滅私奉公/2-3

 水筒から紙コップに注がれたお茶は、匂いからして以前いただいた紅茶だろう。


「これはどうも」


 私は香りを愉しみながらそれを口に運んだ。


「おばあちゃん、私にもお茶ちょうだい」

「はいはい」


 天音夫人は美星の分も注いで、それを彼女に渡した。


 その時に彼女のテーブルをちらりと見ると、ほとんど食事に手を付けてはいなかった。


 単に遅いだけかとも思ったが、結局我々の食事が終わっても彼女はそれ以上手を付けなかった。


「美星もごちそうさまかい?」


 天音氏の言葉に、美星は苦笑しながら頷く。


「これ以上食べられないかな。ごめんね、もっと食べないとってわかってるんだけど」

「仕方ないさ」


 天音氏は立ち上がり、「あとはお若い人同士で」などと言って、私が何かを言うまでもなく夫人と共に去って行った。


「……」

「……」


 急に取り残された私達を待っていたのは、当然の沈黙だ。


 さすがにあと三十分以上黙っているわけにもいかず、私は何か話題がないか考えた。


 そこで、彼女が本を読んでいたなと思い出す。


「そういえば、何を読んでいたんだい?」

「え?」

「私が来る前に何か読んでたろう?」

「あ、えっと、はい……これを」


 彼女は私にその本のカバーを外し、表紙を見せた。表紙には今時のイラストで、可愛らしい青い髪の女の子が描かれていた。


「〝この素晴らしい世界に祝福を〟?」

「はい。表紙が可愛いからって、おばあちゃんが買ってきてくれたんです」

「へぇ……」


 アニメ化もした作品であったが、これをあの天音夫人が買ったと思うと、少しだけおかしくて笑みを溢してしまった。


「知ってるんですか?」

「まぁね。私はオタクだからさ」


 ゲームが好きで私はプログラマーを目指したのだが、ゲーム会社からは内定を貰えず、今の会社にいる。そんなこともあり、ゲームやアニメにはかなり知識があると思っている……などとはっきり言うのは恥ずかしいが。


「も、萌えとかですか?」


 彼女なりの精一杯な発言だろう。正直ひかれてしまったのかもしれない。


「ゲームが好きでね。それが興じてアニメも詳しくなったって感じだよ。気持ち悪いだろう?」

「あ、そういうことじゃないんです!」

「はは、まぁキモいとかは言われ慣れてるし素直に言ってくれて良いよ。ところで、これのアニメは面白かったけど、本はどうだった?」

「面白かった……ですよ?」


 美星は首を傾げながら答える。


「あまりライトノベルは読まないのかい?」


 私は彼女からその本を受け取り、それをぺらぺらと捲っていく。アニメでも見たことのあるシーンの挿絵があって、また私は微笑みを零す。


「そう、ですね。あんまりこういったのは読みません」

「ふぅん。普段から読書は?」

「よくします」

「今まで読んだ中で面白かったのは?」

「十角館の殺人がとっても面白かったです!」


 身を乗り出しながら彼女に驚いたものの、私はそのまま話を続ける。


綾辻行人あやつじゆきとさんのか。それは私も読んだよ。最後の一行が、ね」

「はい! 膝を打つなんて、言葉通りの意味がわかったのは初めてです!」


 彼女は袖机からその本を取り出して、また私に見せた。私はライトノベルを返してその本を受け取った。


 この小説は、とある建築家が建てた奇妙な館で起きる殺人事件をテーマにした作品だ。出版されたのはかなり前で、スマホやインターネット等が存在しない時代で話が進んでいくのは、とても新鮮だった。


「読み込んでいるね」


 本の所々に折り目があったり、手垢も見られた。それだけで彼女がこれを何回も読み返しているのだろうということは、容易に想像できた。


「久城さんもよく読書を?」

「働き始めてからかな、よく読むようになったのは。学生の頃はそれよりもゲームだったり友達と馬鹿やってることの方が楽しかったら」

「そうなんですか……」


 しょんぼりと肩を落とした理由はわからなかった。


「私はね、太宰治の人間失格が好きなんだ」


 とりあえず本の話をまた彼女に振ってみると、彼女を宙を見た。


「知らないかい?」

「その、知ってるんですけど……久城さんに合わないなって」


 くすりと彼女は笑った。


「ひどいな、私はこれでも恥の多い生涯を送ってきたって言うのに」

「あ、有名な冒頭部分ですね?」

「そうだよ。〝恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。〟、この部分がね、とても辛くて好きなんだ」

「どうしてですか?」

「読み終えてからこの部分を見直すとね、この主人公は最初から最後まで、人間というものに憧れて……いや、違うな。彼が描くに弄ばれてきたというのかな。彼だけ、あの作品ではあまりにも人間然としているのに、それが異質に見えて、愛しく思えるんだよ」


 あの作品の主人公は彼らしい、もしくは彼が考えたを演じ、最後にはそれすらする。それらを知った上であの冒頭を見ると、どうしても同情を禁じ得ない。


「久城さんって、もしかして結構根暗ですか?」

「はは、ずばっと言うね。まぁ確かに、根暗な方だということは認めるよ」


 苦笑しながら彼女を見る。は溶けることなく、彼女の顔に張り付いている。


「今度何か持ってきてあげようか? と言っても君は読書家らしいし、ほとんど持っているかもしれないけど」

「本当ですか!? 久城さんからお勧めしてくださるのなら、何でも嬉しいです!」


 この子はどうして私をここまで持ち上げるのかわからないな。悪い気はしないけど。


「十角館が好きなら、ミステリーとかサスペンスがいいかな?」

「何でもかまいません!」

「じゃあ明日、持ってくるよ」


 スマホの画面を見ると、そろそろ昼休みが終わるころだった。私は椅子や机を片し、彼女に手を振って去ろうとしたのだが。


「あら」


 がらりとノックもせずに戸を開けたのは、あの宮前看護師長であった。


「まだここにいらっしゃったんですか」

「今から戻るところですよ」

「患者と必要以上に接しないでくれますか?」

「それは失礼。誓約書には、〝患者に声をかけられた場合、無視をしないこと〟と書いてありましてね」

「は? そんなこと……」


 不機嫌そうに言った彼女だったが、僅かに目線を泳がせて。


「いえ、そうでしたね。確かに誓約書にはそう書かれていました。ですがそれでも、です。特に美星ちゃんは女の子なんですから、いい歳をした大人の貴方が彼女に近付き過ぎるのは、あまりよろしくありません」

「はは、そうですね。次からは控えますよ。それでは」


 彼女の脇を通って、私は美星の病室を後にする。


 本当に、あの師長とだけはウマが合わない。あと一か月、とにかく大きな問題さえ起きなければ良いなと、知らずに大きな嘆息を溢していた。


 そして私は、再び旧時代のパソコンと、互いに勝負の付かないにらめっこを始めた。



※『十角館の殺人』 

 著:綾辻行人

 講談社(文庫版など含む)より刊行。

※『この素晴らしい世界に祝福を!』 

 著:暁なつめ

 角川スニーカー文庫より刊行。

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