滅私奉公/2-2
思ったよりもソースコードは読みやすく、この日報システムの解析は午前中で大分進んだ。おそらく今日中には大まかなデータの流れは理解できるだろう。
パソコンに表示されている時計を見ると、十二時ニ十分と表示されていた。私は固くなった体をほぐすように立ち上がる。
「あ、お昼行きます?」
そんな様子を見た猪狩はすぐに声をかけてきた。
「えぇ。二階の食堂に」
「わかりました。そういえば、私が昼から仕事が入ってしまって……代わりに宮前師長がここにいることになりました。その、まぁ……上手くやってください」
「ははは。そうですね、まぁ上手くやりますよ」
愛想笑いを浮かべつつナースステーションの戸を開くと、そこには天音氏がいた。
「こんにちは」
少し驚いたように言った天音氏に、私も彼と同じように「こんにちは」と挨拶を返す。
「今からお昼ですか?」
「はい。天音院長もですか?」
「えぇ。折角ですから、ご一緒にどうですか?」
さてどうしたものかと一瞬考えたが、権力者とコネを作っておくのも良いと思ったので、誘いを受けることにした。
「お邪魔でなければ」
「邪魔なんてそんな。美星も喜びますし」
「はい?」
何故あの子が出てくるんだ?
「いつも昼は、妻と美星と一緒に食べるんですよ。美星は病院食ですが、私達は二人とも弁当でして」
「ということは、美星さんの病室で?」
「えぇ」
これは面倒なことになった。
「あ、えっと、それではやはり邪魔になるのでは……」
「いやいや。前も言いましたが、あれは貴方に懐いていますから。それではまた病室で」
止めることも出来ず、私は黙って天音氏の背中を見送った。
「久城さん、院長にも気に入られてるんですね」
背後から猪狩は能天気な口調でそう言った。
「あ、美星ちゃんの病室は三〇三です。一階のコンビニで買うか、二階の食堂の人に言えば、美星ちゃんの病室まで持ってきてくれますよ」
私は彼に向き直る。
「そんなサービスがあの食堂にはあるのですか?」
「あー……ははは、何といえば良いんですかね、ほら、院長の孫娘様の病室ですから」
「猪狩さんも何度か?」
「私はないですね。というより、宮前師長だけですよ、よく彼女の病室で食事をするのは」
「へぇ……」
「だから食堂の人も慣れてるんですよ。院長も食堂の人には話を通してあるんで、三〇三号室に持ってきてくれと言えば了承してくれますよ。ま、これもマイナールールってやつです」
「そうなんですか」
仕方ない。ここで「やっぱりやめた」等と言っても、印象を悪くするだけだ。
気持ちは重かったものの、私は二階の食堂に向かった。もっと混雑しているのかと思ったが、意外と空いていた。
「意外だな。昼はもっと混んでいると思ったが」
素直な感想(文句を言ったつもりでは決してない)は口に出た。母の見舞いの時に、昼時間を外して利用していたので、ここの勝手はよく知っている。
ここは券売機で食券を買う形式の食堂だ。さすがに病院ということもあるのか種類は少ないが、その中でも私はペペロンチーノを選んだ。別に何がなんでも食べたいというわけではなかったが、スパゲティコードやら猪狩の発言のせいで気になってしまっていた。
ここの食堂は食べ物の種類ごとに並ぶ場所が決まっており、手前から『飯・丼もの』、『和麺』、『洋麺』、『甘味』と別れている。種類が多いわけでないのに、細かく分ける必要があるのだろうかと思ったが、まぁ混むときもあるのだろう。
食券を従業員の女性に渡すとき、「三〇三の病室にお願いします」と私が言うと、彼女は驚いたような顔を私に向けたが、すぐににっこりと微笑みながら頷いた。
本当に通じるのか、とは私の正直な感想だ。
「孫娘に甘いな、あの院長は」
やれやれと思いながらも、先程下りてきた階段を再び上がり、天音美星の病室に向かった。
彼女の病室は院長室から右に二つ挟んだ先にあり、個室であった。やはり院長の孫娘ということもあり、優遇されているのだろう……が。あの子は話し好きなようにも見えるので、個室にしてしまうとよりストレスが溜まるのではなかろうかと、心配する義理はないものの思ってしまった。
二度戸をノックすると、「どうぞ?」と疑問系の返事が返ってくる。戸を開ける前に、「久城だけど、いいかな?」と彼女に問いかけた。
「あ、久城さん? どうぞ」
彼女の声は僅かに弾んでいるように聞こえた。
「失礼します」
戸を開けた先の美星は、私を見るとあの氷の花の笑みを浮かべた。
「どうかされましたか?」
美星のベッドテーブルには質素な病院食が置かれており、彼女はそれにまだ手を付けていなかった。ベッドを半分起こしており、手元には小説らしき本が見える。おそらく天音氏が来るのを待っていたのだろう。
「院長から誘われてね。お昼をご一緒させていただくことになった」
訪ねた理由を説明し、私は椅子がないかを探す。
「あ、椅子はこっちにありますよ。机はえーっと……」
彼女はベッドの上で首を動かしながら、「そこにあります」と窓際に折り畳まれた机を指差した。
「ありがとう」
私はまず机を彼女の右隣に設置し、丸椅子を一つ取って窓を背にして座る。
ふぅ、と細く息を吐いたところで、私と彼女は目が合った。目が合うと彼女はそれを逸らして、視線を泳がせながら髪の毛先を
「すまないね、落ち着かないだろう?」
「あ、いえ……その、男性の方と一緒に食事するの初めてで……」
頬を紅く染めた彼女に、私は顔には出さず内心微笑む。
なるほど、個室は個室で正解なのかもしれない。彼女はまだ十六歳で思春期真っ盛りなのだ。他の人の目が気になる年頃なのだろう。
「本当に落ち着かないのなら席を外すけど……」
「嫌とかじゃないんです! 居てください!」
そこまで力強く言われると、その気はなくても照れてしまうのが男心だ。
「そ、そうかい。ありがとう」
「えっと、はい……」
二人して目を逸らすと同時にノックがし、天音夫妻が現れた。
「おや、若い人達の歓談の邪魔だったかな?」
天音氏がからかうよう言った。
「駄目ですよ、あなた。そんなことを言っちゃ」
天音氏の背後から夫人が言い、「ごめんなさいね」と付け加えながら、手際よく食事の準備を始めた。
「久城さんは美星の隣にどうぞ。若い人が近くにいたほうが落ち着くでしょうし」
天音夫人はそう言ったのだが、つい先程まで落ち着かない等の話をしていた手前、私は苦笑を浮かべるしかなかった。
「すまないね」
一応美星に謝罪したものの、彼女は俯きながら首を横に振るだけで答えない。
「まぁ。この子ったら照れてるのかしら?」
旦那にからかうなと言っておきながら、夫人は美星をからかった。このような所が美星に似たのかもしれない。
席位置は、美星のすぐ右手に私が、私の右斜め前に天音氏が、そして私の正面に天音夫人が着いた。
「おや、久城さんのはまだですか……」
天音氏が言ったものの、机の上に私のものを置く余裕はなさそうだ。
「どうぞお先に。机の上も一杯ですし」
気を遣って言ったつもりだったが、天音夫人は頭を振って言った。
「いけないわ。久城さんも一緒にお弁当食べちゃいましょ。あそこは出てくるのが遅いときもあるし。いいわよね、あなた?」
「あぁ、それでいいよ。あとでお金はお返ししますから」
「いや、でも……」
「お願い、今日は少し作り過ぎちゃったのよ、ね?」
断りづらい文句と笑顔だった。私は嘆息し、「それでは……」とその好意を受け取ることにした。
「ふふ、今日はおじいちゃんもおばあちゃんもなんか元気だね?」
美星は笑って言ったが、それはもしかしたら困った私を見て浮かべたものかもしれないと、何となく思った。
「それじゃ食べましょうか?」
天音夫人の言葉で、我々は「いただきます」と声を揃えて、食事を始めた。
「さぁさぁ、どうぞ?」
「あ、どうも……」
天音夫人が持ってきた弁当箱は二段の重箱で、確かに老夫婦二人分にしては量が多い。
一段目は色とりどりのおにぎりで、二段目はこれまた色とりどりのおかずがぎっしりと敷き詰められていた。
とりあえずおにぎりを食べて見ると、それはとても美味しかった。
「美味しい……」
この前のお茶もそうだったが、天音夫人は料理上手なのだろう。
「良かったわ」
ほくほくとした笑顔を浮かべている夫人を前に、私はおかずに箸を伸ばした。唐揚げ、ほうれん草のお浸し、卵焼き、ミニハンバーグ、芋の煮っころがし、どれもこれも本当に美味であった。
「やはり若い男性の食いっぷりを見るのは良いねぇ」
はっはっはっ、と笑いながら天音氏も箸を伸ばしていた。
「久城さん、お茶もどうぞ」
水筒から紙コップに注がれたお茶は、匂いからして以前いただいた紅茶だろう。
「これはどうも」
私は香りを愉しみながらそれを口に運んだ。
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