。
「変な嘘吐かないでください」
「冗談だとわからない方が悪いのさ」
口を尖らせた彼女を見て、私は先程とは違う笑みを浮かべる。
この天音美星という少女は、本当に純粋な子だ。
人の話には楽しそうに耳を傾け、少し冗談を言ってみると疑いもせず信じてしまう。表情もころころ変わり、それを見るのは、正直私にとって癒しに近しいものがあった。
「だからモテないんですよ、久城さんは」
「余計なお世話だ」
天音夫人に似て、人をからかう悪癖があるのが玉に瑕だが。
「そういえば、今日はご実家に戻られるんですか?」
「そうだけど……その話はしてないよね」
「久城さんからは聞いてないです。おじいちゃんから聞きました」
本当に天音氏はこの孫娘に甘い。大したことではないが、
「何しに帰られるんですか?」
「実家を片付けないといけないからね」
とは言え、先週のうちにその片付けはほぼ終わっていた。職場の人達にも手伝ってもらい、彼らが欲しいと言ったものは、大部分を無償で提供した。
ただ、やはりベンツだけはどうしようもなかった。誰もが欲しいと口を揃えては言ったが、それでも維持費などを考えると、結局手を挙げた者は誰もいなかった。それに、無償で渡すにしては高級過ぎるため、いくらか貰う話をしたのも原因の一つだろう。
「久城さんのお父さんとお母さんて、どんな人だったんですか?」
「ごめん、聞いてなかった。なんだって?」
「久城さんのお父さんとお母さんが、どういう性格だったのか教えてくださいますか?」
「どう、と言ってもなぁ……」
顎に手をやり、少し考える。
「父は昔気質の豪快に笑う人で、母は体が弱いけど愛想の良い人、だったかな……」
よく考えれば、我が家にはよく笑い声が響いていたと思う。そんな中で、何故私だけ表情筋が固めになったのか、甚だ不思議である。まぁ年齢相応に、愛想笑いは得意なのだが。
「まぁうん、よく笑う人達だったというとこかな」
「そうなんですか……」
「君のお父さんとお母さんはどんな人なんだい? 見かけたことないけど、忙しい人達なのかい?」
この病院で働いていないことは、あの日報システムで承知済みだ。
ということはだ。この病院で働いていないのか、それとも違う仕事をしているのか。どちらだとしても、見舞いに来ないのは、きっと何か理由があるのだろう。
と、この時の私は軽く考え口にしたのだが。
「死にました」
彼女の返事は予想以上に簡素で、そして重いものだった。
「あ、その……すまな……」
「交通事故で死んだんです、私の双子の妹も一緒に。私のお見舞いに向かう途中で。私は高熱を出していて、この病院に入院していました」
「美星、いいんだ。そこまで詳しく話さなくて……」
しかし彼女は首を振って話を続けた。
「よくある話ですよ。居眠り運転をしていたトラックが、車線をはみ出して正面からぶつかった、だそうです」
「だからもう……」
「三人とも即死だったと後から聞きました。おじいちゃんからもおばあちゃんからも、三人の最後の姿を見ない方が良いと言われました」
「美星、もういい!」
思わず、声を荒げてしまっていた。
私は額に手をやって、大きくため息をついた。美星の顔には、見慣れた氷の花の笑みが冷気を醸すように張り付けられていた。
間違っている。私は直感的にそう思った。
彼女は今何か、致命的な間違いを起こした。何故、どうして、どこが、どのようにしてかはわからない。どうすれば良いのかもはっきりとわからない。けれど、それでも私は、気付かずに声を出していた。
「それは、違う」
表情はそのままに、美星は首を傾げた。
「何がですか?」
美星はやはり表情は変えない。
「悲しいことを、笑って話す必要なんてないんだ」
美星は、ただでさえ丸いくりくりした瞳をより大きく見開き、ぼうっとするように宙を見ながら。
「悲しいことではないですよ? 人が死んだときの話をしてるだけじゃないですか」
私が言ったことこそ間違いなのだ……と、彼女は告げた。
※『私が彼を殺した』 著:東野圭吾
講談社(文庫版など含む)より刊行。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます